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梶田註:昨年12月におこなわれた講習会の折に、講師を勤められた松井先生が「NIFTYに射法訓や礼記射義に関する解説論文を掲載しているので、インターネットをおこなっている方はダウンロードしてぜひ一度読んでみてほしい」旨のご紹介がありました。早速ダウンロードして拝読いたしましたが、なかなか中身が高度で理解できないありさまですが、弓道を志す皆さんにもぜひお読みいただきたいと思っています。
丁度、本日(2000年1月30日)、愛知県武道館でおこなわれた範士十段故魚住文衛先生の追善射会で松井先生にお会いしましたので、「折角の貴重な論文ですので、一人でも多くの弓友に読んでいただきたいと思うので、ホームページに掲載して紹介したいのでお許しいただきたい」とお願いしたところ、快くご承諾下さいました。
以下の3論文は、松井先生ご自身による前文を含めて、NIFTYに掲載されているものです。NIFTY会員の方は、NIFTYのホームページから「FBUDO」と入力して「GO」ボタンをクリックし、「◇プロレス/ボクシング/相撲/武道」→「武道フォーラム」→「データライブラリィ」→「保存版ログ、論文」と進めば、そこにこれらの論文が掲載されています。
なお、お読みいただく方の便宜をと考えて、見出し部分の活字を大きくしてあります。
日本のすべての弓道場には、礼記射義・射法訓の二つの教えが掲示されています。私達は、この二つの教えの内容を再度確認し・吟味し、その貴い教えを理解しながら弓道を修練し・実践しなければなりません。ここが原点であり、終着点であると思います。ここに礼記射義・射法訓の意味をよく理解して、しっかりとした弓道観を育て、実践しましょう。
松井 巌 教士6段
愛知県稲沢市高御堂2-23-6
作成 ・平成6年11月29日
改定1・平成9年02月25日
改定2・平成9年04月05日
【mail address:i-matsui@mxp.meshnet or.jp】
目 次
01.弓道教本での説明 3
02.射法訓で理解し難い表現は? 4
03.日置流竹林と吉見順正 5
1)吉見順正について 5
2)三十三間堂の通し矢について 6
04.書に曰とは? 8
1)竹林派 四巻の書について 8
2)日置流竹林派について 9
3)竹林流の呼称について 10
05.「鉄石相剋して、火の出ずること急なり」について
10
1)十二字五意(位)の意味 10
2)離れの位・的中の位とは 13
3)「絹綾錦三段の事」と「十二字五意」の関係
14
06.「金体 白色 西半月の位なり」について
18
1)「中央の巻 十四 五輪砕と言う事」について
18
2)五輪砕の思想 19
07.仏教の五輪思想と古代インド思想の五大思想について
20
1)古代インド哲学の流れ 20
2)「梵我一如」の自然と人間の関わりについての考え方
21
3)五つの元素の思想―五大思想について 24
4)バラモン六派とサーンキャの世界構造論
25
5)仏教思想の発展 28
6)密教における五大思想の取り込み 33
08.真言密教と日本における五輪砕思想の関連
35
1)日本仏教の五輪思想 35
2)射技のおける五輪砕の教義 38
09.射法訓の本当の意味の理解を 41
10.射法訓解説についてのお断り 42
参考資料: 42
礼記射義・射法訓の解説の最後に当たって 43
「射法訓」
射法は、弓を射ずして骨を射ること最も肝要なり。心を総体の中央に置き、而して弓手三分の二弦を推し、妻手三分の一弓を引き、而して心を納む。是れ和合なり。然る後、胸の中筋に従い、宜しく左右に分かるる如く、これを離つべし。書に曰く
鉄石相剋して火の出ずる急なり。即ち、金体白色
西半月の位なり。
01.弓道教本での説明
礼記射義が、弓を射るについての心を教えたものであるのに対して、射法訓は、弓を射る方法・技術について書いたものと言えます。
弓道教本の中には、53頁に宇野要三郎先生は「三位一体」の古文献の項で解説をされていますので、さらに私見を交えて意訳をしたいと思います。
「射を行う場合には、弓の操作に囚われて、自分を失ってはならない。射は自分の骨法に従ってこれを行う事を忘れてはならない。心気を体の中央である丹田に置き、これを安定させ、引き分けに至っては、弓手を以って弦を推し、妻手で以って弓を引く気持ちが必要であり、即ち弓手は妻手と、妻手は弓手と調和を取って射く。これは、真っ直ぐに伸ばした弓手と、折り曲げた妻手とは2/3:1/3で始めて釣り合いが取れると言う教えです。弓手と妻手が相対応して均等に引き分ける必要がある。その上で、体の中央に置いた心を丹田に納め、身心弓の和合を図る。これを三位一体の「会」と言う。その上で胸の中央線から左右に分かれる如く左右に均等に張合う。これは、気持ちを体の中央に置き、力は体の中央から左右に矢筋に沿って内側から外側に向かって、徐々に働かせ、矢筋に一文字に張合った上で離す事が重要である。
これは、昔から伝書の中に言われているように、放たれた矢は的に対する当たり外れを言外に置き、離れた矢先の鋭さは恰も鉄と石が相剋して、火の出るような鋭い・気力に満ちた偉大な射を生む。即ち「鉄石相剋して火の出ずる事急なり」の位となる。
即ち それの位とは恰も暁点における金体が白色を帯びて東の空に輝き、西の空には半月が掛かり、相対照している黎明の位の素晴らしい残心(身)を生む。射によって生れる悟りの姿を現わす雄大な位となる」と言う事になります。
02.射法訓で理解し難い表現は?
射法訓を通して読んでみて理解し難い所は何処でしょうか?
先ず冒頭で出て来る射法は弓を射ずして骨を射ること肝要なり、そして弓手三分の二弦を押し、妻手三分の一弓を射く、という表現、左右に分かるる如く離つべしと言う表現、鉄石相剋して火の出づること急なり、金体白色西半月の位の表現などでしょうか?
これらに焦点を合わせて私なりに経験を織り交ぜて所見を述べて説明を加えたいと思います。
弓を射ずして骨を射ること最も肝要なりーー
これは、後の鉄石相剋して火の出ずること急なりの詳細解説およびその次の十二字五意の項で詳細に説明しますが、結論としては弓は力任せに射くものではなく、その人その人の骨法即ち正しい骨・関節に添って正しく組み合わせると言う意味だと理解します。矢束はその人にとっての最適の骨・関節の組み合せにより決るものであり、只一点しかないのです。1mm長くても、1mm短くても正しくないのです。その一点しかない自分の矢束を求めて射技の構成を求めなければならないし、射の運行も必要になるのです。将に規矩に従う即ち定規・コンパスで描く様に寸部の狂いも無いように運行出来る様に、スキを造らず修練が必要となります。力任せの弓は初心の間の事でしょう。後は自分の骨法を知って、自分の矢束を取る様な射技を習得しなければならないと思います。
弓手三分の二弦を押し、妻手三分の一弦を押すーー
これは宇野範士のご説明が大変に理解しやすいと思います。
心の中筋から左右に分かるる如く離つべしーー
これは先生方によって意見の分かれる処だと思います。私は、胸の中筋から矢の筋に添って押し開き・張り合い矢筋の延長線に離れが取れる事と考えています。この矢筋を考える時、押し手は肩から肘を通して前腕の下筋を通して角見即ち親指の付け根の部分これは矢の位置に等しい事となります。一方妻手は手首と肘の中間辺り即ち矢の延長線部分に当ります。妻手はやや肘を後ろ下に回す感じがあって上記の部分が矢の延長線に張れる事になります。ですから手先同志が矢の延長線に張る事とは若干違ってきます。しかもその押す張りする力は絶えず肩からもっと言えば胸の中筋から順次肩・肘・手の内へと流れていないといけない事になります。手先に力が入れば肘・肩の力は緩みます。中心からじわじわと絶えず張り続けている状態を言いますので注意が必要です。
一般的によく見られるのは、表現が難しいのですが、肩甲骨を合わせて前の胸を開いて、振り込む様な形で両肘を背面に殊更飛ばす様な離れをする人が多いのですが、私はこれを蟹の離れと勝手に呼んでいますが、甲羅を取った蟹を胸の真ん中から二つ折りにして食べますがあれを想定して下さい。これですと結果的に振り込みがきつくなります。静止している的に対して自らが弓の狙いを動かしながら離す事になると考えます。従って左右の合わせ離れなら的中も可能ですが、延び合いながらの離れを求めれば的中を得る事が難しい離れになるであろうと思います。尾州竹林流の伝書の「十二字五意(位)」「絹綾錦の教え」の意味を突き詰めて行くと矢筋の張り合いになると思います。即ち自分の骨法に寸部の狂いの無いように射き納めると自然と弓と体が一体になる訳です。その上で縦線を効かせて行くと肩線と矢がどんどんと近づいて来る訳です。狙いと矢に働く力の方向が近くなって来る事になります。そして天地左右に張合って行くと言う事は、左右に関して言えば「胸の中筋より左右即ち矢筋に張合って行って離す」事になると考えるのです。只流派によっては、最後は押し手の角見と妻手の肘の釣り合いと教える流派もあります。又背筋力を鍛える機会の無い現代においては、前の胸部の筋肉と背筋の筋肉の力のバランスが弱い為に背筋を庇う様な射法として、蟹の離れをしたり、合わせ離れによる的中を楽しむのが習癖となって蟹の離れになっている人も多いと思います。
私自身は現在出来ている出来ていないは別として、伝書に残されている「左右に分かれる離れ」を求めています。そして残身は押し手は拳1つが後ろ下に、妻手肘も拳1つ後ろ下になっているのが正しいのではと考えています。これは矢の筋に押し引きをしているのですが、押し手の角見の働きによりやや上押しで捻りが加わっているのと、妻手も同じく妻手手の内に捻りが加わり更に肘は真横よりもやや後ろ下に力が働いており、離れの瞬間には即ち弓の抵抗が無くなった時には、会での力の働きの延長線に手先・肘が移動するからです。
書に曰く以降は、後で詳細に説明したいと思います。
この項は、私自身の尾州竹林流の伝書を基本にした解釈ですので、ご指導を受けてみえる先生の指導内容をよくお聞きして考えて戴きたいと思います。
03.日置流竹林と吉見順正
つぎに射法訓を遺した吉見順正と言う人と、竹林流、三十三間堂の通し矢について紹介を致しましょう。
1)吉見順正について
射法訓を定めた人の吉見台右衛門と言う人はどんな人でしょうか、そこから話を始めましょう。春原平八郎先生の現代弓道小事典では、元の名を吉見喜太郎と言い、紀州竹林派の弓道の達人で、堂前の大射士の佐武源大夫の弟子です。
皇紀2313年といいますから西暦の1653年(江戸時代)4月26日徳川4代将軍家綱の時に、京都三十三間堂で総矢数3000射中1700射を通したのを初めとして同年5月11日には8152射で4480本、翌年には7846射で5158本、同年4月16日7723射中5252本を射通しています。
後に、吉見喜太郎経武を改めて吉見台右衛門順正と言う。順正は尾州竹林派の尾林与次右衛門に弓を学んだ。そして明暦2年(西暦1656年)に9343射中6343本を射通して「射越の誉」を荷った。そしてゆがけの拇指の皮の中に角を入れる事を工夫したのは、この人だと言われていると紹介されています。そして西暦1686年に総射数13053射中8133本を射通して大記録を作った和佐大八郎の師匠に当たります。
2)三十三間堂の通し矢について
三十三間堂の通し矢とは、どんな競技かと言えば京都洛東七条の蓮華王院の掾を射通すもので、三十三間堂は、間口が66間で、2間を一間として三十三間在る事から名付けられています。一寸分かり難いと思いますので平たく言えば柱と柱の間が33あり、その柱と柱の間が2間(1間は1.8mです)あると言う事です。ですから端から端迄の距離は約120mになります。
通すとは、軒下にも、堂の側面にも、縁にも触れることなく、堂の端から端までの120mを射抜く事を言います。それも時間制限があって1昼夜即ち24時間と言う制限時間があります。
記録としては、尾州竹林流の星野勘左衛門茂則が西暦1669年に10542射中で8000本を18時間で射通したとしています。これは当時の記録からすると大変な記録であり24時間の射通しても、その後挑戦する人が無くなってはと考えて途中で止めたと言われています。そして、その後西暦1686年に上記の和佐大八郎が挑戦した時には、大八郎の年齢15歳身長5尺6寸(約170cm)の精悍な青年が堂射に挑戦するのを見ていた勘左衛門が、初めの間通り矢が余りに少ないのを見て、少年惜しむべし
之を庇護して天下総一を挙げさせようとして、密かに大八郎を招き、小刀を取って大八郎の左の手の平の悪血を抜き取り、再び射を再開させた所、大八郎は忽ち常態に戻り、遂に勘左衛門の大記録を18年振りに破り大記録を達成したと記録されています。
堂射の始まりは、後白河天皇の時代に奈良の吉野の奥熊野山の蕪坂に住む源太と言う人が狩猟を仕事としており2町(約218m)離れて走る鹿を射損じ無かったと言う人が、自分の弓勢を試そうと思い、蓮華王院お堂の後ろに廻り、お堂の掾の上にから軒端のしたを射渡して7本を射通した事から始まったと言う。
その後慶長11年に日置流竹林派の流祖の石堂竹林坊の門弟浅岡平兵衛が50本射通した後、射通した本数を競う様になったと伝えられます。
堂射は、夕刻に初め翌日の夕刻に終わり、丸一昼夜試み、常に第一等のものは其の矢数を記し姓名を書いて、額として堂に掲げその名誉を表彰した。その額が今でも三十三間堂に掲げられています。
射手は、堂射を行う時には数日前から精進潔斎して、当日には先ず堂の傍らで習い(之を芝矢という)、次いで堂に上がって練習して、その後本射に及ぶとされています。この際、矢先きが芝に立ち、矢の飛んで来る毎に旄(ざい)を挙げ声を掛けるのです。これを芝旄と言うそうです。射手の前に立って矢を発する毎に芝旄を上げて声を掛けるのを送り声又は送芝旄と言う。また堂見6人は日置流6派の人がこれに当り、通し矢の数を記し、検見は京都の坊官が勤め、之に印判を押して之を証明したと言われます。
この様に三十三間堂の通し矢は、日置流竹林諸派と大変に深い関係を持っています。また徳川御三家の藩の名誉を懸けた競技になっていきました。それが特に尾州竹林流と紀州竹林流の名を高めたと言えましょう。また120mを低い弾道で矢を飛ばす為に、弓や矢や射法の工夫がされ、また24時間と言う長時間を連続して射る為に疲労しにくいようにゆがけの控えや堅帽子などが工夫されたのです。
それにしても24時間連続で射ると言う事。24時間で1万本射ると言う事。そして120mの距離を床・壁・軒下に触れる事無く低い弾道でその80%の確率で射通すという体力・技を考えて戴きたいと思います。100射会でふうふう言っている現代の私達です。江戸時代の弓の練習量について紹介すると、弓で身を立てている人は1日300射、そして1ヶ月の間の1日は1000射ひいて1ヶ月に1万本の練習をしたと言われています。これは明治の初めの先生の手記にも残っていますから、この位の練習量はそれまで続いていたのでしょう。現在の私達の1日にせいぜい40射位の練習とはその練習量の圧倒的な違いが理解されると思います。
こんな背景を持った尾州竹林流・紀州竹林流の伝書である日置流竹林派の竹林坊如成が著した「四巻の書」の位置づけと、竹林流の射法としての特徴があります。
「尾州竹林流 四巻の書 講義録」を書かれた魚住文衛先生は、尾州竹林の星野勘左衛門の流れを組んだ先生となります。私達もこの流派に流れる射についての理念や射法を現代に甦生して、維持していこうと修練をしています。
04.書に曰とは?
本論に入ります。前半の部分は弓道教本に宇野要三郎先生の解説があり、よく説明を聞かれる機会があると思いますので、皆さんの分かり難いとご質問の多い後半にポイントを置きたいと思います。
1)竹林派 四巻の書について
ここで書に曰く以降をもう少し詳細に紹介するとーーー
「書に曰く」とは、日置流竹林派の「石堂竹林派の弓術書
第四巻」を指すと言われております。即ち一般に「竹林流
四巻の書(ちくりんりゅう・しかんのしょ)」と呼ばれるものです。後程、日置流の中から竹林坊如成が竹林派を独立させて派を形成した経緯や、その後の竹林流と称するに至る経緯や、更には尾州竹林や紀州竹林への分岐の経緯について説明しますが、「射法訓」に表われている「鉄石相剋して火の出ずること急なり」の部分は、四巻の書の第四巻の「父母の巻」の「十三、十二字五意の事」からの引用であり、「西半月の位なり」の部分は第三巻「中央の巻」の「十四.五輪砕と言う事」からの引用になっています。
「竹林流 四巻の書」については、全日本弓道連盟の機関誌「弓道」において尾州竹林流道統の魚住文衛先生が「尾州竹林流
四巻の書 講義録」として解説されたものが在りますので、これに基づいて説明をさせて頂きます。私自身は尾州竹林流を魚住文衛先生の元で学んでいるものであり、魚住先生による直接の講義を受けており、同講義録も頂戴しており、それへの書き込みも多くしてあります。その外に紀州竹林の山東直三先生の「日置流竹林派弓道
本書口伝詳解 奥義」も参考にさせて戴きます。
「竹林流 四巻の書」とは、初勘の巻・歌知射の巻・中央の巻・父母の巻の4巻を指しております。四巻の書の構成および概要としては、「初勘の書」は主に射法七道について述べられており七道の巻とも言われています。「歌知射の巻」は、射法の内容を和歌に託して説明されています。「中央の巻」は、射法の内容を精神的な面から説明されており、又修行の心構えについて述べられています。「父母の巻」は、射法全般に亙って専門的にその内容が説明されています。
そしてこれらの巻が認許される基準は、初勘の巻が現代弓道の初段程度、歌知射の巻が三段程度、中央の巻が四乃至五段程度、父母の巻が六段乃至七段程度の時に認許されていたと魚住先生からお話を受けています。
ここでは、魚住先生の「尾州竹林流 四巻の書
講義録」から関連する所を抽出して説明しましょう。山東直三先生の紀州竹林の四巻の書も内容的には、殆どが尾州竹林流の四巻の書と同一であり、より仏教思想の面に深く立ち入って解説がなされています。山東先生は紀州竹林流を習われた方であり、系譜から見ても、「射法訓」を纏めた吉見順正は紀州竹林流であり、ここから引用する事が善いと思いますが、紀州竹林流は尾州竹林流から分岐した流派であり、その根は同一であり「四巻の書」も内容的には殆ど同一であり、魚住先生の「尾州竹林流
四巻の書 講義録」にて説明させて貰うことを予めお断りして置きます。
2)日置流竹林派について
先ず始めに、日置流竹林派または竹林流としての流派の系譜及び尾州竹林流と紀州竹林流の関連について若干説明をしておきます。
春原平八郎先生の現代弓道小事典によると、竹林派は伊賀日置流日置弥左衛門範次・安松流安松左近吉次・弓削流弓削甚左衛門正次そしてその子の弓削弥六郎の流れを組む、近江の人石堂竹林坊如成を始祖とする一派です。竹林坊如成は真言宗の僧侶であり、弓削弥六郎は父より伝授の弓削流を伝える者がなく、弓書と共に三島明神の社殿に篭もり亡くなっています。如成は三島明神の夢想により弓削の弓書を得て、射道の中興したものが竹林派と紹介されています。同じく武芸小伝には、伊賀日置弥左衛門範次は、日置弾正正次の弟で、その弟子が安松左近吉次で、その子新三郎がその技を継ぎ、その弟子が弓削伝左衛正次であり、その子が弥六郎となっています。何れにしてもこの時代には、未だ流派と言う考え方も弱く、日置流が安松流になり弓削流と呼ばれていたのでしょう。
この様に伝わった日置流の弓書が、竹林坊如成に渡り、竹林坊如成がそれらの書を悉く熟得して「日置一篇の射」と言う書物を編集し、北村の姓を石堂と改めた。この弓書を天正20年(1591年)に次男の弥蔵為貞に授けました。為貞はのちに石堂竹林と呼び、名を貞次と改め、尾張徳川家の初代である徳川義直公に仕える傍ら、実践的弓術の妙技を工夫考案して、父の如成が編集した「日置一篇の射」を加筆改編して、当流五巻(上記の四巻の書に加えて、内伝として潅頂の巻)を編集して、ここに竹林流弓術が完成しました。
3)竹林流の呼称について
日置流竹林派と読んだり、竹林流と読んだりで皆様も紛らわしいと感じられると思いますがその辺りの歴史的推移を紹介して置きましょう。
竹林坊如成の頃は日置流竹林派と称しましたが、「竹林流」の呼称は第2代目の竹林貞次以降に「竹林流」と称するようになったと伝えられています。
そして貞次には多くの優秀な弟子が育ち、正統竹林として石堂林左衛門貞直がその宗を受け、尾州竹林として瓦林与次右衛門成直が、紀州竹林として長尾六左衛門忠重がその伝を継承したとなっています。これが尾州竹林流であり、紀州竹林流となります。
流派の成立の前の時代については、色々な説があり、昏迷している部分もありますが、諸武道の流派の形成もこれらの時代であり、戦乱の時代がようやく落ち着きかけた時代背景を考えるならば仕方がない面もあろうかと思います。
このようにして「日置一篇の射」から出発して、徳川義直に仕えた石堂竹林坊貞次により出来上がった竹林流四巻の書は、その後尾州竹林・紀州竹林に分岐する時に、夫々に伝承され、内容的には殆ど同じ内容が伝承されていたと考えられるからです。これには徳川幕府の屋台骨を支える尾張藩と紀州藩の密接な関係が在る事は当然です。この様にして伝承されてきたのが、「竹林流
四巻の書」です、そしてそれらは前記の通り「初勘の巻」「歌知射の巻」「中央の巻」「父母の巻」となり、その外に奥伝として「潅頂の巻」があります。
05.「鉄石相剋して、火の出ずること急なり」について
この字句は、四巻の書の「第四巻の父母の巻」の「十三.十二字五意」に出てきます。ここで尾州竹林流では「意」と伝え、紀州竹林では「位」という字を充てています。これは、離れの事について伝えたもので、五意は五つの意味であり、五位は五つの位と内容的には全く同じ意味です。下記に示す様に「父母・君臣・師弟・鉄石・晴嵐老木」の十二字で構成された五つの位・五つの意味を指しています。
1)十二字五意(位)の意味
鉄石相剋云々とは何について語っているのでしょうか?原本を紐解きましょう。
伝書の本文で「十二字五意」とは、
一に、父母等しければ、子の成長急なり
二に、君臣直ければ、国豊かなり
三に、師弟相生すれば、諸芸長高し
四に、鉄石相剋して、火の出ずる事急なり
五に、晴嵐老木、紅葉散重て冷し
とあります。この段階が五つの位となります。
これは離れの位(品格)を表わしていると考えて善いでしょう。
同じ的中でも射の格により、離れも違って来る訳です。的中の確実さだけが修練の目的でない事が、この伝書の意味からもご理解戴けると思います。
その位の違いについて魚住文衛先生の解説を元に詳細解説すれば
父母:弓手(父)を中心にして、妻手(母)がこれに従い、左右(父母)が相協力して均等に引き分ければ、矢(子)は素直に、強く育ち、発する事が出来る。これは夫唱婦随で夫婦和合して、子を立派に育てる事と同じである。弓手・妻手が釣り合いが取れて左右のバランスが取れて放れる段階です。上下のバランス・弓力との関係・気合等との関係には至っていない。
これが、初歩の段階の放れの味わいとなります。
序でに関連する教えが、四巻の書の「第二巻の歌知射の巻」の教歌に次
のものが載せられたいます。
「剛は父 繋は母なり 矢は子なり 片思ひして
子は育つまじ」とあります。
意味は、弓手はお父さん、妻手はお母さん、その間にある矢は子供であ
る。お父さんお母さんが片思いであると、善い子供(矢:射)は育たな
い。という意味です。
ここで剛とは弓手、繋(かけ)とは妻手であり・しかもかけを繋(つな)
ぐと言う字を当てている事に注意をされたいと思います。これは弦と妻
手の手の内はゆがけの枕を通して繋ぐだけであり、力を入れて弦や矢を
握りしめてはいけない事を繋(つな)ぐと言う文字を使って「かけ」
と詠ませてその極意を伝えている事です。
妻手を柔らかくと教えている訳です。弓手・妻手の間にある矢は、父母
に育てられる子供であり、父母が仲良く夫々の役割を果たしながら、
即ち弓手は妻手を思い、妻手は弓手を思い、互いに反対方向を気遣い
ながらの意味です。そして尚且つ父の立場からそして母の立場から子供
をはぐくみ、それが有って初めて立派な子(矢)が育つと教えています。
これにより「父母等しければ 子の成長急なり」の意味が理解出来て来る
と思います。
君臣:君臣が相い助け合い政務をとれば、国も自ずから豊かになるの意味です。
君は弓・臣は身を表わします。弓力と身力の調和が取れ、縦横十文字の規矩(きく)が完成すれば、射形も豊かになるの意味を表わしています。弓と体が一つになる。即ち正しい矢束を取り、体に寸部の狂いもなく引き収めれば、弓の力を体全体で受け止める事が出来ると共に、胸の中筋からの張り合い(延び合い)も体全体で出来る事となる事を意味しています。
師弟:師弟が心合わせて修行すれば、弟子は必ず上達し、その武門の諸芸は
長じ、高まり栄える。
師は弓、弟は身です。更に師弟の間の心の交流を言います。弓と体が一
体になり、心がこれに加われば、中央の巻に示される「三合三心」であ
り「三位一体」となります。自分の骨法に最も自然は形で弓が納まる時
に、弓の力は体全体に均等に掛かり、心を体の中心に納め、そこから左
右に気を漲らせて行くと、そこに気合・気迫が生れ、射と体と心が一体
になり、その中から気合・気迫に満ちた離れが生れる。
鉄石 :鉄と石が相打って火花が出る勢いである。これは軽妙で且つ鋭い矢が
発せられないと実現出来ない。師弟の位で示した自分の骨法に対して左
右が寸部の狂いがなく、又引き分けに於いて全く同じタイミングで引き
収まり、気合が内面から外へ外へと満ちて行き、最後には弓手剛弱(
手の内の剛弱)にて的芯に向かって伸びて行く中での離れが要求されま
す。妻手・肘力にて抱え惜しみ、やるまじきと保つ気持ちと、胸の割り
轄により胸の中筋から体の外へと順次力が流れて行き、自然の内に離れ
に至る境地です。左右に一瞬に離れる言葉に「梨割りの離れ」と言う教
えがあります。これは上に紹介したように寸部の狂いもない形に納まっ
て、細部の骨法を詰め合い、その上で胸の真ん中に割り轄を打ち込むと、
丁度熟した梨の様に包丁を入れた瞬間に左右にパチンと割れるような離
れの意味となります。
自然の離れを教える言葉に「雨露離」と言う言葉がありますが、これは
芋の葉の上に雨露がのっていると考えます。一滴一滴が集まり玉を作
ります。それらにより露玉は次第に大きく成っていきます。そして芋
の葉が耐えられなくなると瞬間的にポロリと露が芋の葉から落ちます。
そして芋の葉は何事に無かったかの如く元の侭の姿を保っています。
連続的に容積を増す雨露であり、極く自然に落ちるのです。こんな自
然の離れは技に加えて延び合いの気力により生れます。気合がどんどん
と掛かっている最中に生れる自然の離れです。これが雨露離です。
気合の掛かる中で、技も呼応します。この為に竹林流では、弓手が会ま
でに延び切るのを嫌います。猿臂(えんぴ)の射と言って弓手の肘に
若干の余裕を持たせる事を重要視します。これは骨を一分残すとか、
一文残すと表現することもありますが、会に入っての左右天地に延び
合いその時にこの押し手肘も含めてどんどんと延びてゆき、押し手手
の内親指の付け根が的芯の真ん中に延びながら離れて行くのです。
その余裕として肘の残しをしているのです。大三で押し手の肩から肘
を真っ直ぐにして弓に押し込む姿を一番キライます。これは竹林流の
特徴となりますが、その背景に三十三間堂の通し矢の低い弾道で遠く
に矢を飛ばすと言う強くて勢いのある矢を生む為の技とも考えられ
ます。
晴嵐老木:時代を経過した老木のように淡々と、また春の嵐の様に飄々とした
風情であり、陽が西に傾き、雲が金色に輝く雄大な情景である。老木は
枝が枯れても枯淡の味わいを示し、地面には晴嵐で散った紅葉の葉が錦
のように敷き詰めて美しい。しかし樹々は風に関係なく微動だにせず
整然としている。
的中に拘ることなく、朗々とした中で、ひたすら真実の弓を実現する
努力を重ねている境地、否意識的に真実を求めようともしていないか
もしれない。
既にそれらの習いが全て身につき自然の形で為されており、淡々とし
て心境で弓と遊んでいる風情かもしれない。
これらは、夫々の説明で分かるように離れの味わいを示したものです。
2)離れの位・的中の位とは
この様に離れの位(射格)を五段階に分けているのは、既に弓が戦闘の武器としての存在の時代から、自己の心身を鍛える弓道の時代を先読みしていたと思われます。静止した的に向かう自分の射を求める姿勢・心・射の構成について、厳しい修練の過程として考えていたと言う事でしょう。
そこには射と言う技術的な側面と、射を通して人間としての境地を高めると言う仏教思想が結びついているのでしょう。
単なる左右のバランスによる父母の位の的中の段階、弓と体が一体になり人間の骨法を一番素直に纏め、それを弓に嵌めて的中を得る君臣の位の的中の段階、更に精密に体と弓が一体となった上で真理の為に妥協を許さないと言う心意気により永遠の延び合いを求めた精神性の発揮により、技を乗り切る師弟の位の段階、更には鉄石相剋して火の出ずること急なりの離れは、寸部の狂いも無いように弓が体に納まり、弓の力を体全体に平均に受けて、胸の中筋から肩・肘・手先へと体の中央から天地左右に向かってどんどんと延び合って、気合の発動と共に瞬間的に軽く・鋭く生れる離れの境地による的中を得る鉄石の位による段階です。その上に存在する晴嵐老木の位と、どこまで的中しても、的中の位を頭に入れるならば将に永遠の修行道としての弓道となります。
この様に十二字五意(位)で述べる離れの格は、同じ的中でも離れの味わいにより射格が異なる事を教えています。ここに単なる的中の弓道とは違う竹林流の伝統的な弓道の考え方があり、ご注意を戴きたいと思います。
しかも四巻の書の書かれた室町時代に既にこの考え方があった事を注意されたいと思います。
3)「絹綾錦三段の事」と「十二字五意」の関係
十二字五意(位)は離れの格について述べていると説明しましたが、これを実現する為の射術の問題があります。これは魚住先生の教えにヒントを得た私の理解の仕方の範囲です。それについて参考となるものが、父母の巻にありますので、関連して説明をしておきましょう。それは、四巻の書・第四巻の「父母の巻」の「十一.絹綾錦三段の事」に伝えられている内容です。
これは「修学自師の位に至ては知る事なり」とのみ記述されているもので、口伝によらないと理解出来ない内容です。ここでは三段の事となっていますが、これに筵・布を加えて五段とも呼ばれています。これは弓と体そして精神の働きに関連するものですが、織物の経糸・緯糸の織り成す縦横の構成の精度の違いと、それによる内面の精神力の働きについて説明を加える事が出来るでしょう。併せて射技論からすれば、縦横十文字の組み合せ方でも、前面から見た十文字に止まらず、上から見た時の十文字のありかたも重要であり、それは縦線の充実による矢線と肩線が一層接近する事に拠り狙いの精度を挙げる効果に結びついていると思います。
これらは修行の段階に応じて、順序を追って、最初の筵の位から、布の位、絹の位、綾の位を経て、最後の錦の位に達することを示しています。非常に比喩的ですが、言い得て妙なると思いますので、少し詳細に説明をしましょう。
五段階は上記の通り「筵(むしろ)」「布」「絹」「綾(あや)」「錦(にしき)」です。織物に託して説明していると言う事は、緯糸と経糸を想像すれば良いでしょう。即ち縦横の構成について織物で説明をしているのです。これは別の解釈をとれば、弓・体・心の三位一体と、その結果の離れへの影響を説明することとなります。これらを魚住先生の講義内容に基づいて、私流の見解を織り交ぜて説明を加えよう。
筵は、縦横の重なり合いは非常に粗く、繊維も真っ直ぐにならず、凸凹も多
い。筵の上のお米も姿を消す位の凸凹があります。
師は細かな事を
言わず、大きな射の課題だけを指摘する。即ち手先引きの状態で矢束
も正しく取れていない為に体の骨法にも嵌まっていない。結局手先で
弓の力を受けている段階でしょう。
的中も調子当りで、安定した的中も得られないでしょうし、離れも手
先で合わせて放す段階です。従って師匠も全体の射技の課題が色々と
あり、離れについての細かな事は言わず、基本の事を指摘されるので
す。的中を目的としていない弓道であり、一見的中とは関係のない指
摘に生徒は戸惑うかも知れません。ここで師匠の教えを素直に聴いて
修練する生徒は次の布の位にも上がることが出来ますが、的中の面白
さにのめり込んでいる生徒には、師匠の指導の意味する内容が理解出
来ず、指導された内容を練習に生かそうとしないでしょう。これでは
何時までも筵の位にしかなれないでしょう。
後の夫々の位の意味を理解すれば分かる通り、離れは手先によっての
み生れるものではなく、修練の度合いによって骨法で生れる離れにな
り、体全体で気合が働いて生れる段階と進む訳ですから、どんな離れ
であろうと的中に替りがないと考える生徒にとっては先生のおっし
ゃる意味が理解出来ないのは当然でしょう。ここに信頼するかしない
かの分岐点があります。
このレベルの射形にて的中を得て得意顔ではいけないのです。
これは、縦横のバランスも極めて大まかであり、離れとの関連での
矢束で考えるならば、弓の強さを手先で受けている為に、矢束も定ま
らず、単に手先でバランスを取って放す事となります。
矢束が自分の骨法にあったものではなく、恐らく矢束も1射1射違う
でしょう。勿論大三の位置も違うであろうし、引き分けの左右バラン
スも違うであろうし、縦線の働きも殆どないレベルと言えるでしょう。
従って、そこでは合わせ離れしか生れないし、緩み離れも生れる結果
ともなります。
これは縦横の構成比率からすると、縦横がどうにか十文字になってい
るかなあと言う程度だと思います。即ち力の配分としては横の方が縦
の力よりも大きいレベルではないでしょうか?
布の位になると外見的にも縦横の関係はしっかりとして来た段階をいいます。
イメージとして筵と布の縦横の組み合せを比較してみてください。
筵の縦横と比べれば、布の縦横の関係はずっと緻密であり、しっかり
としたものでしょう。しかし未だ形の縦横の組み合せであり、体まで
完全に嵌まった完全な縦横の構成は出来ていません。即ち弓と体の十
文字の段階でしかないのです。技術的には確かに縦横十文字が構成さ
れているように見えるが、矢束で言えば多分未だ数ミリのバラツキが
在るでしょう。会に入っても、単に縦横が合って弓の力を腕乃至は肩
に受けており、内面からの離れの発動は生れません。
その為に離れの発動は、外部からの別の力でタイミングを併せて放す
必要があります。内面からの気力の発動は未だ効いていないのです。
この段階では縦横が5:5で組み上がっている段階ではないでしょ
うか?
絹の段階になると、布に比べると絹独特の輝きが生れます。
布に比べれば縦の糸も横の糸も太さ・目方・色艶も揃っています。
縦横もしっかりとし、自分の骨法に合致した矢束が取れ、弓が体に嵌
まり、その射手の骨法に適合した組み合せになり、弓と体は完全に一
体になります。矢束の誤差もなく、ほぼ一定の矢束が取れているでし
ょう。それらは大三も正しく、引き分けも左右均等に出来ているとい
う条件が必要でしょう。
これらは弓構えから、打起し、受渡し(大三の作り方)、大三の形・
肘の働き・力の方向、引き分けでの弦道、引き分けの左右のタイミン
グ、引き納めまでが、布の位に比較すると一皮剥けた様に一段と全体
的に向上しないと到達出来ない位になります。この段階では、弓が体
の骨法に嵌まった状態であり、弓の力を体全体に均等に感じる事が出
来るでしょう。
その為に、力は方円の器に従う水の圧力の如く体全体に均等に弓の力
を受ける事になります。何処にも部分的に無理な形ではありません。
それ故に、会において天地左右に同じ圧力で弓の力を押し返し延び合
う事が可能になります。従って、心は総体の中央に置く事が出来る。
その上で胸の中筋から矢筋に沿って、体の中心から順次外の方へ力が
流れ、永遠の延び合いを求める精神活動により、自ずから成る輝きが
内面から放つのです。そして「気は技を制する」と言われる如く、技
から気合を意識する段階にいたります。従って、息合いにあった射の
運行が課題になる段階でもあります。
それらの後で、軽く鋭い離れを誘発する段階に育っていきます。
これにより、弓・体・心が一体となり、「気が弓や体に合う。即ち気
合いが見られる段階」に至る。それ故に、布の位では得られなかった
、内面からの気合の発動が感じられ、自然の発を生む母体が出来上が
り、的中を得たいと言うよりも、全身を理想的に骨法により組み合せ
、更に精神作用により小手先の釣り合いによる的中とは次元の異なる
離れを期待する段階となります。
全身の離れ・骨法に忠実な離れとなるのはこの為です。
この段階では、縦線主導で横線が構成されている段階ではないでしょ
うか?綾の位になるとそれが一層輝きを持って人を感動させる。
綾の位は、絹の位が気合の段階ならば、綾の位は気迫の段階と呼べよう。
この位においては、自分の持って生れた骨法に素直に且つ完全に嵌ま
り、打起し、受渡し、大三も正しい位置にあり、又弓と体とが一体
になり、縦線及び背筋も肩甲骨・肩の鎖骨の関連・押し手肘を経由し
て押し手手の内、又妻手の肘の位置・力の方向なども縦線の構成と
共に、次の引き分けに備えて最も合理的に出来上がり、引き分けも
押し手の先導により、左右均等に縦線を中心に運行され、骨法に合
った位置に妻手肘も納まり、自然に胸が弓の中に割り込み、詰合を
経て延合に至り、気合がどんどんと掛かって行き、鋭く且つ軽妙な
離れが自然に具わるであろう。この段階は上記に書いた如く、気合
即ち射(技)と気が合うと言う段階から、一歩抜け出し気が技を制
御して精神的にも大変に高度な一体感を生むであろう。絹の位が縦
横の割合が5:5ならば、綾の位は縦横の割合は6:4位のイメー
ジではないでしょうか?縦が主導して射が構成されて行くから、会
においても縦線の延びが中心になって、体全体の縦横十文字も会に
入って一層緊密になり、弓と体と心が一体に成った上で更に、縦の
働きにより一層しっかりとした縦横の関係を構成するといえるだろ
う。丁度上から見ると、縦線の充実により、肩線と矢がどんどんと
近づいてゆき弓・体・心が寸部のスキもなく、一体になって働き、
尚且つ精神力が主導で働きかける結果であろう。骨法に嵌まって
矢束と、精神的な営みの中で気合の段階から気迫の段階に入る。
従って、人をして感動させ得る離れを現出する。
射技と精神性の力の配分から、気合・気迫の離れを感じるレベルでし
ょうか?
錦の位では、縦糸も横糸も金糸・銀糸で燦然と輝き、縦横の構成ともに理想的
な組み合せとなり、それでいて自然な風情でどこにも力味はなく、自
然な貴品を持つ最高の位となる。射技と精神性の関係ではすべてが自
然の形に組み上がり、全体の調和が極く自然な一体感を持っている段
階ではないでしょうか?
この様に「織物」に比喩した表現による教えにより、上の十二字五位の離れを構成するというか、生み出す縦横十文字の格の違いが裏面に在る事を考えて戴きたいと思います。弓が体に正確に嵌まっているかどうか、それにより精神活動がどの様に働き得るかの違いとなってきます。其の意味では、矢束が本当に骨法に適ったその人に取って只一点の所にまで、完成させているかどうかに掛かって来る。高段になるに従い、矢束が自分に取っては只一点だけであり、そのたった1mmの長い短いでも弓が体に本当に嵌まった感じは得られなく、離れの濁りを自分で認識することが出来る様になります。
その為の大三の位置と力の働きであり、引き分けの方向・バランスであり、引き収めが左右全く同時に納まる引き分けの運行の重要性があり、力の停滞がなく引き分けの延長上に会の延び合い・離れが在るという力の連続的で繋がる力の働きが発揮されるのを確認することが出来ます。
その中での気力・気合・気迫が離れに現れる為に、離れの品格となって現出するであろうと思います。ここに十二字五意(位)に関連して、この絹・綾・錦の三段の教えが重要な内容を持つ事を感じて、ここで敢えて説明を施しました。
これらの原理を知らないで、先生達の言われる軽い離れ・軽妙な離れを求めて議論している弓射きを見掛けますが、軽い・軽妙な離れと言うのは決して手先の力を言えないとか、手の内が柔らかいとかの問題だけではない事を理解する事が重要であると思います。軽い離れが生れる技術要素が伝書の中にこの様に記載されているのです。
06.「金体 白色 西半月の位なり」について
次に射法訓では、「鉄石相剋して火の出ること急なり」の後、即ちと言う言葉に続いて「金体白色西半月の位なり」と言い換えている。この意味は何でしょう?何故即ちと言い換えているのでしょう。この部分は離れの後の雄大な残心の姿が表現されています。
上の説明でも示した通り、鉄石相剋して火の出ること急なりの段階とは、少なくとも「絹」「綾」「錦」の位でしょう。そしてその後、即ちと言い換えているのです。そしてその後に「金体白色
西半月の位なり。」と結んでいます。この言い換えにも意味があります。
「金体白色 西半月」とは、四巻の書の中央の巻の「第十四
五輪砕と言う事これあり」の項から来ています。その五輪砕には深い意味があり、仏教思想から来ています。
1)「中央の巻 十四 五輪砕と言う事」について
中央の巻 「十四.五輪砕と言う事」の章では、次の様に書かれています。
一に、土体・黄色・中四角と言う事。是は、先ず足踏みを大地の如く踏みて、
さて中四角とは胸骨・肩の骨ひづみなき様にと言う事なり。
二に、水体・黒色・北・円形と言うは、水の器に随ふ如くに、弓の中へ真ん丸に割り込み、
さて弱き所へ強き筋骨を水の流れる如くに引き込み、さて離は露などの落ちる如くに真ん丸にとつとつと離るる事ぞ。口伝莫大なり。
三に、木体・青色・東・團形、是れ右の丸き大体を覚えて、さて春に至って
草木の枝栄へ、花の咲く如くに拳なり・懸なり・顔持を直(ただ)す
べきなり。
四に、火体・赤色・南・三角。是れは右の花咲き美しい事を為しつくして、
さて実のなる如くに、弓をも三角にとり、五体をも相生に構え、剛を
あらせて石火の出る如くにし、弦煙を立て離る事なり。
五に、金体・白色・西・半月。是れは、右の段々を仕尽くして、弓手も馬手も
三日月なりに先枯になし、さていかにも能(よ)き刃金を能く鍛えて、
剛くはじかく、晴(さ)へて軽き刃金などを、打ち折る如くに離る。
口伝莫大なりと言う。
略して 土体 黄色 中 四角
水体 黒色 北 円形
木体 青色 東 團形
火体 赤色 南 三角
金体 白色 西 半月 です。
ここで五番目に「金体・白色・西・半月」の言葉が出てきます。
この五輪砕きの思想を説明するのは大変な事ですが、非常に大切な考え方でありますので、説明を試みたいと思います。難しい思想でありますが、ご辛抱戴きたいと思います。五輪塔・武家社会の中での国教としての仏教・その中にある宮本武蔵の五輪の書を紹介しました。そうです文字通り仏教の話に入らないとこの説明が出来ないのです。
2)五輪砕の思想
竹林流の流祖は、前記の様に真言宗に帰依した竹林坊如成です。
従って、竹林流の射技・弓道思想を伝える流派の伝書の「四巻の書」には、真言宗の経典からの言葉を多用しています。仏教の経典の中の言葉により、その理念や思想を仮託して表現しているとも考える事が出来ます。上の五輪砕の事があると言う教義も、いきなり土体黄色中四角から始まります。土体とは黄色とは中とは四角とはと疑問の連続です。それだけに伝書の中身が現代に生活し宗教が日常から遊離した私達には理解することが難しいのです。五輪と言えば、オリンピックを連想されるかも知れませんが、武道の話であり日本の話ですから、そこに焦点を合わせると、皆さんには墓所にある「五輪塔」を思い出され、又剣道における宮本武蔵の極秘書である「五輪の書」を連想されると思います。武家時代は仏教が国教として位置づけにあり、国民も含めて何れかの寺院に檀家として所属する事が義務付けられた時代です。仏教思想は当時では常識の時代であり、五輪砕・五輪の書として仏教思想を背景とした表現が現れる次第です。では五輪砕きとは何を教えているのでしょうか?
07.仏教の五輪思想と古代インド思想の五大思想について
残念ながら、いきなり五輪思想から説明を加える事は出来ません。
古代インド思想の五大思想の流れから説明をしなければなりません。
古代インド哲学の五大思想とは、この宇宙を構成しているのは五つの元素によると言う考え方です。仏教の五輪思想は、その五つの元素にそれらを司る仏・如来を貼り付けた考え方です。しかも真言密教の考え方です。これでも分かるとおり仏教の五輪思想は、それ以前にある古代インド哲学の五大思想の上に在り、その思想を受け継いでいると考える事が出来ます。この関連を述べると共に、元になっている古代インド哲学の中の五大思想から説明する必要があります。その前に仏教自体が、古代インド哲学の大きな流れの中に在る事を理解しておいて下さい。例えば、五輪思想だけではなく、輪廻転生の思想や、瞑想およびヨーガの具体的な方法や、梵我一如の思想等は、仏教独自の思想ではなく、古代インド哲学の中に既にある思想だという事です。即ち仏教思想を紐解く為には、どうしても古代インド哲学の大きな流れを理解しなければならないと言う事です。
1)古代インド哲学の流れ
古代インド哲学は、紀元前1500年に溯ります。釈迦が生れたのが紀元前5世紀ですから、それよりも1000年も前から既にそれらの思想は胎動していました。古代インド哲学の歴史は、次の6つに区分する事が一般的です。
第一期 紀元前2500年ー1500年 インダス文明の時代
第二期 紀元前1500年―500年 バラモン中心主義の時代
第三期 紀元前 500年―後600年 仏教などの非バラモンの時代
第四期 紀元 600年―1200年 ヒンドウイズム興隆の時代
第五期 紀元 1200年―1800年 イスラーム支配下のヒンドウイズム
時代
第六期 紀元 1800年以降 ヒンドウイズム復興の時代
ここで思想史として問題となるのは、第二期以降になります。
第一期は、哲学と呼ばれるようなものは無かったと思われています。
第二期の前半には、神への賛歌集を編纂した「リグ・ヴェーダ」があります。これはインドの哲学的思索の萌芽とも言うべきものです。
第二期の後半に入ると「ウパニシャッド(奥義書)」が出現して、爾来インドの哲学的基盤となります。ウパニシャッドは、自己(個我:アートマン)と宇宙の根本原理(ブラフマン)とが同一で在る事を明言します。仏教でも出て来る「梵我一如」の思想です。ここにインド哲学の基本テーマが確立します。
第三期では、バラモンによる専制とその思想に反動する動きが始まります。
仏教の開祖である仏陀やジャイナ教の開祖マハーヴィラ等の非バラモン的勢力を代表する人達が活躍します。仏陀は、バラモン達の聖典であるヴェーダの権威を認めず、ウパニシャッドが主張した宇宙原理の実在を認めようとしなかった。
仏陀及びその弟子達はウパニシャッドと同じ様に自己と宇宙の同一性を主張しなかったが、別の方法で「自己と宇宙の本来的同一性の経験」を追究しました。仏陀の教説の代表的なものは縁起説であり、この教説は仏陀以前のウパニシャッドの説と対照を成しており、仏陀の教説の特徴を善く表わしていると言われます。しかし仏陀の滅後1―2世紀を経るとその縁起説にも変化が起こります。つまりその後の縁起説は仏陀の時よりもバラモン系の思想に引き寄せられた形となっていきます。この様にして結果的には、仏教も大きなバラモンを中心とした古代インド哲学の影響を受けて思想展開がされて行きます。
これだけを前提として理解すると善いでしょう。
この様に私は仏教思想を考える時に、リグ・ヴェーダおよびウパニシャッドの中で古代インド哲学が求めてきた課題及び思索の結論が、如何にその後の東洋思想に大きな影響を与えているかを考える時に、殆ど原点に近いものを感じます。仏教思想も当然この古代インド哲学から大きな影響を受けており、真理として共通の思想基盤を与えている大変に重要な部分だと考えます。
2)「梵我一如」の自然と人間の関わりについての考え方
宇宙の構造や構成要素を考えたのは古代社会の中では、インドだけでなく、エジプトでも、ギリシャでも考えています。そして古代インド哲学の中のリグ・ヴェ−ダ−では、自然の力をそれを動かす神の存在と考えて、神への賛歌が纏められます。
紀元前9世紀から紀元前7世紀頃の古代インドに於いては、人々は時として姿・形の定かでない神神が織り成すおびただしい数の宇宙のエネルギーに目を向けます。現象界の背後に在るものに注意を払い不可知(人間が知る事が出来ない)・不可視(人間の目では見る事の出来ない)の実在を求めようとします。それらの探求の努力の跡は、ブラーフマナ文献と呼ばれるものから伺い知る事が出来ます。深淵な哲学的な思索と深い洞察と鋭い感受性で築き上げた世界観・人生観と言う事が出来ます。
これらはバラモンの専門の教育と訓練を受けた「詩聖達」によるもので、彼等は祭式の規則やその解釈を説いています。祭祀の意味についての具体的で詳細な伝承であり、祭祀で歌唱される賛歌または祭詞についての由来・価値・意味・目的・効果などについて細かく伝承しています。また祭式で人が密接に関連を持つ自然や、人間界の色々な事象に深い洞察を進めます。これは同時に供犠の研究やテキストの伝承などヴェーダの流れが中心になっています。
正しい祭式の時刻を決める為に、暦や天文学の知識が必要であり、祭壇の設計・構築には幾何学や数学の知識も必要でした。正確な発声と語法に対する必須の条件として音声学・文法・韻律・語彙等の研究も進んでいました。またアタルヴァ・ヴェーダに見られるように治病・息災の呪詞や穢れや穢れの原因である魔神又は存在の浄化を目的とした呪詞や、疾病・医薬などについての研究も進みました。
バラモンの求めた対象は、実用的効果を求めたものであり、知的満足への要求ではなかったのです。これはギリシャ文化の学問の為の学問、理論の為の理論として出発して後世の自然科学として発展した経緯とは大きな違いとなっています。
この時代に既に、大宇宙または大自然の摂理としての梵(ブラフマン)を感知しています。万物の本源への模索がこの時期に既に芽生えているのです。
紀元前6世紀頃には、全インド思想の基盤となり出発点となった最古の文献の一つで在るウパニシャッドが出現したのです。前の時代のヴェーダに根差したヴェーダ・ウパニシャッドの思索では、多様な現象界が一つの統一体として把握する唯一・独存の原理を追究する傾向を強くし、唯一の立場・唯一の形態を思索するのです。ここに梵を唯一とする見解を得るのです。そして人間の個体としてその肉体及び精神を司り・制御するものとして個我(アートマン)なるものを定義し、その個我と梵が同一のメカニズムにより制御されており一致していると結論つけているのです。
この様に仏教で言われる「梵我一如」の思想に加えて、業(カルマ)、輪廻、更には解脱などの教理の基礎が紀元前6世紀の釈迦の生れる以前の時代に確立しれいます。
個我については、ブリハド・アーラニヤカ・ウパニシャッドの中にこんな詩文があります。
「人が死ねと、その言葉は火に帰入し、息は風に、眼は太陽に、意は月に、
耳は方位に、肉体は地に、霊魂は虚空に、毛は草に、髪は木に帰入し、
血と精液は水の中に収められる。」
この様にして、人間の体も大自然の一部と考えて、大宇宙(大自然)と小宇宙(個我)との同質性を歌い上げているのです。これは、大宇宙即ち大自然である「梵」と小宇宙である個我である「我」が、同質すなわち一つの如し「一如」の思想です。この「梵我一如」という基本的な思想が、その後のインド思想の主要なテーマとして確立されるのです。
また「輪廻の思想」は、自然界における太陽の光りの強い弱いの変化・月の満ち欠け・季節の変化・移り変わりなど、また動物の生と死、植物の生と死、における如く周期的な生と滅の繰り返しの観察の中から、自然には消滅は無く循環のみがあるという思想が確信され、これが輪廻の思想になっています。
併せて、それらはこの世において大自然の摂理と同様に、自分自身を支配する力が存在し、それが人間に対して苦を惹き起こしていると考え、それらの力は一旦発動するや避けても避けられない自然の力として発揮するが為に、人間界の苦を治めて貰う為に犠えの思想を生み、それの為の儀式を生みます。
この輪廻の思想の発端・発生は、多分に植物的な見方が強いと思われます。
動物の生滅の中でも考えられる思想ではありますが、特に人間の立場から考えると身近にあって、しかも生滅のサイクルの短い植物からは一層明確に、生命の循環の思想を学んだと言う事が言えそうです。輪廻の思想は、これらの植物・動物の生滅の営みと、これら自然界と人間界が同じ摂理に制御されているという考え方の上で成り立っています。
そしてさらに「人は自分が作る世界に生じる」すなわち自分があるのはその元にそれを作る営みが在ると言う、原因―結果との因果関係と言う考え方を生み、「人は混じり気の無い・純粋な・善い・気高い善業により善となり、邪な・不純な・悲惨な・憐れむべき悪業により悪となる」という思想を生み出しています。即ち、「法(dharma)」と「方正な行状・善行(acara)」の教えが、業と輪廻の教義と密接に結びついています。これは「自律」と「規範」と「連帯感」の思想であり、インド思想の文化的な思想となっていきます。
「法」とは、自然界の出来事・社会制度・身に定まった行為など、全てが何時・如何なる時にも基準として従っている「太古からの規範」あるいは「永遠の法則」の結果として認識をしています。そしてプリハド・アーランヤカ・ウパニシャッドでは「バラモンは、ヴェーダの学習により、祭祀により、布施により、苦行により、断食により、アートマンを知らんと欲す」と表わして、これが修行・ヨーガの思想を生み出しています。
この様に、原因と結果の「因果説」がうまれ、「自律性」を求める倫理が育ち、更には輪廻転生を前提とした「解脱」の考え方や、それに必要な「施し」の思想を生み、「苦行による修行」のヨーガの思想を生む基盤を提起しています。これらはすべて、仏教が生れる以前に確立されている概念・哲学であり、それ故にウパニシャッドがインド思想全体に非常に大きな影響を与えていると評価されている原因です。
3)五つの元素の思想―五大思想について
上記の様に、古代インドにおいては宇宙(自然)と人間の関わり合いについて継続的に哲学的思索が続いています。そしてそれは現代においても同じ課題が思索され続けています。紀元前6世紀の頃に発見された宇宙と人間が同じ摂理の元で制御されているという「梵我一如」の思想の上に、その宇宙を構成しているのは『五つの元素』であると言う宇宙観(自然観)を生み、自然を構成している『地・水・火・風・空』の五つの要素と定義し五大思想となり、その後更に理論展開され深い思想として発展していきます。
五大思想は、古代インドにおいて、紀元前4世紀頃から考え始められた思想であり、インド思想史の中で、『宇宙におけるアハンカ−ラ(Ahamkara:我の作者・我執)』あるいは『ブ−タア−デイ(Bhutadi):五大元素の源』という考え方がそれであり、インド思想全般にわたる極めて重要な思想です。
それを歴史的経緯の中で辿ってみると次の様になります。
マハ−バ−ラタ(Mahabharata)とこれに続くプラ−ナ(Purana)文献は、ほぼ紀元前4世紀ころバラモンたちに主導されて、バラモンとヴェ−ダの権威を認める一切を含むインド教(Hinduism)が華々しく開花しました。
マハ−バ−ラタの哲学説では、すべて自然界に存在するものは、五種の元素(虚空
akasa-動的で無限の実体的原理と、大気あるいは風・火・水・地)の組み合わせから成っていたことを示しています。五種の元素は、この機能のため『五大』と呼ばれ、『粗大(sthela)』であり、それぞれの『極微の質』すなわち声・触・形あるいは色・味・香と関連付けられています。マハ−バ−ラタでは、感ずる器官とは何かが明確にはされていなくて、ある時は作用を、ある時は器官そのもを指しており、両者の間は何等区別されていませんでした。
仏教で五輪思想とか五大思想と言われますが、実は仏教の理論的な確立以前のバラモンによる古期ウパニシャッドの時代に既に宇宙の構成要素としての五つの元素の考え方を持っていたのです。そして、この宇宙の構成要素の五つの最も小さな物としての五元素に、思想や役割や守護する仏や如来などを関連付けるのは密教の時代になりまるが、ジャイナ教・仏教・小乗仏教・大乗仏教・第二期のウパニシャッドの時代の中でも五大の理論展開が成されますが、その次の古典サーンキャの時代になって一層専門的な理論的な追究がなされます。この古典サーンキャの動きは大変に重要です。仏教のみでなく他のインド哲学全般に対して理論的な根拠を与え、夫々の宗教・思索に対して共通の基盤を与えたと言えるからです。仏教もここに多くの理論の導入をしています。
小乗仏教から大乗仏教に発展していくに従い、釈迦が悟った真理も次第に理論化されていきますが、古典サーンキャは従来のリグ・ヴェーダやウパニシャッド等の古代インド思想共通の基盤に対する理論的な思索を加え、それらが各宗派に認められるに従い、一層理論展開を深くして行き、結果的には古代インド哲学全般に亙る理論展開が進み、その中で仏教理念の理論化も進みます。
その意味で古典サーンキャの梵我一如や五大思想等への理論的な説明付けは重要な意味を持って来ます。
4)バラモン六派とサーンキャの世界構造論
次に仏教思想を初めとして古代インド哲学全般に亙りに大きな影響を与えたサーンキャ学派についての補足説明をしたいと思います。
と言いましても仏教学者でも何でも無い私ですので、どの程度説明しきれるか確かな自信はありませんが、私自身が仏教思想を追い掛けている間に、仏教について持っていた色々な誤解、例えば仏教と一口に言っても「釈迦仏教」「阿弥陀仏教」「大日仏教」の違いが在るとか、夫々の教理の違いまたは共通点をどのように理解すべきか、仏教の寺院に何故バラモンの神があるか等などの疑問に接し、それらの背景が古代インド哲学全体の枠組みの理解であったり、全体に対する理論的な方向を与えた古典サーンキャ学派の大きな影響力を無視出来ないと考えて来たからです。しかし何分にも専門外の趣味の範囲の私故に、思い違いの部分もあるかと思いますが、それらについてはご教授戴けると幸いです。以下は立川武蔵のインド哲学(講談社現代新書)とJゴンダのインド思想史(中公文庫)から紹介させて頂きます。
サーンキャ学派は、西暦1世紀ころからバラモンの哲学者達の間で哲学諸学派の形成の動きが盛んになり、西暦4世紀末から5世紀に掛けてバラモン正統派の諸哲学の大系整備が進みます。これらはサーンキャ、ヨーガ、ヴェーダーンタ、ミーマーンサー、ニヤーヤ、ヴァイシェーシカの所謂「インド六派哲学」と呼ばれるものです。今日私達がインド哲学と呼んでいる形態の実質的な基礎はこのインド六派から出発していると言える程です。
この時期のバラモン哲学の主要関心事は「世界の構造」であり、この時期に活躍していたアビダルマ仏教哲学者達の関心事と一致していました。
サーンキャ哲学は、ヨーガ学派に理論的基礎を与え、行法を重視するヨーガ学派を支える役目を持ちます。ヴェーダーンタとミーマーンサーは哲学的には異なった考え方を持っていますが、ヴェーダの伝統を重んじる共通点を持っています。ニヤーヤとヴァイシェーシカは、前者が論理学派で、後者は自然哲学を発展させた学派ですが、両者は姉妹学派であり、11―12世紀以降は統合されて一つの綜合学派となります。
この六派の原因と結果の関係は、相異なる二つの考え方がありました。前者三学派が「原因はそれ自体の中に結果を持っている」(因中有果論)と、後者三学派が「原因はそれ自体の中に結果を持っていない」(因中無果論)と呼ばれます。
サーンキャが因中有果論の代表になりますが、この立場では「不滅のものが過去・現在・未来を通して存在しており、或る物が生じるとは、その不滅の物が顕現した状態に入る事であり、或る物が滅するとはその不滅の物が未顕現の状態に入る」という考え方です。従ってこの考え方では、厳密な意味では何も生じないし、何も滅しない。物が生じたり滅したりするように見えるのは、それは一つの不滅の素材の様態の変化に過ぎないと考えるのです。
サーンキャ哲学では、この不滅のものは「原質(プラクリテイ)と呼ばれる根本物質であり、この物質が原因と結果の関係に基づいて時間の中で展開することにより、この現象世界(現実の世界)が形成されると考えます。
サーンキャ学派の出発は紀元前350年頃から250年頃の人と言われるカピラと言う哲学者です。ウパニシャッドの時代の後、宇宙の根本原理と世界の問題には色々な学派が取組んできました。紀元前500年頃から西暦600年の頃に入ると自然に関する認識の発達と伴い、世界の成立と構造に関する統一的な知識体系が求められるようになりました。
その中でサーンキャは因中有果論に基づく展開説を発展させ、前記の様に「原質」と呼ばれる根本物質が自己展開してこの現象世界を生むと主張し、原質の他に霊我(プルシャ)と言う原理を打ち立て、この原理は原質の自己展開を見守るのみであり、自らは宇宙想像には関与しないと言う立場を取ります。これは世界の素材としての自然と、精神としての霊我を分離すると言う二元論の立場です。そして「聖なる物」と「俗なる物」の区別を求め、この現象世界は「否定されるべき俗なるもの」であり、霊我は「俗なるもの」を否定して顕現されるべき「聖なるもの」であった。しかし現象世界が根本物質の自己展開と考える点ではウパニシャッドの伝統を受け継ぐものであった。
サーンキャ派と言う呼び名は、「サーンキャ頌(Sankhya-karika)」の作者のイーシェヴァラクリシェナ(Isvarakisna)が古くからの思想を基に、当時の体裁に倣って時節を確定した特徴的な形式に由来していると言われます。彼は、簡潔な行文を用い、古くからの種々の装飾部分や夾雑物を取り除き最も簡素な且つ本論に肉迫し、教訓的詩編の形で、無神論的サーンキャ説を樹立しました。
これが西暦3―4世紀と言われます。(これが西暦6世紀頃に漢訳されて中国・日本に至っています。)
この様に世界成立・構造論の取組みにより理論整備をして、しかも理論的構造についてのその後の展開もサーンキャに対する批判の形で進み、サーンキャを無視してインド哲学の世界成立・構造論は有り得ないと言えます。
サーンキャの二元論に対して、ヴェーダーンタ学派は一元論の立場を守ります。ブラフマンと現象世界と言う二つのものを統一体として理解します。ウパニシャッドにおいては、ブラフマンは現象世界の原因であり、この現象世界は結果であり、しかもその現象世界はブラフマンであると定義して考えて来ました。この命題に対してサーンキャ学派は精神(霊我)と根本物質とを切り離す事によりこの問いに答えようとし、ヴェーダーンタ学派はウパニシャッドの精神をその侭引き継いで理論展開しています。ヴェーダーンタ学派の基礎は、紀元前1世紀のバーダヤラーヤナによって築かれたと推定されています。ウパニシャッドの聖典の編纂が一応終わった後、聖典の語句に統一的な解釈を下そうと努める人達の一人でした。そして当初はブラフマンと世界は統一体であり、この現象世界は「否定されるべき俗なるもの」ではなかったが、時代が下がったヴェーダーンタの哲学者達には、現象世界はすでに「汚れ」とものとの認識が一般化し、自己とそれにつながる世界の聖化・浄化が意識に登り始めていた。
そして西暦400年から450年頃に「ブラフマ・スートラ」と言う根本経典を作り上げました。これは宇宙原理ブラフマンと個我アートマンとが、異なるものであることを出発点として設定した上で、究極的には両者が同一であると弁証しよとするものでした。内容としては、サーンキャ学派からの批判に対する回答、サーンキャ・ヴァイシェ―シカ・仏教・ジャイナ教等の学説に対する批判、世界の成立過程を論じブラフマンから空―風―火―水―地と言う順序で世界構成要素が生ずる事を説きます。そして輪廻・個我(アートマン)と最高我(ブラフマン)との関係、念想・修道論、念想の実修法と善悪の業と解脱の関係、知者の死後の世界、解脱論等で構成されています。
これらを見ると仏教と共通の課題をバラモン六派でも扱っている事を理解する事が出来ます。
この「ブラフマ・スートラ」にはその後数多くの注釈が加えられ、現存する最古のものはシャンカラによる注釈と言われます。彼は8世紀前半の人で、インド最大の哲学者と謂れヴェーダーンタ哲学を代表する人物です。
この時代は、仏教やジャイナ教の非バラモンの哲学は世界構造論・認識論・論理学等の体系をこの時代迄に完成させており、正統バラモンの六派哲学も夫々の体系を一応成立させていました。この当時のインドはグプタ王朝が崩壊し、数多くの王朝が乱立する時期で政治的にも世相も混乱していた時代でした。
この様な時代の中でシャンカラは、仏教哲学等の先行する哲学体系から吸収出来る所は吸収し、ブラフマンと現象世界と解脱に関すると言う統一的理論を打ち出します。シャンカラは、「ブラフマ・スートラ」に依拠しながらも、其処にはない又は明白でない部分の幾つかの考え方を展開しました。
シャンカラは2種類のブラフマン即ち「最高の」(パラマ)ブラフマンと、それ以外の「低次の」(アパラ)ブラフマンとを区別します。前者は究極的実在で在り、部分を持たず、不変化で、永遠であり、いかなる属性をも持っていない。後者は属性をもっており、形態・差別などを持って世界を顕現させる。この様にシャンカラは、ウパニシャッド以来の伝統に従いつつ、ブラフマンがアートマンと同一であると考えたのです。その上で現実の経験世界にあっては、アパラ・ブラフマンが無数の個我となって現れるが、これは無明によるものだと主張します。この様に非常に仏教からも多くの影響を受けており「仮面の仏教徒」とも呼ばれています。
この様に古代インド哲学の流れを見ると、バラモン・非バラモンが互いに渾然一体ともいえるような複雑な絡みを見せながら、思想展開されて行きます。
そして仏教その他の非バラモンの宗教も、リグ・ヴェーダやウパニシャッドからの古代インド哲学の上に展開されている思想であり、バラモン六派のサーンキャやヴェーダーンタ等と影響し合いながら、仏教思想も固まっていったのです。
5)仏教思想の発展
仏教思想の発展の経緯については、普通三つの時期に区別されます。
第一期は釈迦による原始仏教の時代であり、第二期は西暦初頭までのもっぱら個人の解脱を目標とする純粋の小乗(himayana)の時代です。第三期は大乗の時代です。これらは順次に来たものではなく、宇宙真理・人間の真理の理解の仕方の違いであり、解脱の求め方の違いであり、一部並行して進んで来ました。
小乗の考え方の時代には、仏教の教義を厳密に確定し、また宗教的実践の方法や僧団運営上の様々な問題を制度化し、教理体系を整備し確立する動きを取っています。丁度この時期は、仏教のライバルである「バラモン主義インド教」の内部で起こった同様の動きに対応した動きと理解されています。
大乗は、西暦紀元の初め頃に、北方系仏教として登場します。インドの遥か北西部でその当時はこの半島中部では別の勢力が優勢であり、そこに居住していた異国出身出身の王カニシカ(Kaniska:西暦紀元1世紀末)の庇護を受けて発展し、幾世紀かの後にチベット・中国・日本などに広がりました。
特に理論的な整備については、大乗仏教はそれ以前の各時代の折り重なった思想を引き続き持ちながら、世親(Vasubandhu
:西暦4世紀頃)と言う人物から始まると言われます。世親は最初小乗を信じ、その著「阿毘達磨倶舎論」で仏教思想の解明をしたいます。それは西暦1世紀頃に成立したといわれる「大毘婆沙論」という阿毘達磨文献への膨大な注釈書の議論を新たな立場から整理した著書と言われています。そしてその後
世親は、大乗に転じ兄無著(Asanga)と共にこの教派の優位を基礎付けたと言われます。
何れにしても小乗にせよ、大乗にせよ仏教全般が追い求めている思想は、
1) 一切は一刹那のみ現存する
2) 一切は無常である
3) 一切は自相(単一・個・独一)を持つものである
4) 一切は空であると言う思想であると言われています。
これを共通課題として理解しながら、細部を比較していくと仏教諸派の関連も理解出来る事でしょう。
では仏教の思想についてもう少し深く掘り下げてみましょう。
釈迦の生れた紀元前5世紀頃は、アーリア人種がインド東部に進出し、先住民との混血が進み、ヴェーダを中心とするアーリア人の文化を形成します。国土は肥沃であり、農産物も豊かで商工業も盛んになり、強大な経済力と政治力を
持つ諸国家が勢力を競い合うようになり、思想・宗教的側面においても従来のヴェーダ至上主義が通用しなくなり、この様な下地の上で非バラモンの哲学や宗教が育って行きます。仏教は将にこの様な新興勢力の一派です。
仏教の開祖のブッダの考え方はざん新なもので、宇宙原理ブラフマンと個我アートマンとの相応において世界を見ると言う伝統的な方法ではなく、自己とその周囲世界との考察から始めました。即ちブッダはウパニシャッドの時代から今日に至るまでおおむね宇宙原理の実在性を認めたが、ブッダは自己の心身つまり自己の周囲の世界意外は認めなかった。ブッダに取っては、自我とは一体何かと言う問いであった。そしてその心身は五つの構成要素(五蘊:ごおん)すなわち物質(色)・感受(受)・単純観念(想)・意欲や心的慣性(行)および認識(識)によって成り立つと考えました。そもそも我々が宇宙の根本原理の考察に関わる必要はないのだと主張します。世界が有限か無限かも我々には差し迫った問題ではない。この苦しみの輪廻の世界から開放される事こそ問題であり、その為にはその様な根本原因についての形而上学的議論よりも、我々の実践によって悟りの智慧を得る事が重要である。ブッダが目指したのは悟りの智慧であり無明からの目覚めでした。ブラフマンと自己との同一性の体験ではなく、縁起を理解し、実践することでした。
その中からブッダの十二(支)縁起説が確立されます。それらは、
無明:無知・正しい知の欠如
行: 行為エネルギーの慣性、世界を形成する力
識: 認識内容およびその作用
名色:精神と物質、心と身
六処:心作用の場、眼・耳・鼻・舌・身・意
触: 感官と対象の接触
受: 感受、好悪の感じ
愛: 渇愛、最も基本的な煩悩
取: 執着、行為「業」の条件
有: 人間の生存の基底、業により形成された総体
生: 生れる事。生れかわる苦しみとも解釈される。
老死:個体に与えられた時間の終わり
第十二項の原因は第十一であり、第十一の原因は第十項である。従って最後には第一項の無明の止滅によって第二項が止滅し、全世界が止滅する事になる。無明の止滅は悟りに他ならない。この悟りこそ人々を輪廻から開放すると考えたのです。つまり十二縁起の全ての項は、悟りを得る為に否定されるべき「俗なるもの」である。少なくとも悟りとか根本真理と言うような求めるべき「聖なるもの」が項の一つとして挙げられている訳ではない。聖なるものとしての悟りの智慧はここでは各項目すべての止滅を目指す人間の実践によって得られる。そこで得られるものは、宇宙の根本原理とか実体とかと言うような常住のものではなく、人間の不断の自己否定に裏打ちされた智の「ひらめき」であると定義しました。この思想は明らかにバラモンの思想とは違うものです。
ブッダの死後、ブッダの教説に対して様々な解釈が生れ、ブッダの没後300年から900年頃にかけては、ブッダの教説に関する解釈・研究を一つのシステムに作り上げようとする運動が盛んになった。こうして完成したのが、「アビダルマ」(阿毘達磨)と呼ばれるものです。アビダルマとは、世界の構成要素に関してと言う意味の言葉です。そして紀元前3世紀頃から仏教僧達は多くの派に分かれて学説を主張してきましたが、これらの中で紀元前1世紀頃にかなり整備された学説を持っていたが、西暦5世紀ころに世親の著した「倶舎論」です。これは倶舎宗としてインドだけでなく、チベット・中国・日本の仏教にも浸透しています。倶舎論の説明する宇宙の構造図は精緻なもので、先ず宇宙の全体図は大気・水および・黄金の層の上に大地の層が乗ったのもと考えます。大地の中央にはスメール山(須弥山:しゅみさん)があり、その周囲は七重の外輪山が取り囲む。この外輪山の外側の四方に大きな四つの大陸があるが、その中に南の大陸ジャンブー州は逆三角形であり、インド亜大陸を思わせる。
しかし倶舎論の関心の中心は、外的世界の構造ではなく、人間界にありました。輪廻を続ける生類の在り方を説明する個所で十二縁起説が注釈される。ここでは輪廻は、かの五構成要素(五蘰)が行為(業)の力によって循環的な運動を行う事だと考えられており、十二縁起はそのような循環運動を行って居る五構成要素の状態を語るとされています。
西暦1世紀頃アビダルマ哲学の整備・体系化が進む頃、この運動に対する批判として新しい形の仏教が台頭してきます。広大な荘園からもたらされる収益のお蔭で僧院の中でスコラ的な学問に専念する僧達のアビダルマ哲学を支える保守的な上座部仏教の僧達を中心とする仏教ではなく、一般の武士や商人によって支えられた仏教すなわち大乗仏教の成立です。
大乗仏教の理論的モデルを与えたと言われるのが竜樹(ナーガールジェナ:150―250年位の人)です。「中論」の著者の竜樹(西暦2―3世紀)や「倶舎論」の著者の世親(西暦5世紀)が活躍した時代は、バラモン正統派の六派哲学の形成期でもありました。
この様に、仏教哲学とバラモン哲学とは、互いに批判し合いながら、夫々の思想を形成していったのです。
そしてその後に汎インド的思想・宗教としての密教が発生してきます。
「タントリズム」(密教)とはタントラ中心主議のことであり、ヴェーダ期あるいはそれ以前にもありながらインド思想史の中で最も遅く有力になった思想・宗教形態です。ヒンドウの経典の歴史は通常、ヴェーダ・ウパニシャッド・プラーナ(神神の系譜)そしてタントラと言うように考えられます。
インド仏教の経典は、プラーナとタントラの時代に並行して編纂され、仏教にも膨大なタントラ経典があります。
仏教タントラは、四種のタントラ経典の歴史として語られる。
1) 所作タントラ
祭壇の作り方や仏への供養の仕方という、儀式の所作や呪文を主に述べている。この段階では仏教が自らのシステムの中に儀礼を取入れ酔うとしているのに留まり、仏教の本来の目的で有る精神的至福をその儀礼によって得ると言う思想はまだ無い。
2) 行タントラ
7世紀の成立と考えられる「大日経」です。この経典の中では、儀礼・ヨーガの実践・シンボリズム等が統一され、究極的な目的は悟り、すなわち成仏を得る事を示している。
3) ヨーガ・タントラ
7世紀末頃の成立と言われる「金剛頂経」です。悟りを得る事を究極の目的とする処は「大日経」と同じであるが、密教的ヨーガの行法が更に一層重視されている。行タントラとヨーガ・タントラの主要な相違の一つは両タントラの主尊の大日如来をどのように考えるかにある。
4) 無上タントラ
血に悟りの智慧と言う象徴意味を与えて儀礼の中で用いる。
タントラは、儀礼やシンボリズムの要素を多分に含んだ宗教形態ですが、それらの要素はヴェーダに既に含まれています。タントリズムの重要な要素であるマントラ(真言)は明らかにヴェーダにおけるマントラを継承したものであると言われています。
これが仏教の全体の流れになります。しかし前項に示すように、仏教の流れも大きな古代インド思想史の中で捉える必要があると私は考えています。
私は古代インド哲学史を専門に勉強した訳でもありませんので、時代の推移の中での相互の影響の及ぼし合いについて理解出来ていない部分がありますが、個人的な見解としては、先ず宇宙(自然)と人間との関わり合いとしての「梵我一如」、自然の営みから類推して人間への適用による「輪廻思想」、人間に苦をもたらす力から逃れる為の「ヨーガの手法」、さらには「解脱の考え方」の様な大きな枠組みがリグ・ヴェーダやウパニシャッドなどにより定義がされ、そんな時代に釈迦の原始仏教が生れます。
その後、バラモン系・非バラモン系夫々が理論整備を図って自教・自派の正当性を競う時代に移り、そこに現れたのがこれら全体に流れる部分を整理し、尚且つそれらの理論的な究明と体系化を図った古典サーンキャの学派の成果を基に、仏教その他インド哲学全体の中でサーンキャ学派の理論をベースにした、理論体系の再整備が進んでいったのではないかと考えています。
その流れが仏教全体に継承されます。
この項で、理解のし難い古代インド哲学の流れを長々と取り上げたのは、兎角仏教思想は釈迦によって全てが形成され、その後の仏教界で理論化が進んだ様に思われがちですが、そうではなくバラモンを中心とした古代インドの大きな思想の流れがあって、その理論の上に、又はその理論の一部に反発しながら、仏教思想が形成されていったのではないと思われるから、ここに取り上げました。実際問題として、バラモンに反発して一つの宗教を作り上げた仏教ですが、三十三間堂の蓮華王院の諸仏の様に、バラモンの神神が仏教の仏や如来と一緒に祭られている事の理解をする必要があるから説明を致しました。
これらの宗教または宗派は、余り明確に区分出来ない部分が大変に多いと言う事です。これを理解していないと仏教の全体像を見誤るのではないかと思いますので、敢えて古代インド思想史の立場からその流れを示しました。
6)密教における五大思想の取り込み
いよいよ本論に入ります。射法訓が真言密教の思想の上に在る事は冒頭で説明した通りです。そして五輪思想の中に「金体
白色 西 半月」の位があります。
五輪思想と言うのは、古代インドの中でも仏教の中の密教のグループにより、古来の五大思想からその五大元素を守護する仏・菩薩を当て嵌めて、五輪思想にする所から関連を持つに至るのです。その中で金体白色西半月の意味する所が出て来るのです。
密教において、古代インド哲学の五大思想に土・水・火・風(金)・空(木)の自然の現象の最も小さな質としての五元素に、人間の意識としての「識」を加え六大を宗体とし、宇宙の五大その侭が本不生実相であると主張する考え方が成り立ちます。
密教における『識』とは、悟りに至る為に人間の意思が重要視され(これを唯識思想という)、人間の意識・認識・心という意味の『識』を加えて六大と呼ぶようになりました。
五輪における「輪」とは、倶舎論などの説で、世界の最下を風輪、その上を火輪、その上を地輪とし、この四層夫々が周円の形をなす為に「輪」と称したと言われています。
五大思想が密教に入ると、五大はことごとく如来の三摩耶身となり、五輪は法界身となって「輪」の意味も自然に転化して、一切の功徳を具足円満していることを意味し、その五輪法界身を五輪法界塔となります。一般に用いられている「五輪塔婆」は法界塔を意味する標識となります。その侭で法界身となる訳です。大日経秘密曼荼羅品の始めに説かれる「入我我入(サトバン)」の行法に、五輪厳身の観想(字輪観・通観)として、キャ・カ・ラ・バ・アが順・逆と廻転して想念上働きます。ここに五輪思想が完成するに至ります。
この様に古代からのインド思想の「五大思想」が、密教仏教において五大元素のそれぞれを象徴する仏や菩薩を配置して「五輪思想」となり、私たちに馴染みの深い「五輪砕」となって継承されたのです。そして、また密教の中で「識」を加えた六大思想となって行きます。この宇宙の構成が五つの元素によって成り立っているという五大思想の考え方は、仏教だけでなくインド思想共通に存在する思想であり、仏教ではこのバラモンの宇宙観の五つの元素(五大)の思想を受け継いだ事となります。
古代インドのバラモンの思想の中では、「梵我一如」「輪廻・業・ヨ−ガ」「五大思想」などが既に在り、それが仏教思想に入り込み、更には密教思想の中に取り込まれ、修行の仕方即ち仏に至る道やその方法等が体系的な纏まりを出し、真言密教として発展します。それには日本の修行僧として中国に渡っていた空海が非常に大切な役割を果たします。その経緯は次項で説明を加えます。そしてその空海の真言密教の思想に仮託して竹林の流派の弓道思想を語る形を取っている為に、理解が一層難しくなっているのです。
私たち竹林流の弓道に関わる者としては、竹林流の背景にある真言仏教思想を理解した上で伝書の思想を理解する必要があり、真言密教の思想・仏教思想等が流派の教えを理解する上において重要な思想となることをご理解戴けると思います。
そして、仏教思想を理解する時に、仏教成立以前のバラモンの思想や、リグ・ベーダやウパニシャッド等の文献に出てくる思想などを頭に置いて考えて戴けると良いと思います。
本来は、釈迦による原始仏教・小乗仏教・大乗仏教などの仏教全体の流れや思想そして密教の思想を考え、その上で古典ヨーガや古典サーンキャ等の思想と仏教との関連性などを考えなくてはならないと思いますが、仏教思想の細部には入り込まないで、それらの大枠とその概要をここに紹介する事に止めたいと思います。
08.真言密教と日本における五輪砕思想の関連
インド哲学や仏教思想はインドで生れ、チベットや中国に広がっていきました。
その間にサンスクリッド語で書かれた経典はどんどんと漢訳されました。そして中国においては、在来の道教や儒教などと関連し合いながら、中国仏教として花開いて行きます。中国における五大思想は、当然中国の仏教の中で五輪思想に繋がりました。では中国仏教から日本仏教に伝わる中でどんな経緯をしたのでしょうか?
空海はご存知の様に平安時代の僧侶ですが、優秀な学生として日本において797年に大学で「三教指帰(さんごうしいき)」を著し、儒教・仏教・道教の優劣を論じ、仏教に帰依していました。804年に遣唐使留学生として唐に渡り、西明寺で中国の密教の師である恵果から胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の両方の潅頂を得て、真言宗を完全な形で学び修めて806年に帰国します。この間には、貴重な話があり、恵果の元には中国人僧侶で真言密教の秘法を伝授するに値する僧が居なくて、日本人の空海にそれを授けましたと言う経緯です。日本にとっては大変幸運な事でした。本流の中国密教が中国人僧侶でなく、日本人の空海に渡されたのです。そして帰国後は、嵯峨天皇の保護を受けて高野山に金剛峰寺を築き、京都には東寺を建てました。真言宗は密教を仏教の究極のものとして加持祈祷を重んじ、即身成仏を説きました。
ではそれらはどのように日本の文化の中で花開いたのでしょう。
1)日本仏教の五輪思想
日本への仏教の紹介は西暦538年の事ですが、密教はそのあと270年程経過した、西暦805年・806年に最澄・空海が密教を中国から身に付けて相次いで帰国して、密教が正式に日本に紹介されました。
遣唐使として中国の新文化を学ぶ為に派遣された最澄・空海が新しい密教を習う為に中国に渡った背景には、当時の日本での仏教の在り方が政治と結びついて奈良仏教の腐敗を断ち切る目的もありました。政治と結びついた奈良仏教に政治の危険性を感じた桓武天皇は、都を奈良の平城京から京都に移し平安京としました。そして奈良仏教の様に政治の内部に接近しない、新たな仏教宗派としての最澄・空海の真言密教を支援するに至ります。
最澄は比叡山に、空海は高野山にその拠点をおいて夫々天台宗・真言宗として布教活動に入ります。真言宗の真言とは、真理を語った言と言う意味です。これは不空訳の光明真言が仏教伝来と共に日本に伝わって来ましたが、空海・慈覚大師によって直接請来されたものです。
「帰命不空 光明遍照 大印相 摩尼宝珠 蓮華焔光
転 大誓願(オン アボキャ ベイロシャナウ マカボダラ
マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン)」
意味は、帰命・効験空しからざる遍照の大印
すなわち 大日如来の大光明の印よ 宝珠と蓮華と光明の大徳を有する智能よ
我らをして菩提心に転化せしめよーーここにその考え方が集約されています。
日本において密教が広がって行くに従い、五輪思想も広がり供養塔としての五輪塔が建立され始めます。平安時代から始まった造塔は、鎌倉時代に形の上でも完成を見ます。室町時代・江戸時代に入り形が変化して行っていると言われています。そしてそれらは時代の風格を反映したものとなっています。
そして石の塔の建てられない階層の人々の為に、卒塔婆としての角塔婆・板塔婆が建てられます。寺院行事の為に建てる角塔婆の切り込みは、五輪塔(五解脱輪塔)と意義は全く同じです。
五輪は「空風火水地」の五大の異なる呼び方であり、上記の通り輪は輪円具足の意味であり、法身如来の功徳を具足し、欠ける所の無いと言う事を表わして五輪、輪円具足とは曼荼羅または壇にあたります。
板塔婆も全く同じであり、表面に切り込まれる形は五輪塔の意味を表わします。
すなわち、キャ(宝珠形)カ(半月形)ラ(三角形)バ(円形)ア(方形)を表わしています。
そこで密教で言う所の五大思想又は五輪思想は次のようになります。
五輪塔を思い出しながら考えて戴くと良いと思います。
善無畏三蔵の伝
五大 地(土)輪 水輪 火輪 風輪 空輪
形色 方 円 三角 半円 團
業用 持 攝 熟 増長 不障
性徳 堅 濕 長養 動 無礙
字義 本不生 離言説 無垢塵 離因業 等虚空
ア バ ラ カ キャ
五輪法界の分解
顕色 黄 黒 赤 白 青
方角 中央 北 南 西 東
五行 土 水 火 金 木
五気 土用 冬 夏 秋 春
五転 具足方便 入涅槃理 行菩提行 証菩提果
発菩提心
識大 奄摩羅識 五識 末耶識 意識 阿頼耶識
五智 法界體性智 成所作智 平等性智 妙観察智
大円鏡智
五仏 毘盧遮那仏 不空成就仏 宝生仏 阿弥陀仏
阿しゅく仏
五如来 大日如来 釈迦如来 宝勝如来 無量寿如来
薬師如来
この善無畏三蔵伝と五輪法界を見るだけで、勘の良い人は「金体白色西半月」と関連があることを察する事が出来るでしょう。
ここで金体・白色・西に関連して、その守護を象徴する妙観察智・阿弥陀仏に関連する事項を述べておこう。
先ず妙観察智とは、諸法の差別を観る智慧です。けだし一切は平等であると言うものの、その相は依然として千差万別です。即ち一切は平等に即した差別と認めるのがこの智慧です。だから意識を転ずる処に現れる智慧です。
そして阿弥陀仏は、妙観察智の徳に住み、衆生の為に説法により、疑い・迷いを断ち切り大慈悲を以って一切衆生を摂取し給う仏です。
無量寿如来は、清浄金剛とも言い、西方菩提門に住まれる仏で、身色は赤金色で弥陀の定印を結ぶ、即ち地水火の三指を重ねた姿は三毒煩悩を結び縛る事をしめし、風空相捻するのは寂滅の涅槃点を示します。
これは煩悩を消滅させる意味を持ちます。
弓道における五輪砕については、既に簡単に説明をしましたが、この五大思想から来た密教の五輪思想に取入れられ、五輪思想から五輪砕きへと繋がって、私達の弓道と結びついてきます。五輪砕きは、五大(五行)の事である「土水火風空」を射形の組立て即ち弓の引き方に当て嵌めて教えている為に「五輪砕」と称しているのです。
五輪思想・五輪砕の仏教的な解説については、とても私の力で出来るものではなく、概要を紹介するに留まりますが、詳細に研究されたい方は山東直三先生の口伝解説書を読まれる事をお勧めします。山東先生は仏教学者であり、紀州竹林流を修めて見えますので、詳細な説明をされていますので、参照されたいと思います。只余りにも本格的な仏教理論の解説であり、只読んでも理解出来ない所が多いので、真言宗の僧侶の協力を得ながら研究される事をお勧めします。
2)射技のおける五輪砕の教義
ではもう一度、竹林流における伝書の中で示されている五輪砕の教義に目を向けてみましょう。冒頭部分に書かれた内容よりも、五大思想・五輪思想を理解した後であり、より深い理解が可能になっているであろうと期待しています。
「土体黄色中四角」は、足踏み・胴造りについて述べており、全ての中央に
据えるべき重要な働きであり、その後の全てに影響を及ぼし
、堅固に形造らなければなりません。土台であり、中央の
働きです。
「水体黒色北円形」は、打起しから引分け・会における詰め合い・延び合い迄、
力が水が方円の器に従う如く、弱き所へ強き骨を譲り合わ
せて総体に平均した力の満ちる事で、尾州竹林流で言う汰
流し(ゆりながし)の教義です。兎角弓を射くと言う意識
だけで、そこの部分に力が偏ります。初心においては特に
手先に力が漲りますが、これは高段になっても同じことです。
水の様にあらゆる所に均等に力が加わる事が大切である。
「木体青色東團形」は、前の項の心持ちを覚え悟って陽春に花が咲く如く、美
しい射前を美しく射る様、左手の拳(手の内)・右手の懸の
形や顔持の姿を正しく直す事を言う。尾州竹林流の口伝書
では「延びやかに優々(悠々の当て字)として剛身直の内
に和を合わせて射ること也。
息もゆるやかにして惣体を美しく春の草木の日々延びる
如く、次第に射形の筋道を顕はし始めて、内外強身和を含
み発して、射形の花を咲かせる如く、陸に(真陸―まんろ
くの事、即ち直であること)見事なる剛身を専らとす。
是則ち拳形・懸形・顔持を直にする所なり。直なれば美し
く、剛身の篭る所を教えたり」とあります。直すは修正す
ると言う意味よりも、正す・直にすると意味となります。
「火体赤色南三角」は、離れについての教えであり、上の花咲き美しき事を為
し尽くして云々とは、木体の奇麗な射前をよく覚え悟り、
身に付く事を言い、さて手の内を三角にとり五体も相生す
るように弓構えをなし、打起しから剛みを含んで五部の詰
めより、胸楔(胸の割り楔)にて石火の出る如くに離れる
事を言う。
「金体白色西半月」は、残心についての教えです。第一から第四迄乃至第五に
示されている事が完璧に行われ、その結果の残身は老木晴嵐
の姿となるのであり、その有り様は夜明けの寂寞たる大自然
の様に東の空に夜明けの明星が白く燦然と輝き、之に対応
して西の空には半月が煌々と輝いて雄大で崇高な姿を表現
している。
ここに五輪の守護をされる仏・如来の思想を取り込むなら
ば、妙観察智からは一射一射による違いの中から基本に照
らした反省の中から、自らの迷い・疑いを消滅させ、失敗・
成功を問わず大慈悲の心を以った、拘りの無いおおらかな
心がひろがる姿でありましょうか。そして五気で言えば秋
であり、それが象徴する様に次の活動期の春までのエネル
ギーを貯えて、次の循環に備えます。
従って、射の運行の順番から考えれば、足踏み・胴造りの土/打起し・引分けの水/会の火/離れの木/残身の金と言う、土・水・火・木・金の順番であると理解がすっきりとします。これを仏教思想の五輪塔の順番で考えると土(地)・水・火・金(風)・木(空)となり木と金の順番が逆になります。
これは五大思想を借りて射の運行の心に適応したと考えるべきではないかと思います。順序の違いよりも、この時代の常としての流派の秘密を他に漏らさない為にも口伝の形で伝承しながらこれらの矛盾については説明して来た事と思います。
即ちこの「射法訓」においては、紀州竹林流の吉見順正の教えも、その前提条件として真言密教の仏教思想に仮託して「竹林派
四巻の書」と言う極意の書を著した竹林坊如成の思想に基づくものであると言う事です。今ここで五輪砕の思想を理解する為に、本文から遠く離れた仏教思想に入ってしまいましたので、元に話を戻しましょう。
「射法訓」の書に曰く以降の部分で、「鉄石相剋して火の出ずる事急なり」が父母の巻及び中央の巻では第四位にあり、「金体
白色 西 半月」が中央の巻で第五位にあり、この二つの部分を「即ち」と言う言葉で繋ぎ、言い換えている事です。
これで第四位と第五位がどうして言い換えで同一になっているのだろうかを、色々と考えてみましたが明確に説明出来る論法は見つかりませんでした。まあ余り厳密に論理展開する必要が無いかもしれない。第四位の離れの味わいを経て、第五位の残心の位に至る事を現していると想定されます。
これらを再度総括して説明をしてみますと、
第一位は、足踏み・胴造りを教示しており、足踏みは大地に生えた大木の如く
、胴造りも大木の如く真っ直ぐに、安定した形と内容が必要で
ある。四角は地を現し、また四角は前後左右に動揺することのな
い最も安定している意味も含んでいる。十二字の父母の位・織物
の筵の位に対応する。
第二位は、力の弱い所へは、強い骨を譲り合わせて、総体に平均した力が満ち
る事であり、当流では汰流し(ゆりながし)の教義である。何処ま
でも強弱なく、全身が一体になって射を運行する段階である。
四巻の書の初勘の巻の打起しの着身の事で、弓と体が一体になる
事を言う。総身の強みを平均して全身に行き渡らせて、総部にて
自然の離れを知る意味です。十二字では君臣の位、織物の布の位
です。
第三位は、美しく射る様に、弓手の手の内、妻手の懸なり、顔持を正しく直
くし、総体の強みに和を融合して、手の内の拳形・懸のなり・顔
持(面)を正しくして、剛身を教える箇条です。
十二字では師弟の位、織物では絹の位となります。
第四位は、手の内・弓構えの剛身から石火の離れを教えた箇条。全ての運行が
寸部の隙もなく、会における詰合い・延合いが満ち充ちて、鋭く
軽妙に離れる味わいを言う。
十二字の鉄石の位、織物では綾の位となります。
第五位は、離れから残心の様相を教示した箇条。会にて左右の拳が相生して
良く伸び、最後に一筋の糸を引き合う所まで至って、知らず知ら
ずの内に離れ、その後に現れる雄大な離れの姿であり、残心の姿
である。十二字の晴嵐老木の位、織物の錦の位となります。
と言う事になります。
併せて、十二字五位の教えにより的中の五つの品位・格についての教えや、さらにはそれを実現する縦横十文字の構成や弓・体・心の三位一体と離れの関連についての、筵・布・絹・綾・錦と言う織物の種類に仮託した教えが秘められている事を頭においてその教えの深さを理解して戴きたいと思います。
この様に「射法訓」が、「礼記射義」における射における心・礼儀の在り方の精神的な教えに対して、実利的な弓の射き方の理想を教えていると冒頭に説明しましたが、よくよく考えてみると、単に的中を競うだけの技について教えているのではなく、深い仏教思想に仮託して弓道を通して自分自身を鍛えると言う厳しい修養道を説いている事と、的中の位を五段階に分けて、単なる的中に満足することなく自然と一体になる「梵我一如」の思想の元で、人間と自然(宇宙)との一体感を悟る為の弓道の考え方を示しているとも考えることが出来、その深さをご理解戴けると思います。
09.射法訓の本当の意味の理解を
「射法訓」を書いた吉見順正は、紀州竹林流の中興の祖と謂れ、その弟子に三十三間堂での大記録を打ち立てた和佐大八郎がいます。
私が学ぶ尾州竹林流には星野勘左衛門があり、星野勘左衛門の働きがあって和佐大八郎の記録も生れています。
日置流竹林派が竹林流と名乗り、更には尾州竹林流と紀州竹林流に育っていった兄弟流派で、三十三間の通し矢も競って行った事になります。
紀州竹林流の吉見順正の教えを「尾州竹林流
四巻の書」により説明致しましたが、兄弟流派として伝書も同じ物に基づいていると言う前提で説明を加えました。
「射法訓」は、「礼記射義」の精神的な教えに対して、射技の教えと冒頭で表現しましたが、実は修養道としての武道としての弓道の目指している事をはっきりとご理解されたと思います。修練の過程において、求める的中の位を上げて行く事を通して、道を覚えるのです。即ち弓を通して人間としての完成に向けての道を学ぶ事を教えていたのです。若しそうでなければ、わざわざ書に曰く以降は不要であったと思います。何故離れの五つの位について述べる語句を引用しなければならなかったであろうか?
更に難しく考えれば、竹林坊如成は空海の真言密教の教えに基づいてこの世で仏となる「即身成仏」の道として、「秘密十住心」による修養過程を経て、弓道の達人への道を教えているのかもしれないと考えられます。
ここでは秘密十住心については、詳細を説明しませんでしたが、弓道を弓の修練を通して自分を完成させるという修行道として考えるならば、秘密十住心の即身成仏に至る修行の道程としての諸段階について理解をしておく必要があると考えます。これは尾州竹林流の立場での考え方になろうかと思います。
禅としての弓道を考えるならば、それは「十牛図」に象徴される禅僧侶の修行の道程ともなるでしょう。そしてそれらには多くの共通の概念が秘められている事も事実です。根本に在る教理の違いから言葉としての表現方法こそ違え、古代インド哲学の上での人間の在るべき姿の上にある仏教であり類似の物を求めその修行のプロセスについても若干の違いがあるものの互いに共通する部分も多く参考になれたいと思います。この様に考えると単に射技についての教えと考える事は極めて皮相な理解になるのではないかと思われます。
10.射法訓解説についてのお断り
ここで最後にお断りをしておきたいのは、私は仏教思想については全く専門的に勉強した者では在りませんので、論旨の食い違いや時代の錯綜が一部在るかも知れないと内心では心配を致しています。しかし自分の仏教を初めとした宗教についての理解の程度から考えた時に色々な疑問にぶつかり、それらを一つづつ紐解いて来た結果がここに纏めた内容であります。従って、私同様に宗教に馴染みの少ない方には或る程度の道しるべになるのではないかと期待も致しています。文中でもご紹介しましたが、特に仏教の五大思想・五輪思想については仏教学者の山東直三先生の資料を研究される事を希望します。非常に専門的で学術的に記載されています。その導入部分として私の説明を理解して戴けるならば幸いです。
以上
参考資料:
全日本弓道連盟 弓道教本
魚住文衛 「尾州竹林流 四巻の書 講義録」 自費出版
山東直三 「日置流竹林派 四巻の書 詳解」 自費出版
三井英光 「真言密教の基本 教理と行証」 法蔵館
高神覚昇 「密教概論」 大法輪閣
J・ゴンダ 「インド思想史」 鎧 淳訳 中公文庫
立川武蔵 「はじめてのインド哲学」 講談社現代新書
徳山暉純 「梵字手帳」 木耳社 その他
礼記射義・射法訓の解説の最後に当たって
ここでは「礼記射義」「射法訓」について解説をしましたが、前者は儒教を、後者は仏教思想を多く含んだもので在る事を対比して良く理解されたいと思います。
宗教が私達の生活から遊離してしまった現代において、これらの教えの文字面からその奥深い思想を読み取る事は既に困難になっています。
「礼記射義」や「射法訓」を更に深く理解する為には、儒教・仏教の考え方・歴史・日本文化に及ぼした影響等を研究されると善いと思います。
浅学非才を省みず、経験の少ない小生如きが解説する事は非常に危険があろうとは思いますが、流派の伝書を理解する為に、儒教や古代インド哲学や仏教の本に深い関心を持ち、それらを通して私なりの理解をするに至り、これらの関係する書籍・文献等を多数読みながらそれらの引用を含めて纏めました。
足りない部分又は間違いのある部分については、皆さんの叡智を集めて、再編集をして行くのが善いと思います。宗教が日常と遊離した現代であるからこそ、今纏めておかないとと言う焦りの様な物を感じながら、そして「礼記射義」「射法訓」についての現代流の解釈及び説明を受ける機会の少ない方には、多少共参考になればと思いながら非力を自覚しながらも纏めました。
ここに示した解説は、私の浅い勉強の中から纏めたものであり、読者の皆様のご批判を仰ぎながら、一層内容を充実させたちと願っています。そして伝統的な言伝えに則りながら、現代流の分かり易い解説書に育て上げたいと願っています。
弓道を愛される皆さんには、弓道と宗教が何故関連を持たなければならないかとか、弓道と日本文化を何故結び付けなければならないか等の疑問もあろうかと思います。しかし、武道としての弓道の基本的な精神を正しく実践することにより日本文化の上に咲く精華としての武道としての弓道の楽しさを実感出来ると確信しています。
私は、本当の姿を見るためには、原点に戻らなければならないという考え方を持つと共に、弓道の国際的な普及の時代の中で、日本弓道の持つ本質的な意味をしっかりと理解した上で修練し、普及することが一層重要だと考えているからです。
一部の西欧の弓道愛好者は、日本の仏教や儒教や神道の教理を研究しながら弓道と取組んでいます。それは、18世紀以降人類が科学的合理性と言う実証的な考え方と、唯物論的な考え方の中で物質的な冨を求めて活動してきた結果としての「拝金主義」や、人間の尊厳を忘れた形で科学的な、物理的な価値観の中でのそれらの独り歩きは、人間としての精神の意味・心の意味の中から本当の人間の生きる幸せ・価値を原点に戻って考え直す、反省する時代として、現代の色々な矛盾を考えながら、その解決の糸口を東洋の思想特に禅仏教に求め、又社会の中での人間関係の在り方を儒教の中に求めて研究をしながら、弓道を修練している姿を現実に見ていることです。
これも科学時代や工業化時代と言う理解だけではなく、キリスト教の教理との関連も含めて考察しなければならないと思いますが、何れにせよ戦後の日本が歩んできた道は、ヨーロッパ文化の流れを組んだアメリカ文化に大きな影響を受けて、工業化社会の道を邁進してきており、そこから起きて来る社会的な矛盾を抱え、更には従来の日本的な価値観との整合を含めての混乱が現実問題として抱えているのが、日本の現代であると思います。
私には欧州の心有る弓道愛好者が歩み求めている道が、これからの日本にもその反省の時代が必ず来るであろうと予測しています。伝統的な弓道に携わっている私達がこの現実に直視して、その落とし穴に落ち込まない様に智恵を出して、弓道の修行の意味を考える必要があろうと思います。
「礼記射義」「射法訓」を文字通りに表面的に説明する方法もあったと思いますが、ここでは上記の意味をを配慮して儒教・仏教に少し深入りして紹介してみました。
以上