弓道を学ぶ楽しむについて

西欧の弓道人へのアドバイス(日本語訳版)
愛知・稲沢 松井 巌
1995・11・15

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目 次


第1節 弓の道としての弓道 2
第2節 弓道の楽しさ 4
第3節 的中の楽しみ 5
第4節 的中の位 6
第5節 人に感動を与える芸術としての弓道 6
第6節 離れの味わい 7
第7節 礼法に適った体配の意味 9
第8節 一生の修養道としての弓道 12
第9節 世界平和に貢献する和の精神 12


第1節 弓の道としての弓道


日本の弓道は、西欧のアーチェリーと随分違った要素を持っています。
私は、この表題で「学ぶ」と言う言葉を使用しました。ここから説明致しましょう。日本の弓道は、その呼称からして「弓の道」と書きます。弓の道とは、弓の修練を通して、人間としての生きる智恵を学ぶと言う事を意味しています。そしてその道は、山の裾野から山頂に向けて、ずっと続いている道です。その道の頂には、人間が社会の中で・そして個人の生活の中で最も幸せな生活のレベルを指しています。その頂を、弓道の修練の最高目標として掲げています。
しかし、弓道の修練を通して体得する人生の喜び・智恵は、山頂に到達しなければ感じる事が出来ないというものではなく、それぞれの高さに応じて見出す事が出来るものです。勿論、山頂に到達出来れば、そこには素晴らしい景色が約束されていますが、山道の途中であるからと言って奇麗な景色が見られないと言う事は在りません。鳥瞰のスケールが若干小さいだけです。
だから決して山頂に辿り着かないとその喜びに浸れないと言うものではない事を理解して下さい。それは山登りの様なものです。山頂に到達した時には、貴方は360度の視界全体が見えるでしょう。自然と人間の世界が一体になった調和した美しさを見る事が出来るでしょう。また大きな自然の中で、人間がひっそりと自然の中の一部の場所を借りて慎ましく生活している微笑ましい・心温かい光景も見る事が出来るでしょう。
そして密かに生きている事の幸せと、山頂に登り切って、この素晴らしい光景を眺められる自分の幸せを感じる事も出来るでしょう。
一方、山頂に到達する途中であっても、それなりの美しさ・楽しさ・喜びに接する事が出来るでしょう。それは、山頂に比べて少し小さなものであるかも知れませんが、本質は全く同じものでしょう。

弓道では、この美しさ・楽しさ・喜びを、「真」「善」「美」と表現しています。これらについて弓道教本に従って説明しましょう。
「真」は、真実です。あるべき姿を求めて歩み、その結果を得る人生の 真実です。それは一射毎に基本に照らしながら、射を行う事を通して体得します。邪な心を捨てて、真実に成り切る。真実に成り切るとは師匠の教えに基づいて、正しい方法で、正しい心で射を行う事です。
その結果として、弓の冴え・弦音(つるね)・的中という形がそれが実証されます。世の中の表面的なものではなく、真実を求める心により、平穏ながら本質を得た生活が体得できます。
「善」は、倫理・道徳です。礼の心を体得し、争う事のない静かな心境です。それは常に反省の心の中から生れます。弓によって親しみ、弓によって他の人と協力しあい、和の心で平らかな心を持ち、心的にも平静を失わない心境です。そしてどんな環境の中でも常に自分を維持し続ける平常心を体得します。
「美」は、美しいと言う感覚的な快適さです。真なるものは美しく、善なるものは美しい。これらは具体的には、射礼の形で現される。
また一つ一つの動作においても、真実・善を求めて修練し続けてきた人のみが、表現出来る美の世界が生れます。
初めはぎこちない動きも、度重ねての修練の結果、必要かつ最小限の簡素な動きを造り、その中で本質を突いた、しかも連続的な流れの中でその動きが実現されるようになります。これを身についた動作と言います。
またこの様にして出来上がった動作を自然体を表現されますが、厳しい修練の結果身についた最も合理的で、簡素な姿です。丁度、厳しい風雨・目まぐるしく変化する風の吹き付けの中で、耐え続け、最も自然の力を合理的に流して、毅然と立っている山頂
の樹々の姿が、自然の一部となって同化している様と同じです。
この様に人の動作も大自然の動きの様に、ごく自然な動きの中に、調和の美を生み出します。

これらの最高目標は、日本の文化風土の中で求められるものです。
欧州の文化風土の中で、これをどの様に位置づけるかが、一番始めに確認しなければならない事となります。日本の社会の中の価値観から生れたものであるからです。
しかし私は、これらの最高目標は文化風土の違いの中にあっても、人類の普遍的な価値と為りうると考えています。特に、善の思想は「和」の思想の上に成り立っており、「和」は人類共通の在り方だと思います。人種や宗教等により、価値観が違う中で色々な抗争がこの世にありますが、調和・和を求めて努力を重ねているのは間違いないでしょう。「善」の価値観を否定して、競う・争う事を通して、勝利を得る事を最高の目標と置き換えるならば、それは日本の伝統的な弓道の求めるものと違ったものとなってしまいます。
これらの最高目標を目指して色々な修練の内容があり、段位などの評価が生れます。それは段位が資格・ライセンスと言うものではなく、修練のレベルがどの段階にあるかを、自分のレベルを確認し、次の修練の目標を確認するものと考えて頂くと善いでしょう。

少し難しい所から入ってしまいましたが、先ずは「何を目標にしているか?」を明確にして置かないと、色々な前提条件を説明の中に入れなくてはならないので、ここから説明をスタートしました。

第2節 弓道の楽しさ


弓道の修練の面白さは何でしょうか?
矢張り、的に矢が的中する楽しさでしょう。そして射と一体になった立ち居振舞い(体配と言います)の美しさにあるのではないでしょうか?
体配は、日本の礼法と結びついたものであり、日常の礼儀作法がこの中に秘められています。また日本の禅仏教の中では、日常のこれらの立ち居振舞いは仏教の修行そのもので、此れを通して理想の人間としての仏陀になるとさえ言われています。この射と体配が一体になったのもが「射礼」と呼ばれるものです。皆さんが、大会や講習会で先生方が模範として演武される「矢渡し」であり、「一つ的射礼」であり、「巻藁射礼」です。先生方のこれらの演武をご覧になると、弓道は的中だけではなく、体配と一体になった芸術として感動されるでしょう。
そしてこれらは修行の度合いにより、殆ど行き着く所が無い程の深さを持ち、修練を重ねる事によりどんどんと高さ・深さを増して行きます。この何処まで行っても到達転の無いほどの深さと高さが、道としての修練の楽しさであり、また見る者に感動を与える、研ぎ澄まされた「簡素の美」となります。

では射法の面から説明しましょう。
矢を放した瞬間に、あの的の紙を破る音の快さは何とも言えないですね。的中の楽しさです。しかし、それが進むと的中しなくても楽しくなる段階がやってきます。
的中しなくても弓道が楽しくなると言う事は、自分が正しい方法で、正しい心で、基本技に忠実に修練している自負と、的中以外の矢の速さや・弦音の軽さ等により、的中とは違った観点での射の正しさを自分で確認する事が出来るからです。
この様に、的中しなくても弓道が楽しくなれば、それは相当修練を積んだ人であり、本当の弓道の楽しさを知ったレベルに到達したと言えるでしょう。これは多分初心者の方には、理解出来ない所でしょう。的中しなくてどうして楽しいか?とーー
これは、自分が正しい事を求めて、一生懸命に努力しているという、そのプロセスに喜びを感じる段階であり、正しい事を求めて世俗の表面的な評価に惑わされない自分を発見している喜びでもあると思います。
的中は結果であり、正しく射けるようになれば、自然と的中が得られると言う事を知っているから、達観しているのです。他人が何と言おうと、自分は人としての在るべき道をひたすら歩む。そこに自分の人生の態度があり、姿勢があり、そうである自分に誇りが持てるのです。逆に的中したからと言って正しく射けたとは言えない事も理解しているのです。正しく射けば必ず的中するが、的中したからと言って正しく射けた事の証明にはなりません。「逆必ずしも真ならず」です。

第3節 的中の楽しみ


では的中は、どの様にして得られるのでしょうか?
弓も矢も道具です。物理的に考えるならば、的が安土で静止している中で、定まった距離で、同じ場所から、自分の道具(同じ道具)で、同じ様に射て・同じ様に放すならば、矢は同じ所に到達する筈です。基本に忠実にして、繰り返しの修練により射形が一定に固まってくれば、自然に矢の行く先も一定の範囲に飛ぶ様になります。
然し、実際にやってみると、同じ様に射いて、同じ様に放している積もりでも、矢の届く先が一本一本違うから不思議です。それは技が固まっていないと言う理由と、心の問題が関係してきます。当てたいとか、上手に引かなければと言う心の作用が、射を違ったものとしてしまうのです。物理的にだけ考える事の出来ない「心の作用」があるのです。では基本の技とは何でしょう。
先ずは
@左右の手先のバランスになります。
A 左右の体のバランスとなります。
B 左右・上下・体の前面と背面のバランスとなります。
C 更に次の段階には、弓と体と精神のバランスとなります。
D 更には何も考えないで得られる的中の段階となります。

第4節 的中の位


この様に日本の弓道では、的中の在り方に段階があります。
的中すれば善いというのではなく、的中の仕方に差があるのです。それらの教えには、古くから「十二字五位」と言う教えがありますが、ここでは省略します。私の別の資料の「礼記射義・射法訓の解説」の詳細述べていますので、参照して下さい。
従って、これらが段位認定の考え方となります。
段位の認定試験(審査と言います)では、受審者は2本の矢を射き、それにより評価されます。初段でも6段でも、同じ様にたった2本の射によって評価されます。それは、同じ的中でも、位・意味の違いが在る事を示します。それが上に説明した「的中の在り方の違い」となります。「的中すればよい」と言う考え方はありません。的中のみに拘ると言う事は、的中させる事のみを目的とした戦国時代の「弓術」となります。武器としての意味を無くした現代弓道の求めるのは、「弓術」ではなく、「弓道」であり、冒頭に説明した「弓道の最高目標」を極める為の道であり、その道への修練を通して「人を造る」事に在ります。「人格の向上」を求めているのです。

第5節 人に感動を与える芸術としての弓道


心の要素や、美的要素を取り除いた「科学的合理性の中での的中ではない」事を基本的に理解しておく必要があります。弓道をしている姿は見ていると非常に簡単に見えます。左右対称で、弓と体が一体となって、心の中の気合と共に左右が一部の狂いもなく分かれて、的に向って矢が真っ直ぐに飛んで行き、非常に美しく・簡単に見えます。しかし実際にやっていると、頭で考えた事と余りに違い、自分の思う様には何一つ出来ない事を発見します。考えている事と実際に行動している事とは、こんなにも隔たりがあるかとつくづく思います。
特に初心の内は、弓を動かす方向に体が動いてしまい、弦を引こうと思うと弓を握る手も・弦を引っ張る手も手先が堅くなってしまい・その逆に一番頑丈な体の中央部分が空っぽになってしまい、とてもどっしりした感じが生れません。又弦を放そうと思っても思うように放せません。放すと弦が顔や腕に当たってしまい、弦を放す事が怖いとか、思い切って放そうとすると左右のバランスが合わず、矢が右へ飛んだり左へ飛んだりして、思うように矢は飛んでくれません。それどころか矢は羽を左右に振らせて飛んで行ったり、とんでもない方向に飛んだりもします。

そしてそこで、三重十文字の体の構えや、五重十文字と呼ばれる射の基本を学ぶ事になります。これらは多くの骨で繋がっている人間の体と色々な筋肉を、どのように組み合わせ・活用すると善いかを、長い日本の弓道の歴史の中で体験的に見出してきた射の基本と言う事になります。

3段までは、弓を操作する事が精一杯で、とても精神的な事を考える余裕はありません。日本語には「身につく」と言う言葉があります。
これは「出来る事」と「身につく事」を分けて使用しています。意識をしながらやっている事と、意識しなくても出来る事の違いとなります。
基本の技が身につくと、ようやく精神的な事を考える余裕が出来て来ます。それは離れに顕著に違いが現れます。

第6節 離れの味わい


日本語では、放れと離れを使い分けています。前者は、放す意味が含まれており、後者には自然に離れる意味が含まれています。初心の内は思い切って放すのですが、6段以上の高段になってくると竹に積もった雪が重みに耐え兼ねて自然に撓り雪がスルットと落ちる趣きです。雪が落ちる瞬間は途切れる時がなく、連続的であり、調子で放れるのではありません。極く自然にスルット落ちるのです。大きな葉っぱの上に溜まった水滴が次の一滴でホロリと落ちる趣きです。作為も何もない状態の中で矢が離れていくのです。初心の段階では、大きく左右が一文字になるように、会での矢の延長線に放すのです。しかしやってみて分かるのですが、なかなか一文字には放せません。それは、放す前の「会」の状態で、矢の方向に押し・引きの力が働いていないからです。これが、五重十文字と呼ばれる基本の技の大切な所です。「会」において矢筋の通りに、矢の方向に押し、矢の反対方向に右手が張っていると、放した瞬間一文字に左右の手が開きます。それが実際には、左右のどちらかが上下してしまいます。弓を楽に押そうとして弓を握り込んでいると、弓を下から押し上げており、突き上げる力が働いているから、放した時に右手が上に上がってしまったり、弦を引く事ばかり考えているから肘から手の方(前腕)が後ろ斜めの方へ力が働き、放した時に右手が下へ放してしまうのです。ですから一文字に放すと言う事は結構難しいものです。
従って「会」の形や、内部の力の働く方向によって、矢の飛んで行く先は決り残身(残心)が決ります。高段者が、会の形を見て矢の飛ぶ先を見破るのはこれによります。
ですから当然的中してはならない矢が的中すると、何か細工をしているか、不正な事をした結果と判断します。例えば、狙いを変えているとか、放す時に弓を後ろに振り込んでいるとか、正常の形では働かない別の力を加えて的中している、等などと見るのです。これが、的中したから正しく射いているとは言えないと説明した所です。
正しい方法・基本技の意味を知っている人に取っては、自分の心を胡麻化す事は出来ません。まして経験豊富な先生の目を胡麻化すことは出来ません。しかし、経験が浅い人は、的中すればそれは正しい行射の結果で的中したものとを勘違いしてしまいます。真実を見詰め、求め続けている経験豊富な人のみが出来る洞察力です。

この様に、基本の技を一歩づつ体得して行くに従い、上に書いた的中のレベルが変わって行きます。そして遂には最上の離れのレベルに到達するものです。
理想の離れは、自分の骨格から見て最も正しく射ける矢の寸法(正しい矢束)を引いて、それが自分の自然の骨組み(骨法―こっぽう)に嵌まり、その結果弓の力を体全体に万遍なく均等に受けて、その段階すなわち力学的には何も出来ない状態の中で、精神作用がどんどんと内部で膨らみ続け(これを延び合いと言い、気合とか気迫とかの言葉で表現します)、そして延び合っている途中でストンと自然に離れて行くのです。これが詰め合い(骨法の詰め合い)であり、延び合い(身体と精神が共に永遠に矢の筋に張合い延び合う)事を指します。
これは正しきを求めて、永遠に努力する姿勢であり、もっと言えば当たり外れを考えないで、正しいと言う事を努力し続けるという態度になります。そこには世間の評価とは関係なく、自分の正しきを求める気持ちだけがあり、それが技を乗り越えた精神的な分野となります。的中を得たいと言う人間の煩悩と闘いながら、時にはその煩悩に負け、そして乗り越えようと一射毎懸命に努力を続ける事を言います。これこそが、伝統的な弓道が最も要求する所であり、弓道修練の意義です。
「気は技を制する」と言う言葉で表現されます。ここに日本人の美的感覚・審美観がこんな所に現れます。

この様に、修練のレベルに応じた放れがあり、的中があります。
その意味では、師匠の教えを素直に聞き、現在の的中に満足しきっていては上達しないと言う事になります。修行のプロセスをイメージとして説いたものとして、別に書いた「十牛図」の中や、段位別指導要領の中で「自然の離れ」と「合わせ放れ」を区分して説明している内容になります。
これらは、禅の思想や、儒教の思想や、神道の思想と結び付いています。
そして冒頭の弓道の求める最高目標の中で示している内容を実現する所でもあります。的中は大切ですが、それを求める心が問題です。
結果を求める余り、その経過の中に不純な心があっては、その的中はやはり不純と言わなければならないでしょう。
日本の武道が求めるものと、スポーツが求めるものの違いがここに現れます。従って、初心の頃は射法八節の基本に従い、基本的な技を習得しなければなりません。但し的中の為に狙いを変えてはいけません。矢は、貴方の射の結果として矢所が決ります。従って、自分の矢が飛んだ場所により、自分の射の良さ悪さを反省しながら、正しい射が出来る用に修練を重ねる心掛けが、一番大切な所となります。ここに既に「修養道の弓道」と「スポーツとしての弓道」の違いがあります。
基本の技も段位によって、次第次第に要求するレベル・内容が変わってきます。そして基本の技が身に付くのが4段位となります。これが段位の意味となります。

第7節 礼法に適った体配の意味

次に体配ですが、これは日本における礼儀作法が組み込まれていると説明しました。詳細は、私の「弓道における礼」の小冊を参考にされたいと思いますが、要約してここに示します。
礼とは、人間関係を旨く維持する為の潤滑油の様なものです。その心を形に表わしたものが礼となります。人間関係とは、上下・横となります。皆さんも、勉強・弓道・人生を教わる等の先生や先輩に対して、「教えて戴いて有り難うございます」または「教わる機会を得て有り難い」という貴方自身の心の中に自然と沸き上がる気持ちがあると思います。
それは、人間皆平等だとか、謝礼を払っているから教えを受けるのは当然だという気持ちではないと思います。日本語で「有り難い」とは「普通では有り得ないことである」という感謝の気持ちを持った言葉となっています。だからこの気持ちが形に現れるのです。特にここでは上下の礼を中心に紹介しましょう。
日本は、ご存知の通り島国で、互いにその外へ逃れる事は出来ません。またその島の中も多くの山や河川により、地域社会は閉ざされます。そしてその中で、人が生きる生活の主たる手段は田畑という動かない土地です。従って、その中の人も移動しないという環境があります。しかも気候は変化し易く、収穫を守り・得る為には、沢山の経験を持った年長者の智恵が生活を支えます。そんな中で年長者を尊び・豊富な経験を持った人を尊び、彼らから多くの教えを受けて平和な生活を営む事を続けてきました。そんな意味で日本では、上下の関係を非常に大切にしています。

弓道の世界では、段位の上下・役職の上下・年齢の上下などです。
道場へ一歩足を踏み込むのもどちらの足から入るかが問題となります。それは上位に対して失礼に当たらないようにと言う考え方から判断されます。普通は、道場に足を踏み込むのは左足からします。これは多くが右の方には、神棚や先生等の上位者が見えるからです。これを「左進右退(さしんうたい)」と言って、左足から進み、右足から下がる事を意味しています。
これは道場や座敷などでの着座の順番や入り口の設置の仕方等に、習慣があり定めがあるから、一般的に左進右退で礼儀にかなうのです。
高段になると、この一般的でないことに対しても、礼を失しないように配慮する事が要求されます。また立ったり・座ったりする全ての動作は、この礼を失しないように左進右退が原則として動作し、また上位者にお尻を向ける事は失礼となりますから、歩口中・停止体での曲りかた・進む方向なども、これを原則とします。
更に細かく言えば、例えば先生が二人並んで座ってみえる時に、お二人の内でどちらの先生が上位者(段位が上とか、年齢が上等)であるかを判断し、その下座から座らなければならない事となります。礼儀作法の全てをここに説明し、紹介する事は出来ませんので、それらは弓道の修練を通して覚えて戴きたいと思います。

これらの礼儀作法の内容は、紀元前5世紀頃の中国の孔子と言う人が定めた礼法(礼記―らいき−と言う本に著しています)の精神と形を受け止め、日本流に昇華して定めたものです。
孔子の思想は、儒教と言って東南アジア全域に広く広がっています。
日本では、礼法は小笠原流がその中心になっています。これは天皇のご指示により、小笠原家がこれを整理統合して、それ以降小笠原家が宮廷内・武家社会の礼法の指導を行ってきた歴史的な経緯があります。礼についての基本的な考え方を理解して置く事が大切になります。道場に掲げてある「礼記射義」は、儒教の礼記から引用されて書かれたものです。弓道人の全てが修練の心得として大切にしています。
従って、道場の中で学ぶこれらの礼儀作法は、日本人の生活の中でも共通に使用されているものであり、弓道の中で身につけたものが生活の中で、社会の中で其の侭通用するものです。これらが弓道を通して自然に身につくと言う事は、礼儀作法をわきまえた人を育てる事であり、社会の中に入っても人に恥じをかかせる事のない、社会の常識を身につけた人を育てる修練の場となります。それが「道の場」としての「道場」となるのです。

また体配では、礼の仕方・立った姿勢・座った姿勢・歩く姿勢等色々な要素が含まれています。これらは、弓道がもともと武士のものであり、敵にどこから攻められても受けて立てる様な形となっています。従って弓道では、これらの動作の中にスキ(隙)を作らない様に、常に自分の身を守る様な形と流れが組み込まれており、それらが要求されます。即ち立ち居振舞いの動作が形通りに出来れば善いと言うものではなく、その形は勿論「礼に適っていなければならない」がそれと同時に「間延びしていたり」「スキが有ってはならない」事になります。
そして尚且つ、全体の場で最も調和の取れた形となっていなければならない。体配の難しさはここにあります。矢渡しなどでの、射手や介添えの取る場所については、京都の禅寺の石庭の様な、在るべき所に在る。決った空間の中で最もバランスが取れた場所に位置しなければならない。そこに在る事により、全体の調和が取れ、最も自然なバランスがなくてはならないのです。この自然のバランスとは、西欧においてのシンメトリカルな美ではなく、色々な変化の中での調和を意味します。それが日本における調和であり、西欧流に敢えて言えば「アンバランスの中の調和」と言う事になるであろう。シンメトリーになり得ない所でも調和が取れていなければならないからです。

第8節 一生の修養道としての弓道


日本の弓道を学ぶ楽しさは、尽きる事のないこの深さと高さに在るのではないかと思います。どこまで修練しても最終点が無いその深さであり、その中にある美しさという点ではないでしょうか?しかもそれらが修練のレベルに応じて連続的であり、一本の道として高い頂まで繋がっている事に在ります。
弓道は、闘う相手のある柔道や剣道と違い、相手は自分の心です。的は静止して動きません。距離は常に一定です。使用する道具は自分のものであり、結果については他人は一切関係がありません。全て原因は、自分自身にあるのです。自分の至らなさが結果として現れます。それが的であり、矢の飛びかたです。
修練をする人に対して、厳しく反省をする事を求めます。自己満足して、反省の無い人には、進歩は約束されません。社会の中での人間として、此れほど厳密で在り・厳しい事は無いでしょう。他人の目は誤魔化せても、自分の心は誤魔化せません。
この自己統制・自己規制・自己を律する意味においては、何にも増して厳しい内容があります。「自己を高める」為の「修養道」と称されるのは、これによります。そこから「的は自分の心を映す鏡」と言う言葉が生れます。神様が・仏様が願って見える本当の生き方を求めて修行する姿が、私たちが学んでいる弓道の中にあります。

的に向って矢を放す。そして的中を得る。この単純な目的の中に人間としての深い在り方を求めているのが、日本の弓道です。的中を楽しむ事を通して、心を鍛える事に繋がって居るのが「日本の弓道」です。

弓道の底流には、日本の神道・仏教・儒教などの理念・規範が随所に埋め込まれています。それらは、修練の年数に応じて段々と深い所に入って行きます。善い先生の下で修行することは、それだけ深く・高い自分を育てる機会を造ります。

第9節 世界平和に貢献する和の精神


最後にこれらの価値観を、善きにつけ悪しきにつけ、島国という限られた世界で、多くの自然に囲まれた日本民族が、何千年もの間に、豊かな自然を享受しながら、厳しい自然と一体になって、狭い閉ざされた地域の中で生活する事を通して体験的に積み上げてきた「和」の精神を基盤にした人間関係の在り方・一個の人間としての在り方等を形の上でも纏め上げてきた「武の道」でした。社会の中で求められる人間の生き方の一つのパターンとして、これらの中に有る物はは「万国共通」の人間の生き方に通じるものであると確信しています。それぞれの文化・風俗・習慣の違いを越えたものであるが、しかしそれらの違いを夫々咀嚼して自国文化にどのように融合させるかは、各国の弓道指導者のご努力に拠る以外にはないと思います。弓道を通して、物質的な富みの根元である科学的合理性の世界と、心の豊かさ・体験の中に秘められた非科学的・非合理的な世界を融合させて、人間としての本当の幸せを求める重要な要素と為りうるであろうと思います。また日本伝統の「和の精神」は、それを地域社会に広げ・国家間に広げる事により、闘争の少ない平和な社会を築く上において有用となろう。西欧と東洋の互いの価値観・宇宙観の違いを埋め合わせながら、互いの長所を生かしながら、短所を補い合う事により、本当のより大きな人間の幸せを築く事が必要であろう。弓道は、西欧と東洋とを結ぶ「虹の架け橋」となる事は間違いないでしょう。
世界の物理的な距離がどんどんと狭まり、その中での互いの価値観を尊重し合いながら、自国文化の中に取り入れる意義のあるものは、どんどんと取り入れ、互いに有意義な人生を送りながら、互いに平和な中で生活する智恵を持たなければならないと思います。 以上