藤縄勝祐氏著 「文化14年、相模の徳本」

          「徳本行者と徳本名号塔」

         徳本行者と『曽我物語』の接点
     「川津の塔、椎木、角力場、石投場」


 私のホームページをご覧いただいたということで、藤縄氏から調査・研究をまとめられた著作をお送りいただきました。横浜在住の氏は、神奈川県はもとより東京・関東地方の徳本上人の遺跡について研究しておられるようで、詳しい記述がなされています。そのごく一部を紹介します。



「徳本行者と徳本名号塔

 冒頭で、徳本上人の経歴と徳本名号塔について紹介しています。

 また、関東での活動について、「徳本が関東に下向したのは、このように享和3年(1803)の冬だったが、そこで智巌和尚から本来の目的であった宗法の相承相伝を受けたのち、翌文化元年には日光に参拝、若干の場所で化益を行ったのち、いったん江戸に帰ってから再び関西に戻っている。」

「文化11年から同14年まで、関東を中心に東奔西走の布教の日々を送る。それは後世の研究者たちが「流行神」と名づけたくなるような熱狂的な支持の高まりであったらしい。」

 また、「余話・二人の徳本と貼り薬」の項には、次のような面白い記述があります。

 「徳本と呼ばれる有名人には、ここに述べてきた徳本上人(徳本行者)のほかに、もう一人、「甲斐の徳本」、「永田徳本」と呼ばれる人がいる。
 室町時代末期に三河国に生まれ、乾室または知足斎と号し、医を業とし、駿河・甲斐・相模・武蔵の諸国を巡り、甲斐にあっては武田氏に仕えたこともあったが、権力を恐れず、貧しさに負けず庶民の救いに心を注いで医聖と仰がれた。
 寛永7年(1630)2月14日、118歳で信州岡谷の地で没したという。(中略)

 貼り薬「トクホン」

 「貼り薬「トクホン」(販売元・潟gクホン)の名は上記の「甲斐の徳本」の名声に因んで名付けられたもの。
 同社は明治34年、鈴木日本堂として創業、以来頭痛薬や貼付薬シカマンなどの販売で地歩を高め、静岡で売られていた天来(てんらい)という膏薬にヒントを得てこれに熱心に改良を加え、貼り薬「トクホン」を完成させた。戦後、ラジオやテレビのコマーシャルに登場して大ヒット商品となり、社名を変更して今日に至る。
 同社の会社案内によると、医聖徳本の医療に関する考え方や精神に多大な感銘を受けるとともに「トクホン」という弾むような語感、「トク」という言葉が人々に恩恵を与える『徳』、痛みを『解く』に結びつくと考えてネーミングしたもの、と説明している。
 したがって一部にある「徳本上人は貼り薬トクホンの元祖」というのも、誤解であることがわかる。」(以下略)

 末尾に、「徳本峠(トクゴウトウゲ)のこと」「徳本行者全集」についての解説が記載されています。



(梶田註:「長野県史」 通史編 第四巻 近世一 599pに次の記述がある。
 「遍歴医の代表で、江戸初期の医聖と仰がれる、なかば伝説的な人物が永田徳本である。徳本は三河国の生まれで、駿河・甲斐などを巡歴し、「甲斐の徳本一服十六文」とよびあるき諏訪に来住した。将軍秀忠を平癒させたといわれ、甲州ぶどうづくりや諏訪のかりん栽培も徳本がはじめたという伝承がある。こうした徳本伝説には、権力にとらわれずに医業や諸技術を伝えあるく無名の遍歴者たちの姿が二重うつしされている。徳本の墓は、妻女御子柴氏の墓とともに岡谷市尼堂墓地にある。」 写真93 永田徳本の墓(岡谷市尼堂墓地) 1葉が掲載され、「墓石が医療効果があるとされ、けずりとられている。」という写真説明がある。)


「文化14年、相模の徳本」

 文化14年の旅

 「文化14年(1817)11月2日、徳本は最後の旅に出た。60歳の冬である。まず高井戸の長泉寺(杉並区上高井戸1の12・曹洞宗)で2日間の化益を行い、次いで、川越の大蓮寺(浄土宗・川越市喜多町9の1)で5日間、平方、今泉で2日間の化益を行う。平方とは現在の上尾市平方2088の馬蹄寺(浄土宗)、今泉とは同じく上尾市今泉156の十蓮寺(浄土宗)だから、川越からいったん東北方向に足を伸ばしたことになる。
 こうして11月14日には八王子宿の大善寺(単立・八王子市街地の東側にあたる位置にあるが、天正13年に滝山城主北条氏照が創立したといわれ、家康から境内5千坪、朱印10石を賜り、さらに家綱から朱印百石代として新たに境内1万5千坪を賜ったという由緒を持つ寺である。関東18檀林の一つで明治2年には勅願所檀林の倫旨を受けている。徳本はここに18日まで滞在、化益を行った。川越と並んで今回の旅の主目的の一つであったのであろう。」(以下略)

 この後、相模原市、厚木市、川崎市、東京など、関東各地の徳本名号碑について記載されています。





徳本行者と『曽我物語』の接点
 川津の塔、椎木、角力場、石投場
     付、「春日の御作」とは何か?

 冒頭の、「曽我物語の名所」の項で、「文化12年、徳本一行の伊豆相模の化益の旅の途中、下田からの帰りに、次のような記録がある。」
 「一、11日、六ツ時過ぎ稲取正定寺御出立、片瀬村御小休ミ、又大川端にて御休ミ、名主方にて御斎召上赤沢山川津の塔有り、是にて御回向被遊、夫より椎木の角力場石投場御覧有りて、夫より八幡の照明寺御着、」
 ここに登場する「赤沢山」「川津の塔」「椎木」「角力場」「石投場」とはいったい何であろうか。結論から先にいうと、すべて曽我物語に出てくるこの土地の名所なのである。いうまでもなく曽我物語は、兄曽我十郎祐成と弟五郎時致(ときむね)の兄弟による、父河津三郎祐泰の仇工藤祐経に対する仇討ちの物語である。



 氏はこのように説き起こして、徳本行者と『曽我物語』 の接点について考察しています。(梶田註)







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