「和歌山市史」 第二巻 近世より


         平成元年3月31日発行
         編 纂 和歌山市史編纂委員会
         発 行 和歌山市


443p
 第四章 藩財政建て直しと徳川治宝
  第三節 藩学と文化



 和佐山の徳本上人
 

文化9年(1812)5月29日、念仏行者と称された徳本は、藩主治宝に招かれて登城し、御座の間で十念を授けた。徳本は、すでに寛政12年(1800)、隠居していた重倫にも帰依をうけていたが、治宝に十念を授ける2日前に重倫に浜御殿で戒を授けている。こうした藩主のみならず庶民の帰依をうけた徳本の活動のあとをたどってみよう。
 徳本は、宝暦8年(1758)6月12日に日高郡志賀谷久志村(現 日高郡日高町志賀)に生まれた。幼少のころから仏教に親しみ、天明4年(1784)6月、同郡財部村往生寺大円上人に得度を受け、徳本と名付けられた。その後、有田・日高郡の山中で念仏修行を重ね、その鎮魂呪術的な性格を持つ不断念仏の功徳を求める庶民の帰依が広まった。寛政12年、重倫は徳本を引見し、有田郡須谷(現 有田市須谷)宝谷山山頂に庵を賜った。しかし、徳本は一処に常住せず、その後、近畿・関東・北陸を廻って布教教化に勤め、文化9年(1812)5月に、重倫・治宝に招かれたのである。 この時、治宝は和佐山(現 和歌山市禰宜高積山)に庵を賜った。この庵は「大智寺隠居所」と称しているが、「徳本上人御庵所」であり、同年7月、寺社奉行が建設の準備を進めている(「徳本行者一件」中筋家文書)。庵の規模は、御堂(4間×3間)・御認所(2間半×2間)・随身間(5間×6間)・台所(3間×4間)・物置(2間×3間)、念仏堂(10間×8間、三方縁)・茶所(2間×8間)、左堂(2間×3間)であった。10月には、小豆島村船主11名が和歌山から和佐山までの材木 積登しを寄進する旨申し出ており、多くの人々の助力によって竣工したと思われる。徳本を訪ねる人々も多かったためか、庵室と山麓との中間に接待所を設置したいと願い出ているが、これは許可されなかった。
 徳本は、文化11年(1814)春、和佐山の庵室を出て、京都を経て江戸小石川伝通院内の清浄心院に落ちつき、その後も関東、北陸を勧化して、文化13年(1816)9月、江戸に帰り、同15年(1818)10月6日、小石川一行院で没した。
 紀州領内はもとより、全国各地を遊行して不断念仏をすすめた徳本が、浄土宗の布教教化に果たした役割は、文化文政期の仏教史上、特筆すべきものであろう。