「白 馬 の 石 仏」

長野県北安曇郡白馬村教育委員会発行(昭和59年刊)
調査・執筆 田中欣一先生


 「白馬の石仏」
白馬村教育委員会発行(昭和59年1月20日)
 〒399−9300 長野県北安曇郡白馬村
 電話0261−72−5000


135p
10 徳本上人名号碑

 「江戸末期の高僧である徳本上人が、白馬の地を巡錫したという記録はないが、小谷にも大町にも名号軸や名号碑がたくさんあることから、巡錫は間違いないことと思う。村内に徳本上人の名号碑は4基ある。」
(梶田註:名号碑の写真5葉が記載されている。)


266p
三 徳本上人名号碑―念仏信仰―

 「トッコン様」とか「トクゴー様」の名で呼ばれる、念仏信仰が信州各地に残っていることは、よく知られているところである。信仰の具体的な対象は、徳本上人が揮毫された「南無阿弥陀仏」の6字の名号を刻んだ石碑か、墨書した掛け軸である。
 名号碑は、ほぼ信州一円にわたって建立されており、少しく石仏に関心を持っている者であれば、旅先の寺院やお堂の境内、あるいは石仏群にまじって、あの独特な筆蹟を刻んだ石碑を見かけたことであろう。私が見ただけでも優に百碑は超えている。
 それは、北信濃でも善光寺平でも、北国街道沿いにも佐久平にもあったし、諏訪・伊那路・木曽路・松本平・安曇野にもあった。善光寺や諏訪の仏法寺のような名刹にもあるが、僻遠の草深い辻堂にもあった。また、大きな宿場の街道に面したところにもあれば、すすきを押してわけて歩むような山道にもあった。白馬小谷に近いところでは、大町市の六角堂、鬼無里村の松巌寺、糸魚川市の善導寺にある。東京でも小石川の伝通院や蔵前の榧寺で見たことがある。


●徳本上人略伝

 徳本上人は、江戸中期の宝暦8年(1758)6月、和歌山県日高郡志賀村久志に生まれ、文政元年(1818)10月、江戸小石川の一行院で示寂された浄土宗の念仏行者である。俗姓は田伏氏、幼名を三乃丞といい、父は三太夫、母は塩崎である。伝えるところによれば、4歳の時隣家の小児の急死に遭って無常を感じ、9歳にして出家を志したが、父母の許すところとならなかった。
 以来、農耕の余暇に月正寺に籠もって念仏を唱え、常坐不臥の生活を送ったと言われる。18歳の時父の死に遭い、天明4年27歳の時母の承諾を得て、往生寺(紀伊)の大円和尚について受戒し、仏門に入った。その後修業を積み、高徳の念仏行者として、当代第一人者をもってたたえられた。
 上人は、徹底した念仏行者であったが、語録を読み、宗要を会得し、大乗の玄理にも通達し、文章家としても書家としても秀れ、更には絵画、彫刻にも手を染めるなど万能家でもあった。書風は見馴れれば、すぐそれと知られる独特のもので、「南無阿弥陀仏」の名号の場合は、六字の下に書体をかえれ小さく楷書に近い形で「徳本」と書き、更にその下に花押が記されているものが大部分である。(135頁、写真495参照。)
 上人は、各地の霊場や遺跡を巡礼して修業と化益につとめ、享和3年には江戸に下り、小石川の伝通院に留錫して、関東方面に教化の行脚を続けた。文化7年には再び紀伊に帰り、領内を巡錫したり、藩主をはじめ諸士に対して法筵を展べた。また、この間、畿内各所で説教を続けたという。
 文化11年春、江戸増上寺第56世典海僧上の懇請によって、再び江戸に下向、小石川の清浄心院に留錫した。身分の上下を問わず帰依者が夥しく、中には紀伊・尾張・田安・一橋等の親藩をはじめ92の諸侯な名が挙げられている。11代将軍徳川家斉の生母慈徳院の平癒のために念仏して祈ったこともあるといわれる。前記伝通院の名号碑には、正面の「南無阿弥陀仏」の左右、碑の両側面、裏面に当時を代表する高徳の大和尚名がぎっしりと、刻まれてあったことを思い出す。
 大奥の女中、諸侯の奥方などの信者も多かったが、町人や百姓漁夫などの渇仰には熱烈なものがあった。その高徳を慕って、上人自筆の名号を乞い受け、あるいは船魂として祀って海上の安泰を祈念し、あるいは名号碑を建てて、念仏講社の崇教目標としたものは極めて多かったのである。
 文化11年8月からは地方教化の行脚を続け、その行程は伊豆・相模・下総・信濃・飛騨・越中・加賀に及んだ。後、江戸に帰り文化14年10月、一行院に入って中興開山となった。文政元年秋病に伏し、10月6日念仏を高唱して示寂した。遺骸は一行院に葬られた。

 辞世

   南無阿弥陀仏 生死輪廻の根をたたば

             身をも命も をしむべきかは


信州路への巡錫

 信州路の行脚は、名号碑に刻まれている建立年月日、文献史料等によって文化13年であることは明らかである。しかし、巡錫経路・入信経路については地域別には、大体分かってきたが、全体的にはまだ不明の点が多い。全県的な立場での研究が期待される。
 入信経路は、江戸から中山道・北国街道沿いと、甲州路から佐久への二つのコースが考えられるが、これは佐久方面の各名号碑等を中心とした実地踏査が進まないと、軽々しく断定できない。
 長野県内における巡錫経路は、簡単にいえば北から南へ、即ち北信から中信、諏訪を経て伊那路へというコースであったと思われる。下高井郡野沢温泉村建明寺の名号碑が文化13年5月、善光寺のものが同年5月、北安曇郡白馬村飯田のものが6月21日、大町市南原六角堂のものが6月、上伊那郡箕輪町のものが8月、下伊那郡高森町牛牧のものが8月、というような建立年から推しはかられるのである。尤も松本平その他の地域で文化13年9月以降のものも見られるが、建立年月日は必ずしも、上人の巡錫を意味するものではない。
 飯田における留錫は、飯田市松尾の峰高寺を中心としてもののようであるが、「徳本行者御化益聞書」(市村威人蔵)によれば、法話には「参詣の老若男女三座共に広堂場に居あまり然れ共一人も泣きせず咄しするものもなくとあるように、上人を敬慕し帰依するものがいかに多かったかが想像される。
 伊那路からの行脚経路はつまびらかではないが、前記「徳本行者化益聞書」には、「依而日取西教寺ニ御越一日の御化益有11日出立美濃飛騨へ御こし被遊候」とあるというから、一日西教寺(飯田市)での法話後、木曽路へ出て更に美濃を経て飛騨へ、あるいは木曽路を北上して、野麦峠か安房峠を越えて、飛騨路へ去られたものと考えられる。


●小谷四ヶ庄での化益

 別表で知られる通り、小谷・四ヶ庄(白馬村)にも、徳本上人の名号碑・名号軸は幾つか存在している。ここで善光寺平を中心とした北信一帯の巡錫後、安曇野に入るまでの経路について考察を加えてみたい。大町に留錫し更に穂高・松本を経て、諏訪・伊那方面に行脚したことは、ほぼ間違いないこととした場合、大町への経路はどの道を辿ったものであろうか。長野から高府へ経るいわゆる大町街道を通って、直接大町へ入ったものか、あるいは一旦小谷・四ヶ庄地方を巡錫した後に、千国街道沿いに大町へ入ったものかの何れかであろう。
 性急に断定することは出来ないが、後者の場合があったとすれば、それはおよそ三つの経路が考えられる。一つは、高府から美麻を経て四ヶ庄へ、もう一つは長野から鬼無里路を辿り、柳沢峠を越えて四ヶ庄小谷への道である。三つめは高府から大町街道を経て大町へ出、さらに千国路を北上して、小谷四ヶ庄に化益を施し、また大町へ引き返したとする経路である。
 さて、徳本上人による小谷四ヶ庄への念仏行脚が、果たしてあったかどうか。結論を急ごう。それはあったものと考えられる。以下、その根拠となり得ることがらについて述べてみたい。
 一、小谷四ヶ庄地方には別表の如く、現在10碑2軸が確認されている。この山間狭小の地にこれだけの数があるということは、上人の高徳を慕うものがいかに多かったかを物語るものであろう。小谷四ヶ庄への巡錫がなかったとすれば、大町まで名号申し受けに出向いたことになるが、小谷の大網・中通・真木あたりからということは、ちょっと考えられない。しかも短期間の巡錫予定を予め聞き及んで、馳せ参じるということは、歩く労をいとわなかった当時といえども、容易なことではなかったろうと思う。加えてこの地方への巡錫は春の農繁期であった。半日といえども農事の手を休めることは、むづかしい相談であったに違いない。
 一、次に小谷四ヶ庄地方巡錫の拠点となった寺は、千国の源長寺ではなかったかという仮説をたててみたい。
 源長寺にある名号碑(元は千国の十王堂にあったものを、他の石仏と共に源長寺へ移したものかも知れない。十王堂は廃堂となって現存しない。)は一般に自然石が多いものの中で、墓碑型に造型されていて、他に余り例を見ない。碑石も大きく当時のものとしては、実に立派なものである。佐野坂以北の諸寺院には、源長寺以外に名号碑はなく、千国は明治中期まで小谷四ヶ庄地方の中心であってみれば、源長寺に留錫したとしても不思議はない。若し、長野から鬼無里村を経て、柳沢峠あるいは柄山峠を越えて来たとすれば、鬼無里村の松巌寺と源長寺が往昔因縁浅からぬ寺であったことも忘れ難いことであろう。源長寺での化益があったとすれば、小谷四ヶ庄近郷近在の信者を集めることは、大町でのそれにくらべれば遙かに手易く、また、煩をいとわず参集する気にもなったものと思われるのである。
 一、南小谷の真木部落で所蔵する名号軸には、文化13年5月の銘があり、白馬村飯田の名号碑の造立は、文化13年6月21日である。
 これは前記「信州路への巡錫」の項で述べたような経路を裏づけるに足ものであろう。柳沢峠か柄山峠越え、青具経由あるいは大町から北上し、更に引きかえしたとしても、小谷四ヶ庄への念仏行脚は否定できないことと思う。


●名号碑余聞

 徳本上人が信州へ巡錫したのは文化13年(1818年)のことであるから、今から167年前のことである。遠い昔の話ではない。しかし、どうしたことか徳本上人の話を伝える者や、名号碑ひついて語るのを聞いたことがない。念仏講は現在なお各地で行われている。道祖神や23夜塔や庚申塔や33観音像について語ってくれるものは多い。碑在地もよく知られているし、その祭事も念を尽くして営まれてきた。けれども徳本上人の「南無阿弥陀仏」の名号碑のことは、誰一人として語ってくれない。
 わずかに遠方の徳本研究者が、この地を訪ねて偶然に見たものについて語ってくれるのみである。名号碑は文化文政時代に造立されたものが殆どであるが、それは一過性の泡沫の如きものであったのか。まさかそんなことはあるまい。一世を風靡した当時の大徳たちをも渇仰せしめた高徳の僧である。長野県下における名号碑は、おそらく3百碑を遙かに超える数字であろうが、小谷四ヶ庄ではわずかに小谷の真木・黒川の地に、その何者かを知らずただ「トクゴー様」の名をもって伝えるのみである。
 幸いこの地に残る名号碑は、一部のものを除いては、ほぼ完全な形で保存されている。文化財としての保護は勿論、今は忘れられた存在となっている「南無阿弥陀仏」名号碑ではあっても、細々としてでも菩提を弔う「南無阿弥陀仏」は、われわれの中に生きつづけたいるようだ。


徳本上人名号碑一覧(名号碑10、名号軸2)

  碑  在  地            建  立  年
白馬村佐野荒神         文政五壬午八月仲間立
白馬村飯田南原墓地      文化十三歳丙子六月廿一日
白馬村八方口薬師堂      文政元寅年村中十一月日
白馬村新田旧堂庭       文化十三丙子年 邑中
小谷村千国源長寺              当村講中
                  文政三庚辰天七月吉旦
小谷村黒川諏訪神社     (建立年不明 倒壊)
小谷村黒川諏訪神社     (建立年不明 上部欠損)
小谷村南小谷真木       文化十三丙子年 当村中
小谷村中土中通り観音堂   文政庚申○講中八月十五○
小谷村北小谷大網十三仏  (建立年不明
小谷村南小谷真木      (箱書き)文化十三年丙子五月中旬此世話黒河村
     (名号軸)        新助殿致申候掛物善光寺而諸 講中
                  間安道勘五郎殿親子入テひやう二代壱分一匁也念
                  仏世話藤右エ門定七 五拾七人定ル
小谷村黒川(名号軸)      染筆は文化十三年(推定)



●女人と念仏信仰

 「念仏講」「数珠まわし」など南無阿弥陀仏の六字の名号を唱えることは、女人を中心にして行われてきた。月々の17日の晩の念仏会には、何をおいても参加して大きな数珠をまわしながら、南無阿弥陀仏を唱えるのであった。葬儀や初七日のあと、老人を先達にして念仏を唱えることは、今日なお一般的に行われているが、17日の晩の念仏会は、白馬村では野平・内山を除いては全く行われなくなってしまった。
 内山では8月17日の晩に行われ、「お数珠まわし」と言っている。団子を作って観音様に供え、数珠を3回まわしてのちに団子をいただくならわしであるという。菅入では全戸転出するまで「お念仏講」と称して行ってきた。月の17日に当番の家に集まり、数珠は33回まわし、あらかじめ用意してきた炒豆で回数を間違えないようにしたという。豆は講果ててのち参会者にこれを配り、それぞれ持ち帰って馬に与えたという。
 この敬虔な宗教行事を今日なお、よく伝えているのは野平部落においてである。野平では昔はお堂で行われてきたものであるが、近年は12月と1月を除く各月の17日に女衆が集まって公民館で行われている。大数珠は右まわりで65回まわす。回数を数える棒も用意されている。円陣の中央にはお盆に炒豆が盛られ、豆は帰りに一握りくらいずつわけられる。いただいた豆は翌朝の食事のとき、家内中で食べるのである。
 徳本上人名号碑・如意輪観音・念仏塔には、女性が大きくかかわっていた。その一例を見よう。佐野の荒神の徳本上人名号碑は、天保4年・文政元年の百番供養塔、馬頭観音・大日如来などと共にあって「文政五壬午歳八月仲間立」の造立であるが、「願主」として「ゑん ○め○よ とよ 里ん よね たや れん もん いち いく まん なか はつ はや たよ」の女性17人の名が刻まれている。
 塩島区専念寺にある善光寺三尊には、「天保九年戌四月世話人 傳十五左エ門 有縁無縁為菩提善光寺講 塩島村女人中」とあり、ここでも女性が大きくかかわっていたことを示している。
(梶田註:この後に、「念仏講に用いられる数珠」(白馬村内山区所有)の写真が記載されている。)


 1998年9月1日、長野市で開催された日本高齢者大会へ参加した折、投宿した伊藤馨氏宅(民宿「マル七」)で標記の記録誌を拝見した。その中に、白馬村における徳本上人の名号碑について、写真とともに上記のような記述があり感銘を受けた。