「日高町誌」より

「日高町の文化財」へ


昭和52年12月10日発行
発行者 和歌山県日高町


 日高町中央公民館のご厚意によりお送りいただいた「日高町誌」に記載されている徳本上人に関する記述部分を抜粋して紹介したい。


上 巻


216p 
第二編 通 史

近世略年表


 1758年  宝暦8年  ・徳本上人生まれる。(6月22日、志賀谷久志村田伏家「日高郡誌」)


下巻

495p
第九編 民 俗 誌
 第一章 野の神仏と人々との結びつき〜民間信仰について〜
  第一節 民間信仰の姿


 人の一生には雑多な悩みが生ずることは昔も今も同じである。現在のように医学、交通といった科学技術が進み、社会保障、社会福祉制度が発達している社会でも人間生活にはもろもろの悩みが生ずる。すなわち、病気、出産、育児から始まり、干ばつ、風水害などの自然災害、そして不漁、商売不振など、このようなとき人々は「おぼれるおのワラをもつかむ」「苦しいときの神だのみ」のたとえどおりあらゆる手段方法を講じようとする。あちらこちらの御利益があるといわれる神仏に熱心に祈願が行われ人事を尽くして天命を待つということが今でも行われている。
 このように民間信仰というものは人々の日常生活と密接に結びつき、それがひとつの習俗として、現在も生き続けているのである。現実の生活は厳しく、種々の危機と挫折に直面する。そうしたときは、深遠な教理をひっさげ大規模な祭儀や修法を行う組織的な宗教より、おおげさな手続きもいらず、即座に悩みを託せる親しめるより身近な神仏に救いを求めることは昔も今も変わりはない。今日の民間信仰は、原始的な民間信仰とそこから導かれた氏神信仰を基にして仏教、儒教、道教ときにはキリスト教などが伝来し、土着するなかで派生した俗的な雑信仰を広く包含し、極めて呪術的要素をもったため人々の生活意識と密着したのであった。したがって、自分の生活に少しでも利益があるものには進んで近寄り信仰したのである。また同じ神仏であっても信仰する人々の生活様式とか、環境やそのときの願いに応じてもろもろの現実的目的をもって崇拝したのである。そして、信仰や御利益の内容も神仏の方から与えられるのではなく祈願する人々の方から求められ、固定され、また流行的に変化していく姿を持っている。したがって、民間信仰は上世の世界や、極楽浄土を求めるものは極めて少なく、 大部分は現世利益を望み、求める姿をもっている。このような見地から野の神仏とのぞぼくな結びつきをながめてみたい。
 またこういった民間信仰のなかで今も消えることなく大事に守り続けられている講についてもその姿を捕らえ記述してみたい。
(梶田註:冒頭の記述である。宗教そのものについては門外漢の私も、宗教を求める、あるいは宗教を求めざるを得ない庶民の生活、時代背景について知りたいと思っている。徳本上人の行状から、その一端でも窺い知ることが出来れば幸いだと思っているし、期待している。)


500p
六 久志の地蔵さん


 昔徳本上人の生家の人が、久志から比井に通じる久志坂に化け物が出没して通行者を困らせたので、化け物から通行人を守るために祀ったと伝えられている。今は、子育ての神として乳幼児をもつ母親が乳が出なくなったとき乳を地蔵さんに預けて乳の出るのを祈願すると乳が出るという信仰が続いている。この久志地蔵尊は一枚石に地蔵菩薩と観音菩薩の2体が浮き彫りされた双体像であって、双体像という点で東日本のほうに多い道祖神像とよく似ている。
 8月23日の夜の地蔵盆は、久志区の行事として盛大に行われ近辺の人たちも多数お詣りしている。昔はもち投げの行事もあったが、今は子供たちに菓子を配っている。

 (写真=「久志地蔵」1葉あり)


七 上志賀17曲がりの地蔵さん

 久志地蔵と同じように、昔、徳本上人の生家の人が上志賀から由良町阿戸に越す山道の17曲がりに、魔物が出没して行路人を困らせたので、通行人を魔物のいたずらから守るために祀ったと伝えられている。道祖神的な性格を持ち久しく信仰されてきたが、道路整備と自家用車の普及という交通革命により、この山道も今では通行する人もなく、地元の人以外は余り知る人も少ない。地蔵さんは上下2体祀られていたが1体は上志賀の妙願寺に移され、残る1体は由良湾を眼下に今もなお立ち続けているが、ときには花一輪でも供えて往時を忍ぶこともたいせつではなかろうか。




下 巻

869p
第十編 宗 教 誌
 第二章 寺 院 
  第三項 浄 土 宗

 浄 土 宗

 浄土というのは、苦しみや、悩みのない、仏のいる、清らかな世界のことで、あみだ、釈迦、薬師、弥勒など浄土を持っているといわれ、中国の隋、初唐のころから、あみだ信仰が盛んになり、いつのころからか、西方浄土が中心になってきた。東アジアで、浄土三部経と言われる中の、あみだ経では、あみだ仏と、極楽とを、簡潔に述べていて、一心乱れず、名号を執持したら、命終に際しあみだ仏の極楽浄土に往生できると書いてある。(中略)
 日高町には近世まれに見る、念仏の大行者徳本上人が誕生している(別記参照)また高家には称名寺という寺院があるが、日夜称名して清らかな、しかも美しい、心となって、一日一日の家業の上に、清らかさを積み重ねて、幸せな、現世一生を送られるよう、精進努力したいものである。


880p

○誕 生 院


一 名 称  誕生院 浄土宗 鎮西派 紫雲山

二 所在地  日高町大字志賀字久志2556番地

三 開 基  文政7年 150年前

四 (歴代上人)法系図
  徳本…天碩…本仏…本岸…本仁…本乗…称務…徳門…澄男

五 沿革史(寺歴)
 念仏の大行者徳本上人の開山となす。文政3年ごろ小祠を建立し徳本上人を祀っていたと相伝しているが記録がないので確証し難い。
 文政7年9月大阪市の船場、長堀の日課弟子並びに講員60余名当地に小堂を建立誕生庵と称し大阪出身の徳本上人の弟子本岸あん主となっていた。
 天保2年2月下富安の廃寺浄安寺と改称するようになった。
 天保7年3月徳本行者の誕生地につき誕生院と公称するよう紀伊徳川藩主より許可があった。
 ことに大納言徳川治宝は深く上人に帰依され、嘉永4年12月紀州大10代徳川治宝の命により本堂を再建した。
 慶応元年大原より観音堂を移し、明治22年信州善光寺の一光三尊仏を祀る如来堂を建立して現在に至っている。

六 規 模
○土 地
 境内地 1654平方メートル 墳墓地 56平方メートル
 境外地 山林 26378平方メートル
○建 物

 
形 式
 
  造  葺     建  坪
建築年代
本  堂
 
木造平屋瓦葺き 124平方メートル 嘉永 4年
観 音 堂
木造平屋瓦葺き  12平方メートル 昭和39年
庫  裏
木造平屋瓦葺き 161平方メートル 明治33年
善光寺堂
木造平屋瓦葺き  61平方メートル 明治22年
附属建物
木造平屋瓦葺き  12平方メートル 明治22年


七 仏 像

名  称
造作
座像・立像
製作年代
本 尊
阿弥陀如来
木造
立 像
不 詳
わき像
観音・勢至両菩薩
木造
立 像
不 詳
両大師
善導・法然
木造
座 像
江戸時代
徳本上人
木造
座 像
江戸時代

 
八 寺 宝 銘 文
 徳本行者絵伝外7点
 徳本上人御遺品26点
 徳本上人開眼一光三尊仏
 本仏上人木像1躰
 扁額下書軸物1幅

九 例祭会式法要

時 期
主 催
参集者
組 織
備 考
 
4月中旬
誕生院
志賀地区
有 志
万霊講
0月上旬
念仏講 日高地区 講 員 祥月法要


十 講

念仏講
観音講
組  織
有志集合
有志参講
人  数
十数人
数 名
講 日
 
毎月の5日夜
毎月の17日夜
目  的
和讃奉詠
和讃御詠歌奉詠
内  容
心行の修練
心行の修練


十一 廃寺廃あん
 誕生あん並びに浄安寺を廃して誕生院と改称

十二 寺内の石造建造物
 1 徳本上人十念名号塔
 2 徳本上人誕生地記念碑
   (参道入口左側、旧志賀村学生会により、昭和3年建立)

(写真=「誕生院」1葉あり)



923p
七 萩 庵


 大字萩原、奥谷池の東隣に在り、現在は柑橘畑となっているが、その下方の地を庵の下とも呼ばれている。大河谷へ通ずる小径を上ると、御影石に彫刻された徳本上人霊跡の標柱石が建立され、片隅には風化された数基の石碑が一列に並べられている。昔から祠堂があったのかもしれない。
 萩庵は天保9年、教演(さつき)という、善女が建立したもので、さつきは、もと江戸紀州御殿に仕えていた女中頭であったという。部下の失火により、責任を執って放浪の身となり、藩主の国和歌山に追放された。当時江戸屋敷にいた。崎山源四郎と言う藩士に種々配慮を受け日高の萩原で修業するよう説得せられ、この地に来たのである。
 教演は藩の同情により、3両の金子で、3畳の祠堂を建立して余生を念仏修行に傾注しつつあったが、明治3年入寂した。建築物は3回の台風で破損したが、紀州御殿から御料金が下賜され修復したという。
 教演死亡後、明源尼(萩原出)が法脈を継ぎ、明治32年、3間に5間の御堂を建立した。
 明源尼は、その後十余年、苦修練行に努めたが、明治43年生涯を閉じこの地で示寂した。
 明治44年以後後継者なきため閉鎖し、同45年萩原安楽寺に合併し、建造物、什器、仏像等も移転された。
 安楽寺境内左側の建物は萩原庵であるという。
 萩原庵についての関連事項
 福田行誠著、徳本行者伝よりその一節を抜粋すると、
 千津川の苦行も6年、今から行脚しようと思いつかれ寛政3年御年34歳の10月、落ち合い谷の草庵を出発され、東内原の萩原を通られた。里人が大勢で、「どうぞ、此の地で御化益を」と袂にすがり引き止めまいらせた。やむなく、それではと足を留められた。谷の奥に庵を結んだ。農作業を終えて夕方から村人が多く集まって、御念仏を申した。村人等が帰った後で毎晩2里(8キロ)ばかりの道を、あるきながら念仏された。時には険しい亀山の坂道を上り、亀山城址で戦死者の霊を弔われた。

 (写真=「萩庵(現存)」1葉あり)



1013p
第十一編 文 化 財
 第一章 日高町の考古史跡
  第五節 その他の遺跡

三 徳本上人誕生遺跡
    (県指定文化財)

 久志誕生院石段下、寺に向かって左側に南北役0メートル、東西に約16メートルの長方形の土地を画して東に石階を設け、それより西に向かって幅1.8メートルのコンクリート道をつけ、西端に横3.3メートル、奥行き2.3メートル、高さ1メートルの基段を設け、その上に長さ1.4メートル、厚さ0.4メートルの自然石を置き、その上に高さ1.96メートル、幅0.76メートル、厚さ0.15メートルの碑を建てている。碑の正面は、
 徳本上人御誕生之地
        浄土門主 考誉
と刻み、また裏面は、
 御誕生 宝暦八年六月二十二日
 御遷化 文政元年十月六日
   昭和三年十一月建之
     発起人 志賀村学生会
と刻んでいる。
 宝暦8年6月22日、この地においてただ平凡なみどり子が一人産声を上げた。ただ異なっていたところは極端な知恵遅れの子供であったと言われる。これが後世暴君観自在公を済度し、時の帝仁孝天皇をはじめ天下諸侯の帰依厚かった不世出の念仏行者徳本の出生の姿であった。
 この記念碑は昭和3年に志賀村学生会の手によってこの地に建てられたが、これが建設にまつわる話は次のとおりである。
 志賀村学生会は、寺井久信(元日本郵船社長)が発案し、井上吉次郎、稲葉浅吉らが賛同して、志賀村出身の学生相互間の親ぼくをはかり相互研修のために発会した団体である。発足は恐らく明治末〜大正初めごろであろう。
 ところが昭和の初めになって、川瀬貞三、玉置修の二人が発案し、徳本上人の顕彰と遺跡保存のため、誕生地の買収と記念碑建設の事業を開始した。基金は寄附によるものとして募集を始めると、宇恵吉蔵、玉置大次郎、寺井久信、稲葉浅吉ら高額の寄贈者も現れ、村内各区よりの寄付金を合わせ千三百余円の基金が集まった。このとき「貧者の一燈20円也寄附申候、井上吉次郎」という手紙付の寄附もあり、エピソードとなっている。うち300円をもって用地3畝6歩を持主三沢宗太郎より購入し、整地、施設いっさいに800円、計1100円ですべてを完成、残りを誕生院に寄贈したといわれる。
 なお碑面は百三歳の長寿を全うし、一代の名僧の誉れ高かった山下現有大僧正の筆であり、裏面は浄恩寺先住尾上光純である。

 (写真=
「徳本行者出生地」、「徳本生家の裏庭」の2葉あり)


四 上人くつ(隣接地)
(美浜町指定文化財)


 日ノ御埼の突端より東へ約500メートル歩いた地点に高さ3メートル、奥行き3メートル、間口4メートルくらいのどうくつがある。ここは寛政8年秋行者がここにこもられて三七、21日間の別時念仏を修された遺跡である。
 このどうくつを上人くつと呼び、この位置を明示するため直上100メートルの位置に高弟徳因の筆になる歌碑が建てられた。しかし戦後になって観光地と化した日ノ御埼は心ない人たちによって荒らされ、碑は倒され山中に放置されたままになっていた。それを海上自衛隊紀伊警備所が建設工事(昭和50年、約30メートル西の元御崎神社社地に移設した。) ここに現在、御崎神社跡地(鳥井の柱を利用した標柱)と並べて建てられているのが次の歌碑である。
 花崗岩を台石として、上に高さ130センチ、横幅25センチ、奥行き27センチの同質の花崗岩の碑を建て、正面に、
 此の崎
  南無阿弥陀仏を唱うれば
   弥陀も誓ひに碍る物那し
と記し、その下に、
  吾師徳本行者寛政中に□
  此所にて 三七日夜念仏して
  大鮫及異類済度の地也
  此□の詠□なれ
そして向かって左の面には
  遺弟徳因□識
右の面には
  文政壬午□春建焉
と記されている。字体から見ると南無阿弥陀仏と7字は徳本上人の書体で、他は恐らく高弟の徳因の書であろう。碑の来歴は他の偏で述べる。

 (写真=「上人くつ付近の展望」1葉あり)


第二章 石造建造物
 第二節 その他の石造建造物
  一 室町以前の石造遺物

1026p
一四 萩原の板碑

 奥谷池のほとりに高さ155センチの徳本上人霊蹟の石柱が立っている。その下に五輪の地輪と水輪が4個ずつ、縦32.7センチ、幅12.5センチ、縦36センチ、幅10.5センチの2基の板碑が立っている。
 今まで述べてきた板碑は年号の記入もなく、年代は不明であるがほとんど同一形式である。したがって年代もほぼ一定であろう。恐らく室町以前と推定される。


二九 徳本上人十念名号塔

 志賀誕生院にあり、敷地面積56平方メートル。結界3.4平方メートル。その中に磯辺より採取したと言われる玉石を敷きその上に4段の台石を重ねその上に仏石を建てている。台石は初段四角形一辺1.5メートル、高さ37センチ、二段、六角形一辺61センチ、高さ38センチ、三段、六角形一辺46センチ、高さ40センチ、表面に日課弟子中、裏面に文政十年八月建之、裏面左横に大阪松屋町石工六兵衛の文字が刻まれている。四段は、蓮華型、高さ33センチである。
 仏石は、蓮弁形高さ197センチ、厚さ33センチ、横幅は上部で91センチ、下部で58センチである。花弁の上部は天蓋、中央に大小二名号を刻み、左右には小文字にて各々四名号ずつ八名号を刻して計十念名号となる。
 また両わき、左側には天碩上人塔、右側には本岸和尚塔が建立されている。石材はすべて良質の花崗岩を用い、彫刻者は大阪市南区松屋町(末吉橋)に住んでいた石工六兵衛である。
 この名号石は念仏の大行者徳本が文政十年十月六日江戸一行院において遷化、その後文政七年九月大阪の日課念仏誓受の弟子並びに念仏講員60余名が上人の慈恩奉賛のため生誕地に誕生庵を定めて位牌所と定めた。そして庵の西側にある上人幼時の行場上方に十念名号石を建て御遺髪並びに御舎利を塔内に安置奉納した。それがこの碑である。

 (写真=「徳本上人の墓」1葉あり)


三〇 普門院登り口の名号石

 ほかに院内に恐らく墓碑と思われる名号石が2基ある。登り口のものは海岸か川原より運んできたと思われる高さ約97センチの砂岩をそのまま用い、名号を筆太に刻み、下に徳本花押となっている。この碑は石の龕に納まっており摩滅もほとんどなくりっぱである。

 (写真=「普門院登り口の名号石」1葉あり)


三一 柏峠の名号石

 高さ41センチの砂岩製で、正面に名号、徳本花押、側面は船玉海上安全、世話人柏邑藤田重蔵とあり、前に四角な石鉢が置かれている。

 (写真=「柏峠の名号碑」1葉あり)


三二 池田庚申堂の名号石

 高さ70センチ、自然石に刻まれ、名号、徳本花押となっている。


三三 小坊子峠の名号石

 県道トンネル南口付近にあり高さ72センチ、自然石で、名号、徳本花押と刻まれているのみでほかになんの記録もない。なおこの名号石から文字を写して立てたのが美浜町新浜の念仏松の名号石であるといわれる。


三六 誕生院の手洗石

 「本乗和尚遺徳之碑」のすぐ近くに手洗石のあるのが目についた。手洗石はどこででも見かけるありふれたおのであったが、中央に大きく「清浄水」と刻み、その左右に「摂州灘」「平等講」と二行に彫りつけた文字のあるのが興味をひいた。
 というのは灘呉田の人、吉田道可が熊野詣りの途中、有田郡須ヶ谷山頂で行中の徳本上人から十念を授かったのが機縁となりその子喜平次も寛政九年四月に須ヶ谷に来て上人から十念を授与された。また同年秋には上人が喜平次方に留錫し、越えて寛政十年八月には再度喜平次方を訪ね、7日間の別行を修した。さらに上人が三度喜平次方に赴かれた時は、喜平次は所有した住吉の北赤塚山という松山に、一宇の草庵を造って上人留錫の所とした。
 徳本上人の大阪方面化益の最初は、まず喜平次との結びつきが機縁となり、この北赤塚山草庵から始まったとみてよい。上人遷化して百数十年を経た今も、阪神方面には熱心な徳本の帰依者が残っているが、決して故ないことではない。
 私は手洗石に刻まれた「摂州灘」「平等講」の文字を見るや、ゆくりなくも昔よんだ福田行誠上人の「徳本行者伝」や井上豊太郎先生の「念仏大行者徳本上人伝」中の吉田可道父子との美しい遭遇を思い起こして感慨を新たにしたことであった。恐らくこの手洗石も誕生院建立をきいた阪神の信者が心をこめて寄進したものに違いない。(清水長一郎巡拝)

(写真=「誕生院の手洗石」1葉あり)



三七 徳本墓地の石階

 本堂を拝んだ一行は更に誕生院に隣接する徳本上人の屋敷跡を訪ね、屋後の上人の墓地に足を運んだ。この写真はそのとき屋敷跡から墓地に通じる小径の石段に刻んであったものである。そのは生い茂る木立の下でうす暗いため、刻まれている文字がはっきりしないが、正面のところには、

西

とあり別の面には

西
奉納

とあった。□□の箇所は文字が風化してついに読み得なかったが、いずれにしてもこの5名の人々によって、石段が奉納されたことを物語るものである。比井浦は江戸時代には回船の根拠地として繁盛した所であるが、この港の船主や魚商人の豊かな経済力がしのばれる。(清水長一郎碑巡拝)

 (写真=「徳本墓地の石階」1葉あり)


三八 徳本行者名号碑

 一 所在地 長野市 善光寺境内
 善光寺本堂西側に東向きに二重の切石を重ね、その上に自然石を重ね、それを基壇として高さ目測1.5メートルの石碑が建っている。東に向いた正面には、徳本独特の筆跡で「南無阿弥陀仏」と刻まれ、一見して徳本の名号石であることがわかる。また裏面には、上に「徳本、花押」下右に「願主当所大門町西川九兵衛」中央に「為先祖代々菩提」下左に「預良性院慈厳代」とあり、信者が先祖代々のぼだいを弔うため善光寺に寄進したものであることは確かである。また北面には「文化十三年龍集丙子五月」とある。
 岡本鳳堂著「徳本行者」によると、徳本は文化十二年三月十二日北国巡教の途中善光寺に参詣しており、この書は恐らくそのとき書かれたものであろう。この地高山の大雄寺、上高地の近くの徳本峠にも徳本の名号石が建っているといわれる。
 なお長野県志賀高原は徳本上人の命名と伝えられている。

 (写真=「善光寺境内の名号石」1葉あり)


四二 日高町内の標石

一 遺跡に建てられた標石
 2 徳本上人霊跡 比井王子神社境内

二 道標
 3 誕生院(道標)これは名号石となっている。3基(名号石の項参照)







第三章 埋蔵文化財

1064p
三 徳本上人真跡名号(誕生院蔵)

 

一心不動の名号

 絹地金襴表装タテ165センチ、横幅60センチ、紺紙に金泥で書かれており、紀州藩主の面前で執筆されたものと伝えられる。

 (写真=「一心不動の名号」1葉あり)


1096p
付録 日高町の古文書目録

書  名
年  代
数量
所蔵者
徳本上人御名
塩崎 是
徳本上人行状記
文化元年9月
徳本上人御名号
浄恩寺
徳本上人直筆名号
江戸時代
野尻 隆
徳本上人行状和讃
文政3年11月
徳本行者伝
慶応3年
徳本上人御状由来
不  明



第十二編 人 物 誌

1207p
65 徳本上人


 御法号を名蓮社号誉称阿弥陀仏と申されている。専修念仏の行者で、苦修練行の体験を通して自然人の低次な世界からはるか遠ざかった高次の空間に住む上人となられた。自行の峻烈なことは極寒のよく鉄石を裂くがごとくであり、化他の慈愛は雨露、太陽熱のよく草木を愛育するのに似ている。聖はよく聖を知るというが、凡人にはその深淵な芳躅の一端も窺知できない。したがってこの文中において徳本を見いだすことは不可能である。真の姿はこの範囲外で求めていただきたい。
    徳本上人略系図
 桓武天皇(人皇50代)―葛原親王―高見王―高望王―良 文(畠山の始祖)―忠 頼―忠 常―将 桓―武 基―武 綱―重 綱―重 弘―重 能―重 忠―重 秀―義 純―泰 国―基 国―満 家―持 国(徳本、弟持富│――政 長│―久 俊―刑部介右衛門―與 作―伝 介(初代)―伝 介(二代目)子義就│―尚順―三太夫 │――武 助(養子)―兵 助―助三郎―重 介―義 助―重 治│―三之丞(徳本)


     正覚寺合戦

 今から約五百余年前、室町時代のころ、京都を中心に応仁の大乱が起こり、全国の各地方にまで多大の波紋を打ち寄せた。十余年にわたる戦乱も多くの大将はもちろん、勝元、宗全が相い続いて病死したことにより、両軍の部下将兵は、逐次戦闘にあき、文明九年に、それぞれの兵を引き連れて地方に帰還した。
 長期戦にあき疲れた庶民から、京都で戦争することに強く抗議された。畠山政長及び義就はともに自国である河内の国に帰り陣を敷いた。(略系図参照のこと) 義就、政長いずれも文明九年京都を出発して河内に入り、若江城を根城として周辺一帯の土地で京都に引き続き相互に勢力争いを繰り広げた。八尾・久宝寺・正覚寺の地域は大和川をはさんで、当時の戦場としては、地理的に絶好の条件が具備されていたので、しばしば合戦の場として利用されていた。
 文明九年十月政長の部将遊佐長直のたてこもっていた若江城に対し、義就は八尾城から攻撃を開始して十月末に城を陥落せしめるという猛進撃であった。
 文明十五年遊佐長直は正覚寺に帰り、翌十六年五月には政長自身が正覚寺に入り、誉田城の義就軍に対抗し同年十月長瀬川と平野川の中間に出向いて、八尾市植松に陣を換えるなど出没間隙ないくらい両軍の戦闘が続行されている。
 その後義就は病気で倒れ、その子義豊が後を継ぎ大将となった。一方政長は義豊が弱勢に傾きかけてきた情勢を察知し、一挙に征服して河内平野全域を手中に収め野望を実現しようと企てた。まず将軍に請願して堂々と征伐を実行して目的を達成しようとした。
 将軍義稙は地方の豪族がわがままであるのを抑圧する手段方法として政長を利用した。
 将軍義稙は畠山尚順、赤松政則らといっしょに明応二年二月十五日京都を発し河内に下って正覚寺に到着、ここを本陣とした。
 一方畠山義豊は誉田城に陣を構えた。その間、先代畠山義就に恩を受けていた大和の国の部将たちは報恩の機会到来せりと恩義を忘れず味方した。勢い立った義豊は三月数度にわたって攻撃を繰り広げ進撃を続けた。将軍義稙自ら正覚寺の大庭にたち突入して来た敵兵に対し必死の防戦をしたが、勢いの波に乗った敵兵の乱入を阻止することが不可能となった。政長はついに防ぎ切れずとみてひそかに我が子尚順を呼び再興を図るよう説得して夜陰乗じて脱出し紀州に落ち延びることを指示した。
 政長は将兵といっしょに最後の酒宴を催し離別を惜しみながら切腹自害して果てた。遊佐長直は陣屋に火を放ち後の始末を見届けながら政長の後を追うように死を急いだ。将軍義稙は時期を失したのか城から逃れ、後に降参した。
 以上が正覚寺合戦の大要である。正覚寺城は真言宗の大寺院で現在は公園となり、人家の近辺樹木の中に政長の五輪の塔が建立されている。



    紀州と畠山氏
 

金屋町には鳥屋城があり、その昔、湯浅党に属していた石垣氏が南北朝時代に築城したものだと伝えられ当初は石垣城と呼んでいた。元来外山は人里近い山の意味で鳥屋の文字を借用したのだという。標高300米の山城で明徳のころ大内義弘が支配していた。
 応永六年大内義弘が大阪の堺で叛乱した時畠山基国がこの乱を平定したのでその功績により紀州を賜り、鳥屋城も畠山の所有城となり、基国の弟満国が城を修復して居城とした。管領職であった畠山持国もこの城に来て本陣としたこともあった。
 享徳元年に畠山持国は管領職を辞し紀州に下向しているが四年ごろには政長と義就との抗争が激しくなって鳥屋城主であった教重は最初義就の与党で参戦していたが情勢を見て畠山政長に従うようになった。
 大阪の正覚寺合戦に敗北した政長の長子尚順は部下の井上弥九郎光則に伴われて有田郡の広に住み兄弟協力して再挙を図った。弟に当たる久俊は数度徴兵勧募のため日高郡を訪れた。時に日高町久志に一女あり、たまたま来たりこの女子を見て深く愛しついに妾とした。
 (写真=「正覚寺山門」1葉あり) 
その後有田地方に在った一族将兵をことごとくまとめて河内山城の国を目指して出発した。進撃中、細川、三好の軍勢と合戦したが、久俊は紀州に帰還せず、合戦中死亡したものと推定されている。妾は妊娠中であったが後一男を安産した。後年自ら刑部左衛門と称して天正時代の合戦に参加して織田、豊臣の敵軍を悩ました。そのころ蓮如上人は諸国を遍歴して宗門の弘通に努めていた。離別の悲しみに明け暮れしていた刑部左衛門の母は蓮如上人に拝謁してその宗風に帰依して道場を開いた。
 刑部左衛門其の子介右衛門ともに本願寺顕如上人を助けて家名の再興を図ろうとして和歌山の雑賀党に組した。
 天正十年の春信長兵を挙げて顕如上人を攻撃したので上人は紀州の鷺の森に移った。紀州の門徒は鷺の森にこもってよく防戦に努めているうちに六月二日信長は京都の本能寺で家臣明智光秀に殺され敵軍引退のため九月末ごろ日高に帰還した。
 天正十三年豊臣秀吉紀州攻めを開始し、根来、粉河、太田雑賀、日高、弁婁等の豪族を平定降伏せしめ、副将秀長に紀州を与え岡山に城を築き国政を執ったため、手出しすることあたわず、老年に至り百姓となった。
 久志の一農民となった畠山の子孫は畠山を伏して田伏と改姓し、後年すなわち天保十三年紀伊徳川家に勤務していた吉田伊三郎の後を継ぎ吉田姓を名乗って江戸にいた。明治維新の大政奉還後郷里に帰り耕種を営んでいたが重治の代に至り明治四十四年渡米、現在に至っている。
 畠山久俊から七代目三太夫の世代となった。妻は和田村の塩崎マサ、後年智円尼と呼ばれている。夫婦の間に男子が産まれないことを嘆いてひそかに三宝に祈請の至誠を捧げていた。そのうち、ある夜夫婦ともに同じ夢をみるとともに夢中に仏心が顕現して告げるには「汝等日夜男子なきを嘆くが益々三宝を祈願せよ。」とのありがたい霊感をいただいた。夫婦は終日農耕から帰宅すると、身体を清め、姿を整えて小池の大日如来に礼拝して入山から鐘巻の道成寺へと歩を運んだ。六十二段を上り仁王門をくぐって本尊十一面観世音菩薩に祈請参拝三七日間精励怠ることがなかった。その霊験御利益があったのか宝暦七年九月十五日の婦人は蓮華をのむ夢を見るとともに懐妊したという。
 十月十五日の夜胎内の蓮華の茎葉が成長していく姿を御覧になられた。十一月十五日には「汝を守護する。」と告げながら小池の大日如来が来現された。十二月には夜中夫婦とも蓮華の馥郁たる芳香に接して驚いて夢から覚めたという。翌年一月蓮花の中に童子が座しその周辺に衆僧が集まり讃嘆し給う夢を、六ヶ月目の夢には一枚の起請文を携えた老翁が現れ、七ヶ月目に道成寺の本尊十一面観世音菩薩が来現、宝暦八年四月には屋上に紫雲がたな引いてその中から霊鳥が飛来したと夢みた。九ヶ月たった五月十五日夜諸仏、諸菩薩が現れて歓喜せられた夢に目が覚め十ヶ月目を迎えると地蔵菩薩が室内に現れ童児とともに嬉戯する様を夢の中に感得したと伝えられている。
 以上の夢の記が終わると同時に胎動し始め宝暦八年六月二十二日の正午異香室内に満ち蓮華の初めて開花するように誕生せられた。童名を三之丞という。目に重瞳があり双眸輝き晴夜の星のようであったと伝えられている。
 幼時、すなわち宝暦九年八月十五日の夜姉に抱かれながら向かいの山嶺からさい出る中秋の名月の玲瓏たる光景をながめながら初めて南無阿弥陀仏と自称せられ兄弟を感嘆せしめたという。徳本の書判の中に月を配して、「鬼ころす心はまるく、田のうちに、南無阿弥陀仏に、うかぶつきかな」の歌を唱えられて、名月の面影を留めている。
 宝暦十一年上人四歳の秋遊び友達であった深海寅之丞が急病で一夜のうちに死んでしまった。友達の死に驚き泣かれた上人は「隣の児は何処へ行ったのか、又会う事があるのか。」と母上に聞かれた。母堂は「既に死せる者、いかでか又会う事が出来ようか。」と答えられたのを聞いていたく驚き平常仲睦まじかったのに再び会うことができないとは、ああ悲しいことであると泣きさけばれた。母はみるにしのびず「およそ死ということは貴賤男女、賢愚老少生命ある者の誰一人免れるものはない、但死んだものが帰ってくるという理由もない、今の離別を嘆くよりは一刻も早く阿弥陀仏に頼り奉りてお念仏を称えれば極楽浄土で逢うことが出来よう。」と諭し教えた。
 (写真=「徳本上人御生家明治四十三年壱百回忌記念」1葉あり)
 懇切な母の教えが幼い子の肺腑にしみ込み、浮世の頼みがたさに恐怖の心が生じ、いつとなくお念仏を唱えられるようになったという。徳本老年になってからも四歳の秋の無常感をしのばれ、「徳本は日本一の臆病者、死ぬのを恐れて阿弥陀仏々。」と口唱せられた。
 明和三年の春九歳で出家したいと両親に談したが嫡子であるが故に許してもらえなかった。しかし至孝の志が深く自分から欲求せず時機の到来するのに期待をかけてしんぼうを続けていた。
 明和四年十歳のころから数珠を袖に入れて日課念仏を修しそしり笑う人があると、今にも無常が来るのにと仰せられた。世の無常を歌った詩に
 
一 若くとも無常の風が誘いなば
      辞退したとて許しやせぬどよ。

二 烏なく唯どというてあとすさり
      後からくる無常しらずに。

三 無常またさきをきらうをよく知りて
      うしろから来て連れてゆくどよ。

 以上は言葉の末に残されている。
 (写真=「生家に安置していた似顔像」1葉あり)
 安永二年上人十六歳の夏ごろより横になって眠ることなく仏に誓って朝夕のお勤めには線香四本を時限として高唱念仏し、夜が明けない時は草鞋を作って巡礼道者に布施していたという。
 求道の志操いよいよ深く、祝祭日や農休の日には後ろの山麓にある洞穴に入り姥目樫の根株を木魚となし念仏礼拝せられていたが、安永四年の酷寒雪多く降り囲炉裏の前に座して焚き火の折り年老いた回国行者来たりたるにより寒い折柄しばらく火にあたり給えと勧められた。行者は上人の顔を見ながら、「君の相好凡人ではない、後日世の為人のために善知識となり給う、これを与えるからよく読みなさい。」といって文一枚を差し出した。これはかたじけないと受け戴き読み始めたひまに老翁はいずこえともなく消えるように姿がなくなった。降り積もった雪の道、足跡もなくあとを追うこともできなかった。しかしこの一丈こそ浄土宗元祖法然上人の一枚起請文で智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべしと結んでいる。徳本の歌に

 我わただ念仏の徳わ知らねども
   祖師の教えを守る徳本。

 徳本のこの一枚起請文を得られて後は往生極楽の明証これにすぎずと申され、南龍公(徳川頼宣)の父母帖とともに護持して肌身離さず、法話はすべて一枚起請文であったと。
 安永五年の早春父三太夫病魔の犯すところとなり医薬を遠く和歌山市に求められた。片道60キロの山河を越えて行かなければならなかった。午前4時ごろに久志を出発上志賀の大池のそばかr17曲がりを越え畑からは又水越峠を通り過ぎ井関に下り、湯浅から糸我峠を過ぎると有田川を渡河し蕪坂にかかる。加茂谷の市坪、橋本から藤白越え、海南の黒江坂から紀三井寺、和歌山と道のりは長い、和歌山で薬を求めて夕方には必ず帰宅せられた。父の病悩が重くなると隔日に薬を求めて孝養の限りを尽くされたが、薬石の効もなくついに三月二十五日命終せられた。上志賀の大池の尻に住居していた猿渡さんの家には徳本上人が休憩中に書いたという直筆の一枚起請文が残されている。現在は御坊町に住居を移し御坊小学校で勤務していた。親子100年間も精勤したまじめな人柄で校舎の北側にりっぱな顕彰碑が建てられている。
 父亡き後は農事に親しまれ、鋤・鍬を手に念仏し裏山から狼烟山登って薪を採る時も南無阿弥陀仏を樵歌の代わりとした。害虫の駆除にも念仏、施肥は田畑の一カ所に与え畦畔を巡行念仏するだけで平等に肥効があったと伝えられている。また草の根や木の実を食料にあて後日の苦行に堪える準備をする一面、月ごとに小池の大日如来、鐘巻の道成寺に参詣して出俗の祈願をせられた。
 安永七年の秋、河内の正覚寺を訪れて先祖代々の由緒について調査せられた。
 天明四年の春財部の往生寺に行き大円大徳和尚について得度し五戒を受けられた。大円和尚は来た井崎村小浦出身の方で徳本号を許し記念に仏説阿弥陀経を授与した。
 若し善男子、善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞かば、名号を執持して、心に信じ口にとなうること、若しは一日、もしくは二日、若しくは三日、もしくは四日、若しくは五日、もしくは六日、若しくは七日、一心にして乱れざれ、その人命の終わる時に臨みて、阿弥陀仏もろもろの菩薩とともに現じて、その人の前におわしまさん。この人、命おわるとき、心、顛倒せずして、すなわち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得ん。と読経念仏すると本尊阿弥陀仏如来御長一丈ばかりとなり歩み寄って上人の頭をなでられ、仏前の花瓶に蓮が生え四〇日ばかりして開花・金色の光明が燦然として輝きを放った。御年二十七歳六月二十七日初めて出俗の望みが成就したのである。
 翌天明五年の春大滝川(川辺町)の月照寺を訪れ、当時念仏和尚と称せられていた大良と三十日間昼夜をわかたず経行念仏の別時を勤められた。一日の食料は炒麦粉一合というわずかな量であった。大量は四日間は勤めたが耐えきれず退出落伍した。徳本は懈怠なく三十日を完全に満了せられた。今も月照寺の前方に丸山という小丘が残っていて一部削り取って公民館前広場となっている。大滝川の奥に滝があり道路の分岐点に碑が建てられていて、

 大滝の清き流れは徳本の
    聖の道を永久に伝えて。

と彫刻されている。また月照寺前方の高い山の七合目と思われるところに岩穴があり、徳本の念仏行場として知られている。
 (写真=「大滝川の行場」「落合谷の水行場」各1葉あり)
天明四年の九月には和歌山と大阪の境界地にある大川浦の報恩講寺に参籠して「今より塵境を塀絶して跡を林丘に隠し、苦行就りて利益を四海に及ぼさん。」と祈求せられた。
 承元元年十二月法然上人赦免の後讃岐の国から大阪港に上陸の際強い西風にあおられ荒波の中を油生浜に漂着した。この時大川浦の豪族孫右エ門をはじめ村人達本願念仏の御化益をこうむり帰依渇仰して措く所を知らず。法然の帰途をおし止めて名残を惜しんだので、その志を感ぜられ桜の木に自らの姿を刻まれ浦の人たちに授与せられた、という因縁の寺院であることはよく人の知るところである。 ある夜の夢に十一面観世音菩薩が現れ「我が処に来て修業をすれば利益多からん。」とのお告げをこおむった里人の案内で探し求めたのが落合谷で確かに夢と一致する場所であり、白山権現を拝すると十一面観世音であった。これこそここに留まって修業せよとの菩薩の御指図であったのかと感泣、袖をしぼられた。
 天明六年二月十七日、千津川落合谷の老樹は森々と立ち並んで、昼なお暗く中津川と津木の境界の高嶺には真っ白い雪が積もっていた。苔むす巌の間には、珠と砕ける谷水が音を立てて白滝のように躍っていた。人煙皆絶の地野鳥の鳴き声が樹間に聞こえる太古の神秘をはらんだ仙境である。渓流に臨んだ岩敷の上で念仏の声をからして礼拝しているのが徳本であった。
 身には裙、肩に七条の袈裟姿である。朝は丑の時刻に起き出でて水垢離を取った。身を動かす度に水沫はとんで鮮血がにじみ出た。咽喉は破れて声はかれ歯は動いて言葉にならない、ただ念仏だけはかろうじて言えた。総身痛傷あれでよく行がつづけられることだと思われるほどであった。後年に至り人に語られた言葉に
 (写真=「落合谷尊光寺内の額」「上人堂(尊光寺)」各1葉あり)
 「仏道修業は、一旦の艱難をしのぶのが大事也。三ヶ年の後に至りては如何なる難行の場に至りても、一身痛悩するほどの事はなきもの也。法蔵比丘の仮令身止諸若毒中我行精進忽従不悔、と誓いたまえるを、ましてや、我等が修業これに比すれば、かぞえるにもたらず。」
と仰せられた。
 千津川の落合谷に移られてから六年間一日一万遍の五体投地の礼拝をせられ、行は体力でやるものではなくて、信力、信心の力で体力を励まされてだんだん不思議な力を発揮せられるようになった。
 「何事も一道を貫かんとする者は、艱難苦行を経て、錬磨を重ねなくては、其妙処に到るものではない。何事も初めは難き事に思うけれ共、漸くにして、おのずから平易の場に至るものぞや―」
と仰せられているのはこの間の深く体験せられた真味である。
 (写真=「萩原の上人庵跡」1葉あり)
 永い苦修練行のうちに、受胎以来の胎毒が下り、清浄身となり、自然身体も軽く群参の人々にお十念を授けられる時、ひらりと屋根の上に飛び登られるほどになった。これを堺に苦に悩む人間徳本から、人間を超越した仏界の徳本となった。同じ裸形で破れ衣の徳本も中味では天地の相異で、徳本が仏になることはできぬが、仏が徳本になってくださると言われた一大至言は、実にこの間の消息を如実に物語っている。
 「人間徳本」の皮を脱いで法体徳本に生まれ更られた後も昔ながらの草庵で村中の男女、走りでて、「どうぞこの地で御化益を。」と袂にすがり、「何卒ここに止まって我等が後世を助けたまえ。」と懇ろに請い申し上げた。余りの懇請に断りかねた徳本、奥谷池のほとりに草庵を結んで留錫せられた。
 農家の男女、昼は農耕に忙しく暇がないが、夕食、点灯のころからたくさん集まり念仏した。村人たちの帰った後は二里ばかりの間を毎夜遊行念仏せられた。それで付近一帯の疫病は屏息し、丸山にあった亀山城跡の陰火も徳本回向の後はそのこともなくなり遊塊も得脱したのであろうと語り合ったということである。
 今草庵跡は柑橘畑になっているが徳本上人霊跡の碑が建立せられている。この大河谷池東側の地に天保九年教演という善女が萩庵を建立していたが明治末期後継者なく安楽寺に合併した。
 萩庵から大河谷を上って約800メートル行ったところに小さな滝があり徳本上人の行場である。萩原で二ヶ年間おられたその間、しばしばここにこられて修業を続けられた。「ぶにっぽ」といって巌壁に深さ10センチ直径8センチの穴がありその中で家の炒り粉を水でねって食していたという。向こう側から投石してこの岩穴に入れば仏果があると伝承されている。
 萩原から塩津に移られた、寛政五年は夏季三ヶ月間も雨がなく、県下至る所で雨乞いの祈祷をしていた。徳本は神社裏の谷山で念仏を申されていたが、村人たち是認が集合して懇請した。たっての願いにこたえて豆の粉を食糧に用意し、「雨の降るまでは誓ってこの座を立たない。」と暁から念仏を始められた。その日の午後四時、雷鳴とともに雨が激しく降ったが一時間でからりと晴れ上がった。その時上人の仰せられるには「この旱魃はみなの業に対するむくいであって三宝のおはからいの外である。」といって雨乞いの念仏を止められた。その後も数日雨が降らず、人々は、上人のお言葉のそら言でないのに感じ入ったという。
 加茂谷津田の滝に竜が住んでいるとの伝説を聞かれて御十念や名号で転生せしめたということで、三郷の八幡神霊との法楽がある。八幡神霊が上人の前に現れ、「請人が様々の願いごとをして苦しんでいる。どうか法力を得て威光を倍増するよう。」とすがられた。後日夜の夢に大神が御斎を御供養申し上げる由のお告げがあった。翌日御膳を運んでくる者があった。上人はうやうやしくお受けし御礼に神前に行かれると、同じ御膳が神前に供えられてあった。
 徳本塩津に滞在中神社のそばに住んでいたという若い女性二人、本名、本勇尼と号して弟子となり、漁夫の老人徳本の念仏を身につけることにより、命終には塩津湾上に紫雲がたな引き、金色の網目がその中に顕現して妙なる光明遍照の世界が展開されたという。
 (写真=「三郷八幡宮」1葉あり)
 加茂神社より紀三井寺に至る山道の右側に柳谷の池がある。山の幾つもの谷間を取り入れて造った用水池で初めてながめた感じでは、魔の池としか思われない。池の左側の上方に上人の旧跡が残り、碑には、
  勤めたる しるしにのこす法明寺
    誰もしりたる南無阿弥陀仏
と彫刻されてる。現在の教徳寺の場所に法明寺があったが廃寺となり、遺品は極楽寺に移し同時に徳本上人堂を建立している。塩津の西方に突出した岬がありその根本に露峯という家がある。徳本が谷山で修行中、世話したり、食事を差し上げたので形見にもらったという遺品が保存されている。
 (写真=「須ヶ谷行場跡」1葉あり)
 寛政六年五月法然上人の御廟に参詣するため京都へ出発せられ、知恩院、比叡山、黒谷寺の旧跡を巡拝せられた。
 同年九月熊野三山にお参りのことを思いたたれて塩津を出発せられた。熊野参りは遠く藤原時代から盛んになり、白河法皇の院政時代には宗教的効果を超越して貴族の遊びに変わってくる。寺院の貴族化、仏法保護のため僧兵が養われ、僧兵が神社の神木や神輿を担ぎ出し神仏習合の芽を出した。神社の中に神宮寺が建てられて神は仏法の供養や功徳を喜ぶと考えられた。
 これがさらに発展して本地垂迹説になる。すなわち神の本地は仏で、日本の神様は仏が垂迹したものであると思考するようになり神の名に八幡大菩薩とつけて魔には仏がかりに姿を変えて現れたものであると信じるようになった。熊野の本宮には素戔鳴命と阿弥陀如来、新宮では速玉命と薬師如来、那智山には伊弉諸命と千手観音というように神仏が同処に祀られていて参詣者としてはまことに好都合である。徳本が新宮の祭礼に神馬に十念をお授けにあったことや、串本の二色で病人を救ったり、田辺の会津川で魚族に法施せられたことなど枚挙にいとまがない。
 寛政六年十一月或日の夜半にわかに今から吉野山の奥で修業しようと錫杖を持って塩津の庵をでた。加茂の岩屋近くにあった橋本神社で休憩中に本勇、本名が後を追って来ると、薫香の中に阿弥陀如来が威光を放っているのを拝見し石段からころげ落ちたという。後年信州善光寺の弁瑞上人は徳本は弥陀の化身であると弟子たちに申されているのがこの時分既に仏身となあられていたものと思われる。
有田郡宮原村の須ヶ谷村を通過の時栄助という農夫が徳本の前でひざまづき、「今日は亡き母の命日なれば恐れながら今宵は我が家で。」と頼まれた。「それはありがたい御志である。」と所望にまかせられた。栄助は徳本に帰依渇仰すること肉身が如来を敬礼するようで奉仕供養は心を尽くしたという。
須ヶ谷の岩室山は巖石を畳あげたような険阻な嶺を持っていて、文亀二年畠山政氏の城であったが長経あと戦って落城したという。土地の人々は魔所といって恐れ登る人もなかった。初めは中腹のすべり岩というところで居たが後には絶頂の南面岩上に一坪余りの段地に草庵を作らせて「此処こそ空閑独処にはよき道場なり。」と申され三ヶ年の修業を積まれた。岩室山頂には城主のため慰霊碑が建立している。
 有田地方は畠山基国が応永七年(1400)守護となってから、畠山定政の天文十三年まで約140年にわたって金屋にある鳥屋城並びに広村の高城で一族が世話になった因縁の地で須ヶ谷から南広の上中野にある法蔵寺に請待せられ法筵数日に及んだと伝えられ、同寺山門前の丘陵上に徳本の名号石が残っている。
 徳本上人の草庵から東方谷を隔てて尾根の中腹に本勇本名の碑があり、おさがり場といってそこまで降りて来て下方までは来られなかった。
 修行中双角の妖女が現れたり、後世上人井戸といって水がわき出でたり、岩の上に蓮華が生えるなど奇瑞がたくさん相伝されている。また有田蜜柑にすすがついて百姓が難儀しているのを見て念仏の力で駆除したことなどは人のよく知るところである。
 (写真=「三尾の行場」1葉あり)
 徳本が十介といった青年のころ田井の田端家で奉公をしていたそのころから三尾の弥惣兵衛と友達であった。ある日のこと十介は袖を広げて左の袂を見せると地獄が見え、右の袂をのぞかせて極楽浄土を見せた。その後弥惣兵衛は発心してよく仕えたという。
 寛政六年七月十二日夜日ノ御埼ではにわかに大風起こり高波のため漁船は破損して漁夫多数溺死し助かった者は100分の1、死体が揚がったもの30人という大惨事が起こった。おおぜいの亡者は雨の夜ごとに海上に火玉となって現れ、大声で慟哭するありさまであった。三尾から参られた人の話を聞き亡者慰霊のため寛政八年八月十四日より三七日間磯辺の岩屋で念仏を修せられた。九月五日比井唐子の漁師外川吉之丞の船にて下向せられ、唐子の天然寺に立ち寄られ一座の念仏をなし有田の草庵に帰られた。
 この修行中荒波がにわかに起こってその中から鰐魚の頭が現れた。頭上には青緑色の苔がはえ、鋭い眼をしていたという。俗に徳本の鱶退治といっている。
 文政五年の春、江戸浅草称往院の徳因という弟子が三尾日ノ御埼に建碑し左記の文を彫刻している。
  このみさきに南無阿弥陀仏を唱うれば
     弥陀のちかいにさわるものなし
 「寛政八年吾師徳本行者此所にて三七日のお念仏して大鮫の異類済度の地也」などの文字も読むことができる。
 この碑はもと磯の行場にあったものだが神社のそばに移したのだといっている。あるいは、そうかもしれない。
 (写真=「二階堂向井」1葉あり)
 寛政九年の春灘住吉の人吉田道可熊野参詣の道すがら須ヶ谷の念仏行者徳本との結縁あり、その令息喜平次来たり対面を願った。栄助のとりもちで許しがあり日課念仏を誓約された。喜平次が一日三千遍と申し上げると上人は「我が精神を汝に貸す故必ず成就させるから安心して誓いせよ。」と六万遍の日課を約束させたという。
 寛政十年八月高野山、河内の磯長村にある聖徳太子の御廟へお参りになり、桑津から住吉の方へ行脚された。
 喜平次は徳本を西の別荘へ招待していたが、住吉の北にある赤塚山へ草庵を建ててお迎え申し毎日の御斎はもとより日常入り用のものいっさいを供養してお給仕申し上げた。毎月十五日に遠近から多勢お参りがあった。御名号をいただいた病人、産婦等拝服すると必ず御利益をこうむった。
 そのころ紀州八代の殿様から帰国の使者が再三に及んだのでいったん須ヶ谷にもどられたが享和元年十月二十三日灘を経て箕面の奥にある豊川村栗生の真言宗勝尾寺に錫を進められた。神亀四年光仁天皇の皇子開成の創建清和天皇行幸になり弥勒寺を勝尾寺と改められた。法然上人も二階堂で四年間居られたのでここを道場として別時念仏を執行せられた。滞在二年種々の奇瑞が現れて語り伝えられている。
 享和三年十月関東下向に際し京都にて鬚髪をそり内衣を用いられた。今日までは山居巖樓で寸陰を惜しんで苦修練行を続けてきたがこれを機会に真の比丘形になられた。同年十一月東海道を経て江戸に着き小石川の伝通院を留錫の場所とした。
 文化元年の夏、日光参詣の帰り道松戸市小金町の東漸寺に立ち寄られ宣契和尚の質問に答えられ、「吾は聖徳太子には及ばぬが説法と念仏の両途は一時に勤めるのに何の苦労があろうか。」と御答えになっている。
 小石川の伝通院に寓居の時、高崎藩に寺田五右衛門という剣道の達人がいた。ある日徳本に拝謁して十念を授けていただき“船は楫 扇は要 往生は南無阿弥陀仏の決定の心”
と詠まれるのを聴き、非常に感銘した。その門人の白井亨が諸国を修業して師の許に帰った時、「お前はまだまだ修業が足りぬ。」と大いにしかった。そこで「此の上は如何様に修業すればよろしいか。」と尋ねると、五右衛門は「並びなき高僧をたずねよ。」と答えた。彼は徳本であろうと群参の諸人に混じって説法を聴聞したところ、厳として犯すことのできない威厳に打たれた。翌日早速謁見を請い志趣を述べたが、上人はがだ微笑されて、
「我は念仏の行者なり、豈武事に与らんや、唯知る処は念仏して極楽に往生するのみなり、汝も後世の為に念仏せよや。」
と鉦を打ちつつ念仏を始められた。その様子をじっとながめているうちに彼は豁然として剣法の極意を悟ったという。
 文化二年は滋賀県の日野町平子の澄禅庵に住し澄禅上人の遺風を敬慕し、徳本講という念仏の良風を起こした。
 文化三年一月中旬から八月十五日まで福井県の原にある西福寺で別時念仏を修せられ箕面の方へ帰られている。
 徳本は中将姫の伝説で名高い奈良県の当麻寺へ参詣されたことがある。ついでに三輪明神からたたけば松茸の生えるという不思議な石をいただいたのでお礼にとお参りして法楽せられたと伝えられている。これも徳本にまつわる奇跡の一つである。
 文化七年十月大阪の小橋屋に招かれて結縁し数千人の善男善女を教化している。また文化八年は法然上人の六百年に当たるので明石の光明寺に至り難船の場所に名号を加持して船人の悩みを解消している。また、竹生島に祀られている弁財天に参拝するため湖西を回って高島の港から乗船参詣後彦根の宗安寺に立ち寄り翌朝八幡に向かわれた。
 (写真=「和佐山庵」1葉あり)
 文化九年春、紀州公からまた再三御使者がみえ辞退しきれなくて五月に帰国して和佐山に庵室を賜って住んでいた。和歌山県梶取の総持寺で五月二十日から七日間別時並びに説教があった。毎日の群参二万人を超え、遠く四国から渡海してくる船の数だけでも200艘にのぼり港は繁昌したという。上人は御十念を授けられ「地獄へは落ちるなよ、精々お念仏を唱えて極楽へ参れよ。」と声高く叫ばれたそうである。
 五月二十七日和歌山場内へお招きがあり紀州十代の徳川治宝弟子の礼節をもって上人を迎えられた。 和佐山には高積神社があり都麻都姫命が祀られている。素盞鳴命の御子、五十猛命は山東に、大屋都姫命は川永村に祭祀されていて二人は女神である。神様は三回も徳本の庵室に来たり、「この山は我が年久しく住める処である。たまたま師の来臨を得ていとよろこばしい。」と告げられた。山麓に臨済宗歓喜寺があり往持徳本に帰依して大字の名号塔を建立している。
 文化十一年の春江戸増上寺大僧正典海より和佐山に使者が来て関東下向を促し懇情したので南都の興福院をはじめ京都の円通寺、箕面の勝尾寺を出発して桑名、宮の駅池鯉鮒の駅では群衆の人々雲霞のようで一歩も進めなくなり、家の軒に登って十念を授けられるという情況であった。大井川では蹟にひれ伏して十念を授かり、荒井、箱根関守もすべて土下座して上人を迎えられた。鎌倉、神奈川の駅を経て六月十二日に江戸の伝通院に到着せられた。
 文化十一年六月二十日増上寺において将軍に仕える女官女房たちに結縁された。みんな真仏にまみえ奉るようにおぼえて、五体を投地して崇敬の誠を尽くした。
 六月二十二日赤坂の紀州御殿に参られ、豊姫君をはじめ三九八人に日課請授せられた。二十四日は一橋家に招待せられ、将軍の実母の病障を消除して十数度もこの御館に招かれたという。
 文化十二年八月より伊豆相模を摂化し、千葉県から茨城県に錫を進められた。
 文化十三年三月二十日北国化益の道すがら信州の善光寺に参詣せられ、東隣りの寛慶寺に宿をとられた。当時はこの寺が支配していたからで逗留中霊像が室内に来現し徳本上人の手に立たせられたという。
 寛慶寺の海誉上人は徳本から

難行は尊とけれども
        下根では
   うえにのぞんで
        こがねのごとし

南無阿弥陀仏
      申して往生することは
うえにのぞんで
      食くうごとし
 授与海誉上人

 以上の二道詠をいただき、現在も保管されている。善光寺の境内をはじめ市街の各寺院には必ず徳本上人の名号石が建てられている外、県庁裏にまで及んでいる。
 (写真=「道誉上人に授与された道詠」1葉あり)
  (梶田註:このキャプションにある「道誉」は、上記の道詠から見ると「海誉」の誤植ではないか  と思われる。)
 徳本上人は寛慶寺から壮絶戦国の世に思いを通わせる川中島に行かれた。上杉謙信の1万8000
の軍勢と武田信玄の2万という大軍が死闘血だるまとなって激突したところである。死者7500、負傷者1万2000、千曲川は血に染まって壮絶を極めたのが永禄四年八月下旬の出来事で日本歴史の一端である。八幡原の三太刀の七太刀跡に立たれて敵味方の区別なく慰霊の御十念を授けられた。今その場所の前方に徳本上人の名号石が建てられていて戦国の昔をしのんでいるようにうかがわれる。 六月八日には戸隠山に登られて奥の院で法楽を捧げられ、霊窟に入って九頭竜権現に十念を授けられると彼の権現は金色の龍身となって顕現したという。
 七月二日諏訪明神を拝礼し放生会などして飯田市の方へ巡錫せられた。
 文化十三年八月十七日岐阜県高山市愛宕町の大雄寺の招待に応じて飯田から下呂に出て今の高山線に沿って北上し法筵を開かれた。
 (写真=「大雄寺山門右側にある北国第一の名号石」1葉あり)
高山市の加藤歩嘯翁著「紙魚のやどり」所載の一節に、
 文化十三子年八月徳本上人化益の事
 念仏の行者徳本和尚俗姓は紀州農家田伏三太夫長男希有の道心者として日課念仏十万遍昼夜不寝一日の食そば粉五勺あ(い)るは一合樹の実等にて飯を不食、万民帰依厚く近年諸国化益あり、当子夏信州処々に招待飯田に巡説の折柄大雄寺より招待の願許容有之八月十四日入国下呂武川に一泊一五日夜は萩原十六日小坂泊十七日夕当寺に着、随身の僧五、六人従僧二人俗役其他従者凡廿人に足らず。十八日より廿日迄三日間三座昼夕念仏説法あり。本堂正面の縁端に高座を置き参詣の男女堂内より広庭に充満せり。賽銭無用の札、女中かぶり錦禁制す。廿一日休席、廿二、三化益前後五日の間説法国内村々別て高原筋、八賀筋老若男女家毎不残代わり代わり参詣、他国は就中越中より来る者多し、当国未曾有の群参、高山町に菓子、豆腐の売切候次第、大雄寺地内に上人染筆の六字石碑建立、松倉山内より高さ一丈三尺余或は四尺の大石廿四日より数万の人数町在より出候て字いちご通り引出す、道狭く初日漸五六丁廿五日泉屋の辺沼田に落候て終日終夜夥敷人数近在村々高山惣組は不残高張提灯篝火松明数もしれず。廿五日も過ぎ廿六日朝方漸上川原町頭天満森横町を引出し廿七日朝かぢ橋詰迄引つけ人足昼 食夕暮大雄寺下迄着其夜中裏門より引込上人名号石供養あり、東の方明しらみ直ちに出立、西山中通廿八日昼古川にて暫御化益宿長谷川屋其夜上落内泊廿九日片懸泊晦日越中富山極楽寺へ御着
大雄寺御着十七日より廿八日御出立迄日数十日御止宿の内五日の御化益、散銭六十五貫、金銀銭封寺納拾参両ばかり、名号大石文化十五寅二月成就開眼三月十七、十八日 上人文政元年寅十月六日於江戸遷化

 辞世
   かりの宿かへらでならぬ我くにへ
      おくれし人を哀にぞおもふ
  別れても又あうことの遠からず
      志ばしまどろむ夢の世なれば
  以 上

徳本行者伝から引用
 文化十三年八月十七日、飛州高山大雄寺の請に応じて法筵を開かる。結縁の道俗数を知らず。人々相議していへらく、師の摂化唯事にあらず。願わくは後の世までも伝へて結縁に備へんには名号を乞申さんにしかじ。幸い松倉山に自然石あり。引きおろして揮毫を乞はばやとて、其事をあ師に聞へければ、善方便なり然かせよとの給ふにぞ、やがてその石引き出す。いま存在する処を見るに、長さ凡そ一丈四尺五寸幅四尺余り周り一丈一尺余りなり台石は亀の形にて周り凡そ二丈四尺余長さ一丈にあまるべし。かばかりの名号塔又世にあるべしとも覚えず。かかる大石を険峻なる山阪引出ける事なれば、其労苦も大方ならざるを、夜に日につとめて運送力をつくしたるなるべし。寺近くなりしころ、此の石あやまりて水田に落ち入りぬ。泥土の底に埋れて如何ともすべきようなし。みな呆然たるさまなりけり。師山門より登りて皆々念仏しながら引揚げよ。揚がるべきそとのたまうに、人々力をえて師につきて念仏したりければ、その于隅(ママ)の節に応じて、この石時を経ずして水田を出たり。人々益々力を得てやがて寺の庭上にぞ引据えける。
 なお、大雄寺保存文書、徳本上人化益並仏号石記があるがここでは省略する。
 それから富山より石川県の金沢に来錫引き返して志賀高原から草津峠を越えて群馬県埼玉県を経て九月上旬ごろ江戸小石川の大仏堂へお帰りになったようである。
 江戸の御化導盛大になるにつて疲れを感じてきたので勝尾寺の草庵が恋しくなり帰りたいと思われた。一つ橋前亜相その他信者たち小石川に一行院を建立して留錫を願ったのが文化十四年の十月のことであった。
 文化十四年十一月七日着工の一行院はおおぜいの人々の骨折りで十二月二十三日ことごとく完成してりっぱな徳本上人の捨世の道場となった。
 文化十五年四月二十二日文政と改元された。この年の九月上旬ごろから病魔の犯すところとなり、臨終の近きを知った。二十一日の別行が終わると常に護持していた仏舎利を本仏にお授けになり二十三日弟子たちに遺訓を申されて別れを惜しまれた。二十五日京都から仏師西田立慶作の真影が到着したので「今日からは利益衆生を汝に譲るぞよ、摂化利生われに違うなよ。」あと申し聞かせ一枚起請文を読まれたうえ上人の座をこの木像に譲って開眼の式に代えられた。
 十月五日床上に座られて最後の総回向をされた。十月六日の暁のころ「今日は往生の日であろう。釈迦如来も法然も臨滅は皆頭北面西であった。祖師の芳躅に背かず平臥する。」といって高声念仏を始められた。巳の中刻(後前十一時)斎食を召しあがり味をお伺いすると、「甘露のようだ。」と答えられ硯を取り寄せて

  南無阿弥陀仏生死輪廻の根を断たば
     身をも 命も おしむべきかは

と書かせられて、にっこりとしながら臥せられた。お念仏の声がしだいに低くなられたかと思ううちに息が絶えさせ給うた。実に文政元年十月六日午後七時六十一歳であった。九日寺の後に葬り導師は大僧正増上寺の典海上人が勤められた。

   日高町の徳本上人遺事

 紀州が生んだ二上人、それは金屋町の明恵上人と日高町の徳本上人で、ともに桓武平氏の系統である。
 明恵は承安三年親鸞と同じ年に生まれ行学の二途にわたる苦しみを、徳本は宝暦八年生まれで一心専念行の一途に結集して真に血を流して信仰の道を求められた。
 日高町内には次のようなものが残っている。
一、木 像     

阿 尾
塩崎
比 井
天然寺
久 志
誕生院と御生家
中志賀
浄恩寺
高 家
称名寺
萩 原
安楽寺


二、名号石
     小浦峠 
     比井天然寺
     中志賀 小学校校庭(現在浄恩寺)
     久志  誕生院
     柏峠
     十七曲がり
     池田峠
     池田の普門院
     原谷の光明寺
     鹿ヶ瀬山麓
     萩原の安楽寺
     荊木の念仏寺
三、名号掛軸その他の遺品
     軸物十余点  遺品二十六点
     小中の楠(谷屋)は徳本上人と最も関係が深く徳本からの手紙、名号、一枚起請文、姥目樫の木魚、金の仏像等が残されているという。

 
1232p
参考文献
(梶田註:巻末の参考文献の項で徳本上人の題名が明らかな文献は次の通り)
徳本上人行状和讃    雁屋七之助


1325p
あとがき
(梶田註:第十二編人物誌を執筆された三崎猛編集委員の感想が記載されていますので、ご紹介します。)

○「史を修することは難し」とは先人の語であるが、その難しさをしみじみと体験した。殊に人物誌についてその感をより深くした。もちろんこの問題については現在の社会思潮の上から、また人間関係の上からも、いろいろと異論のあろうことはじゅうぶん察知し得るところであるが、要はその時代時勢に適応し、当時の社会環境において自己の器量をじゅうぶんに発揮し大いに活躍せられた郷土の人々の足跡や業績をしのぶことにした。もちろん非才にして寡聞、文筆の器にあらず、調査ふじゅうぶんや誤記あらば後日御指導を賜りたい。なお、調査不能や困難なものについては南紀徳川史や日高郡誌そのほかの文献をそのまま転載させていただいた。                               (三崎委員)