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昭和57年11月30日 | ||
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伊那市文化財審議委員会 | ||
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伊那市教育委員会 |
第一章 解 説
第三節 仏教系総説
25p
その他
(1) 阿弥陀如来
梵名、アミターバ、又はアミターユス。前者は無量光、後者は無量寿と訳され、音訳が阿弥陀、略して弥陀と言う。
この如来の寿命は無量無数であると、故に無量寿と言い、又常に無量無辺の光明を放って十方の世界を照らすので無量光とも言う。
阿弥陀如来は娑婆世界(人間界)の西方十万億土をへだてた極楽浄土の主、この如来の御名をとなえて念仏すれば、誰でも極楽浄土に往生することが出来ると言う。
極楽浄土に居られるこの如来は、蓮華の上に立ち或いは座す独尊の場合と、左右に観音・勢至の両菩薩を侍らしている場合がある。このお付きの菩薩を補処の菩薩、或いは脇侍と言う。
この如来の定印は、結跏趺坐して、両掌を上に向け臍下に安んじて親指と人さし指を捻ずる定印とこの他十一の印相とがある。
名号塔と称する「南無阿弥陀仏」と書いた塔は刻像のかわりに文字を刻したもので故、此の項に入れた。名号塔には六字・九字・十字の塔があるが、一般には六字の「南無阿弥陀仏」と書かれ、伊那全地区に見られる。美篶青島にある「南無西方如来」も名号塔の一種であり、同芦沢には梵字の名号塔がある。又種字で書かれた三尊塔も各地に見受けられる。
美篶下県の墓地及び東春近下殿島沖の阿弥陀堂境内に徳本独特の書体で刻んだ名号塔がある。徳本名号の自署の下に丸に十字の花押があり「鬼殺す心は丸く田の中に南無阿弥陀仏と浮かぶ月影」と彼は詠んでいる。(以下略)
(写真=「写45 下殿島 bW5 文政9年 徳本名号塔」1葉あり)
「あとがき」
伊那市文化財審議委員会で、市内に点在する石造文化財の調査のことが議されたのは昭和50年であった。この年は市や県が既に指定してあった文化財22点について再調査し「伊那市の文化財」にまとめようとしていた頃であったため、直ちに着手することもできず、各地区の委員は来るべき日の為に心づもりを以て調査のため作業にとりかかっていた。
「伊那市の文化財」の冊子ができた次の昭和51年、委員会は石造文化財の調査のことを始めた。調査は8地区に分担して石造文化財の総てを網羅して一基毎にその所在を確かめ、計測し、その姿を写生し、材質や記刻されている文字の総てと、更にそれにまつわる口碑、行事を探って記録した。これが「石造文化財調査表」である。
ここに取材された総点数は6880基に及んだ。これを8地区毎に収録したのが「区調査表」である。更にこれを24種類に類別して各地区の石造文化財の内容・種類の傾向を見ようとしたのが「類別一覧表」であり、「伊那市全地区別集計表」として集計してもみた。収録点数6292基である。(例えば十王像の如く一群をなすものを一基として)、更に各基の紀年の明確なものを抽出して「編年表」としてその歴史の跡を偲ぶ資ともした。何れも市の文化財として貴重なものであるが、そのうち約200基余を写真として掲載した。こうしてここに「伊那市石造文化財」が成り立った。
伊那市全域に亘ってあまねく一基毎の調査であり、「調査表」のできるまでには長い時間を要した。それを探索するのは容易ではなかった。農道の叢の中に埋もれているもの、林の片隅に隠れているもの、小道や家の軒下にひっそりとしているもの等を掘り起こしての調査であり、時に遠い山の尾根道にあったと知らされて探しもし、彼所にあった筈だと聞かされて草を掻き分けて探しもして、知る限りのもの一切を調査表に写生し記録した。或る時は老人クラブの古老に導かれて共に手伝っていただいて調査もし、遠く経ヶ岳から権兵衛峠に脚を踏み入れ、駒ヶ岳登山道をも探索して一応所在する一切をまとめあげた。このようにして委員は調査表を作成し、更に念を入れて二度三度と見直し確かめもした。幸い委員の中に北村・竹入両氏のように多年この道の研究を重ねられた案内者があり、調査の正確さを期することもできた。
多岐多様に亘り民俗信仰を背景としているこれ等石造物を類別することも容易ではなかったが、碑に刻まれている紀年も果たしてどうかの判定もむずかしい問題であった。こうして問題に取り組んでいるうちに、その石造物にこめられている古人の心にも触れることができ、この意からここに「解説編」をも加えた。この解説を背景として路傍に立っている石造物に対し照合すれば、我々の先祖が何を念じ、何を祈ったかにも通じるであろう。兎に角こうしてここに一冊子をものにすることができた。これを読み、石造物を観て関心を深め、これを残し伝えて頂き度いと念願すると共にこの調査にお力添え下さった各位にお礼申し上げ、あとがきとする。
昭和57年10月10日 伊那市文化財審議委員会委員長
福 澤 総 一 郎