大久保 美玲さんからのMail
1999年5月16日、神奈川県の大久保美玲さんから次のmailが届きましたので、ご紹介します。
拝啓
梅雨も間近の今日この頃、梶田様におかれましてはお元気でお過ごしのことと思います。
さて、私は以前、梶田様のホームページを拝見して、メールを送らせていただいた、
大学で徳本上人の研究をさせていただいている大久保です。
あのホームページでとても勉強させていただいたので、そのお返しには到底ならないですが、今回、この2ヶ月で分かった私の地元である神奈川県平塚市周辺の徳本について、未熟ながらご報告させて下さい。
西海賢二著『漂泊の聖たち』(岩田書院)によると、神奈川県内の徳本上人供養塔は141基あると言われています。(しかし実際には、それ以上存在することは間違いないでしょう)
その内の1基が、わたしの家の庭にあります。(それがきっかけで私は徳本上人に興味を持ったのです)
さて、徳本上人は江戸の伝通院に居住するようになってから、熱海へ湯治にたびたび行ったようですが、その道すがら、平塚・大磯にも数回留錫しています。その、留錫先として代表的なのが、平塚では須賀の海宝寺、中原の大松寺、徳延の宗源寺。大磯では大磯宿の大雲寺です。
現在、いずれの寺にも、2メートル余りの徳本上人の名号塔が存在しています。講は、昭和40年代にほぼ、衰退して、今はご老人の方が、守るのみです。
私は、その内の宗源寺の檀家の方で、徳本上人とゆかりが深かった先祖を持つかたに、お話を伺う機会に恵まれました。
そのかたの、お宅に徳本上人は何回かお泊まりになられ、直筆の名号軸が、その証拠として残されています。
また、その際、上人は、葵の御紋が入ったお膳を使用されていたそうです。それは、今でもそのお宅の蔵のどこかにしまわれているそうです。
そして、その旦那寺の宗源寺から、相模を代表する徳本の弟子「称善」が輩出されました。称善は、その宗源寺をはじめ、その周辺の徳本講の中心人物として活躍したようです。
私の家の名号塔も、称善の力が少なからずも及んでいると思われます。
以上のようなことが、現在分かっていることです。
『平塚市史』民俗編を参考文献としてあげさせていただきます。
現在は、上記の「葵の御紋が入ったお膳」が象徴する徳本と将軍家のつながり、それに伴う社会的効果を探っています。
以上、とりとめのない報告ですが、ご一読いただきありがとうごさいました。
それでは、梶田様の益々のご活躍をお祈りしています。
かしこ
ー追伸ー
徳本上人の行状が絵で描かれたものを(絵巻物等)探しています。もし、何かご存じのことがあれば、お教え下さると幸いです。
大久保美玲さんからMAIL(その2)
5月26日、拙著「徳本流名号石考」をお送りし、併せて徳本上人木像などについて調査依頼をしたところ、次のようなご返事をいただきましたので、ご紹介します。
調査依頼いただき
たいへん光栄です。
西田立慶氏は、
福田行誡編『徳本行者伝』
(慶應三年刊)に登場するので、
いずれ調査せねばならないと
思っておりましたので、
この機会に、
私も是非心当たりを
調べさせていただきたいです。
また、徳本上人像の情報につきましては、
ご参考になるかどうか、
私が今まで拝見したものを
紹介させて下さい。
@東京小石川一行院さん(徳本往生の地)のもの
(等身大坐像)、
私の地元の神奈川県平塚市の
A天台宗大乗院のもの
(丈20pほどの坐像)、
B浄土宗宗源寺のもの
(丈30pほどの坐像)、
そして神戸東灘区にある
C徳本寺(徳本修行の地)のもの
(丈20pほどの坐像)
D和歌山県日高郡志賀の
浄土宗誕生院(徳本誕生の地)のもの
の以上5点です。
そのうち、今の時点で
私が作者を認識しているのは
Bの宗源寺のもので、
その上畳座裏墨書銘に
「于時
文政三年辰冬
神奈川宿
大佛師
関長甚五郎
彫刻之」
とあると、平塚市文化財調査書に
記してあります。
よって、今まで私の拝見した中で、
西田立慶・立康氏の作があるかどうか
勉強不足で判明していませんが、
よく調査したいと思います。
また、
『徳本行者全集』の第三巻に
「御肖像記」という、
徳本が亡くなる前後に
各地に存在した徳本上人像について
詳しく記したものがあるので、
それが大きな手懸かりになるのではないかと
思っています。
では、なるべく早く
実のあるご報告が出来るよう
努めます。
島島島島島島島島島
大久保 美玲
iroha@msb.biglobe.ne.jp
島島島島島島島島島
6月3日、大久保さんから次のご報告がありましたので、ご紹介します。
前略
武豊町大日寺蔵徳本上人像作者、
西田立慶のお話がでてから、
こころあたりを当たってみ、
今の時点で分かったことを
ご報告させていただきます。
@『江戸仏像図典』久野健編(東京堂出版)
には次のようにあります。
立慶(りゅうけい)
大仏師西田立慶。
京都寺町通四条下ルに住む。
定朝法印末派を称し、寛政七年
(1795)、新潟県能生町出生寺の
四天王像を造る。
また、A『日本九峰修行日記』という
修験者野田成亮(泉光院)が記した
ものを見ますと
(『日本庶民生活史料集成』第二巻所収)
文化十一年(1814)の段に
「(九月)十五日 晴天。上京す。(中略)
西田立慶と云ふ佛師屋へ行き佛笈細工
頼み置く。」
とあります。
西田立慶に関しては
実はまだこの二つの記事しか
見付けられていないのですが、
この二つの記事から考えるに、
当時流行の仏師であったことは
間違いないのではないかと思います。
その理由を挙げますと
まず@の「定朝法印末派を称し…」という
記述について検討してみると、
『読史総覧』にある仏師定朝法印派の系図
(代表的な人物に運慶・快慶がいる)に
立慶の名が無いことから、
少なくとも正統な定朝の系列の
仏師ではないようです。
よっておそらく、
立慶自身、またはその周辺の人が
宣伝文句として称していたのではない
かと考えました。
その背景にはその宣伝文句に堪えうる
技術(実力)と、それを認めた多くの
注文があったのではないかと思います。
その注文のよい例としてAの
記事が挙げられるのではないでしょうか。
考察の部分は私の意見で、
ご参考になるかどうか、
お恥ずかしい限りですが、
@Aの資料は
ご参考になればと思います。
また、もう一人の立康に関しては、
今のところ全く資料が見つかっていなく
ご報告できなく申し訳ありません。
また、この徳本上人像の背中にある
徳本の六字名号の隣にある
「聖阿」という署名の人物は、
福田行誡編『徳本行者伝』に依りますと、
「洛東獅子ヶ谷法然院の住持聖阿上人は
師の山居の弟子にて名を本定とぞ申しける。
されば師上京の時にはいつも此寺にぞ
止宿せられける。」
とあります。
この人物については、
その像の署名により、
徳本と共に尾張周辺を行脚したということがわかり、
徳本上人の側近として注目すべき人物の内の
一人であると思うので、
更に調査したいと思います。
最後に、
『徳本行者全集』第三巻所収の御肖像記で、
武豊町大日寺徳本上人像に
当たるものがないかと見てみたところ、
「御肖像 御丈ヶ、尾州知多郡清応院に
安置」というのがありましたが、
どうなのでしょうか。
以上長々とこれぞチャンスとばかりに
とりとめないご報告をさせていただきました。
今の時点ではこれが私のもてる限りの
情報です。力不足を何卒ご容赦下さい。
これから更に、調査に励みたいです。
では、また何かありましたら
ご連絡させていただきますので、
その時はよろしくお願いします。