「新編岡崎市史」近世3 より
     発 行 平成4年7月1日
     編 集 新編岡崎市史編さん委員会


第七章 領主支配の変質と文化・宗教の諸相
 第五節 寺社の財政と維持
  一 大樹寺の火災と浄土宗寺院の動向


律寺の開設と徳住・徳演


 浄土宗では、僧風革新を目的として浄土律が提唱され、戒律生活の厳守による戒律復興の動きがあり、各地に律院が創設された。岡崎では昌光律寺・松林律寺があり、徳巌によって開かれた。彼が宝暦十年には伊賀八幡宮神主柴田氏の依頼で、柴田氏創建の松林院に入り律道場とした。そして、明和二年(1765)には大槎庵を拡張して、三河初の浄土律院として昌光律寺を開創した。彼は大樹寺常行院で一昼一夜の称名念仏を行い、宣達・本然をはじめ弟子は200人程、戒を受けた者は2000人を超えたといわれている。のち、彼の思想は昌光律寺の歴代住職らによって受け継がれた。月僊
と交流のあった七代住職万空、密教に精通した九代住職海印、木綿問屋深見紀兵衛家から仏道に入った十代志運(1835〜93)、明治期の代表的書道家でもあった十一代大運(1860〜1944)らを輩出している。
 (写真=「徳住名号碑」および徳本(新城市大善寺)・徳住(鳳来町大字富保)の花押、各一点あり) その他の浄土宗の動向は、関通以来の称名中心主義で民衆に布教した捨世的僧侶たちもいた。その代表的僧侶が、全国各地の講に、個性あふれる書体の名号「南無阿弥陀仏」を配った徳本(1758〜1818)である。岡崎でも、忠吉・長左衛門の世話により板屋町講中に唐紙半切名号二幅が贈られている。(『徳本行者伝』)。また、文化期には随念寺で徳本が説法したといわれる。(『三河往生験記』)。彼の弟子は500人を超すが、その中には岡崎に関連した徳住がいた。文化十三年(1816)に真淳は、信州善光寺の西方寺において徳本の門に入り、徳住と名を改めた。その後、設楽郡・加茂郡を中心に教化遍歴の旅を続け、各地に名号碑が建立された。文政十一年(1828)に徳住は、鴨田村荒井山に九品院(大樹寺別院)を開き、翌年には結縁授戒を行った(九品院蔵『真阿徳住上人行業雑記』)。徳住の甥で九品院三代住職神阿、四代住職求道と念仏布教活動を広めた僧侶は続く。また、幕末維新期に九品院では徳演という僧侶がいた。徳演は関通を尊敬し、称名念仏を日課とする 厳しい修行や生活倫理の重要性を、九品院や源空寺で民衆に説いている。その徳演の思想は、明治初年に執筆された『三河往生験記』によく表れている。その徳演の弟子には、大樹寺五十二世住職の開誉がいる。ところで九品院では明治初年に、東京の一行院所蔵の『徳本行者伝』26冊57巻を書写した。昭和20年(1945)の東京大空襲で一行院の原本が焼失したため、現在九品院写本は徳本研究に不可欠な存在となっている。


                  表7−65『三河往生験記』にみる岡崎の往生者

戒  名
俗  名
町村名
没 年
没年齢
備           考
照誉光阿良称法子 (四郎兵衛先代) 板屋町 宝暦6 関通の説法を聞き、西能見に庵を開く
教山浄誡信仕 鍛冶屋甚五郎 板屋町 文政11 83 関通の説法を聞く
円誉心照智源居士 水越与右衛門政盛 六供町 天保13 68 六供六坊(甲山寺)の役人、徳本・徳住の説法を
聞く、九品院再興に尽力
蛍誉快楽法子 石川市郎左衛門 中之郷村 天保14 80 繰綿を念仏の所業、臨終前に大聖寺臨誉を招請し
剃髪
珠光童子 定 蔵 城 下 佐吉の倅、6歳にて往生
向誉浄西法子 嘉永6 82  定蔵の祖父、21ヶ年盲目生活
逸翁浄願哲秀信士 金太郎 材木町 万延1 17 藤屋治右衛門の倅
蓮応清安信士 清 吉 能見町 万延1 78 源空寺住職より筆記により
頓岳証全信女 く ら 両 町 万延1 18 松屋宗右衛門の娘、安政6年源空寺で徳演より授
戒、産後に死去
貞月恵照信女 し げ 文久1 22 愛知郡東起村農家九兵衛の娘、7歳で上伝馬町
小松屋甚七方に年季奉公(飯売女)、17歳で能見
町何某の妾、荒井山・源空寺で徳演より授戒
浄誉欣西法子 川喜田庄右衛門 矢作町 文久1 87 自称「西休」
愛蓮童子 信太郎 板屋町 文久2   信楽屋源助の倅
一雲智道居士 文久2 68 岡崎藩士、横井多十郎の父、求道の説法を聞き、
篤雲・徳演より授戒
蘭香妙秀信女 た け 板屋町 慶応1 若輩 鍛冶屋甚五郎の娘、荒井山に時々参詣
最勝花山童女 え い 能見町 慶応2 吉田屋甚三郎の娘、九品院で三帰受得
礼誉敬心信女 あ さ 能見町 明治6 21 能見町牛田清一郎の娘、連尺町某氏の嫁、徳演
より授戒
秋月妙照信女 よ ね 奥山田村 今村出身、幼年に奥山田村柴田磯吉方へ養子、
求道の説法を聞く、岡崎伝馬町中の切藁屋半之
助・豊橋礼木若松屋に奉公

                                           (『三河往生験記』による)