「礼記射義及射法訓解説 秋の巻(上級編)

日本のすべての弓道場には、この二つの教えが掲示されています。
そして、練習の始めには皆で唱和して、修練の心得として確認しあっている事でしょう。しかし、時には唱和に流れてその内容を心に誓うことを忘れている時もあるでしょう。私達は、この二つの教えの内容を再度確認し・吟味し、その貴い教えを理解しながら弓道を修練し・実践しなければなりません。ここが原点であり、終着点であると思います。ここに礼記射義・射法訓の意味をよく理解して、しっかりとした弓道観を育て、実践しましょう。

ご存知の様に「礼記射義」は、今から約2500年前の中国の哲学者孔子の教えであり、「射法訓」は、今から約250年前の江戸時代の中期の紀伊藩(今の和歌山県)の吉見台右衛門経武のちに出家して順正と名乗った紀州竹林派の弓の名人の教えです。

古書を紐解きながら、原点に忠実に理解を深めて戴きたいと思います。
ここでは、前田巌夫先生の「禮記 集説巻之三十 射義編 第46講義」および魚住文衛先生の「尾州竹林流 四巻の書 講義録」を中心にしてその他の参考資料を多数使いながら纏めました。
松井 巌 教士6段
愛知県稲沢市高御堂2-23-6
作成 ・平成6年11月29日
改定1・平成9年02月25日
改定2・平成9年04月05日
改定3・平成9年07月01日
改定4・平成9年10月29日
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目 次

「礼記射義」 4
01.礼記射義について 4
02.語彙の解説. 16
03.孔子の考え方と禮の意味するもの 17
04.礼記について 18
 1)礼記の構成 18
 2)礼記全体の内容 19
05.礼の考え方・意味について 20
 1)礼と言う漢字の意味について 20
 2)礼の概念 20
06.仁の概念について 21
07.五常五教(五倫)について 30
08.正しい人間関係を求めた射 32
09.儒教と弓道 33
10.日本の社会における儒教・礼の心 36
11.競う弓道と和の弓道 37
12.和の文化としての弓道と礼の思想 39
13.自己規制・自律を求める弓道 40
14.再び「礼記射義」の教えるもの 40
15.礼記の射義編全文 42

参考文献: 45

「射法訓」 46
01.弓道教本での説明 46
02.日置・竹林伝書及び仏教思想の理解し難い表現 47
03.日置流竹林と吉見順正 48
 1)吉見順正について 48
 2)三十三間堂の通し矢について 49
04.書に曰とは? 51
 1)竹林派 四巻の書について 51
 2)日置流竹林派について 52
 3)竹林流の呼称について 52
05.「鉄石相剋して、火の出ずること急なり」について 53
 1)十二字五意(位)の意味 53
 2)離れの位・的中の位とは 56
 3)「絹綾錦三段の事」と「十二字五意」の関係 57
06.「金体 白色 西半月の位なり」について 61
 1)「中央の巻 十四 五輪砕と言う事」について 62
 2)五輪砕の思想 62
07.仏教の五輪思想と古代インド思想の五大思想について 63
 1)古代インド哲学の流れ 63
 2)「梵我一如」の自然と人間の関わりについての考え方 65
 3)五つの元素の思想―五大思想について 67
 4)バラモン六派とサーンキャの世界構造論 68
 5)仏教思想の発展 72
 6)密教における五大思想の取り込み 76
08.真言密教と日本における五輪砕思想の関連 78
 1)日本仏教の五輪思想 79
 2)釈迦仏教と大日仏教(真言宗)の違い 80
 3)五輪思想と五輪塔について 82
 4)射技のおける五輪砕の教義 83
09.射法訓の本当の意味の理解を 86
10.射法訓解説についてのお断り 88

参考文献: 89

礼記射義・射法訓の解説の最後に当たって 90



「礼記射義」

射は、進退周還 必ず礼に中り、内志正しく 外体直くして、 然(しか)る後に弓矢を持ること審固(しんこ) なり。弓矢を持ること審固にして、然る後に以って中るというべし。これ以って徳行を観るべし。
射は仁の道なり。射は正しきを己(おのれ)に求む。己正しくして而(しこう)して後(のち)発す。発して中らざる時は、則(すなわ)ち己に勝つ者を怨(うら)みず。反ってこれを己に求むるのみ。

01.礼記射義について


礼記は、後で詳細に説明しますが、全部で49編から構成されている礼記の46編目に射義編として記載されています。私達に馴染めの道場に掲げられている「礼記射義」は、この膨大な礼について書かれた「礼記」の中の射義編の冒頭の部分と最後の部分が取り上げられています。すなわち冒頭にある所の「古者諸侯之射也、必先行燕禮。郷大夫士之射也、必先行郷飲酒之禮。故燕禮者、所以明君臣之義也。郷飲酒之禮者、所以明長幼之序也。」「故射進退周還必中禮。内志正、外體直、然後持弓矢審固。持弓矢審固、然後可以言中、此可以觀徳行矣」とあり、最後の部分の「射者、仁之道也。求正諸己。己正而後發。發而不中、則不怨勝己者、反求諸己而己矣」です。

射義編の全体の本文は、参考に最後の頁に載せておきますので、是非目を通しておいて戴きたいと思います。ここでは直接に関連する部分のみを取り上げて説明をします。本当は全体を読みながら、この部分を読むと更にその深い意味が出て来るのですがーーーー。この文章の中で多分理解し難い部分と言うのは、礼の考え方、仁と言う考え方・何故射で徳行を観察する事が出来ると考えるのか、又己に求める正しきとは何であるか辺りではないかと思います。言葉としては審固でしょうか?
上記の様に括弧で括った所の以明長幼之序也まで、徳行矣まで、そして最後までの3つの部分に分けて、その意味・解釈を考えて見ましょう。

この解説をするに当たっては、愛知県の弓道教士8段で漢文の先生である故前田巌夫先生の纏められた集説巻之三十から引用させてもらいます。前田巌夫先生は、漢文の先生でもあり、中国の弓術書であり、江戸時代の日本の弓道に大きな影響を与えた「射学正宗」を訳文され解説されている先生です。
前田先生の集説巻之三十では、本文に加えて歴史的に評価の高い注釈として宋衛堤撰(堤:正式にはサンズイの文字ですが、標準では無い為にこの字を当てた)が載せられており、それは中国でも正統的な解釈としての位置づけにあり、また本文を理解する上に於いても大切であり、ここに併せて取り上げる事とし、宋衛堤の注釈を読みやすいように送り仮名を付けて説明したいと思います。

それでは、説明に入りたいと思います。先ず最初に紹介する部分は礼記射義には入っていませんが、後程示す本文で「射は進退周還―――」に繋がる最初の部分に「故に」と言う言葉がついており、その関係でその前の部分を示します。

「古者諸侯之射也、必先行燕禮。郷大夫士之射也、必先行郷飲酒之禮。 故燕禮者、所以明君臣之義也。郷飲酒之禮者、所以明長幼之序也。」
読み下し文:
「古(いにしえ)は諸侯の射には、必ず先ず燕礼を行う。郷大夫士の射には、必ず先ず郷飲酒の礼を行う。故に燕礼は、君臣の義を明らかにする所以なり。郷飲酒の礼は、長幼の序を明らかにする所以(ゆえん)なり。」 となります。続いて注釈として如何の様に続きます。

正義曰く
「此の経は将に射んとする時、天子・諸侯は先ず燕禮を行い天子と諸侯の関係を明らかにする。すなわち君臣之義を明らかにする所以である。郷大夫が将に弓を射んとすれば、先ず郷飲酒之禮を行う。これは長幼之序を明らかにする所以である。」
呂氏曰く
「諸侯之射は大射と言う。郷大夫の射は郷射と言う。射は男子の大事である。必ず之を飾るに禮・楽を以ってするのは、人の徳を養う所以である。之れ周旋は禮に従う。蓋し燕と郷飲とは、燕に因りて賓を娯しましむ。娯しみが有って禮が無ければ、大射は有り得ない。故に大射・郷射には必ず禮が有ると言う。禮が有って義がなければ、大射・郷射も有り得ない。故に君臣之義と長幼之序を明らかにすることとなる。」と二つの解説を載せています。

ここで、射とは勿論弓を射る事ですが、平時はこれをもって容(人間性・人格)を習わせ、芸(射芸・射述)を修めさせ、射・体配により射手の徳行を見て行政官としての士を選び、天下に事ある時は此れを用いて戦わせるのです。
射には、大射・賓射・燕射・聘射・郷射・州射・武射・軍射等の種類と色々在ると説明しています。燕射は、天子が諸侯群臣を集めて行うもので、射を行うに先立て行う酒宴を行う。この間において君臣の礼を明らかにする。即ち大射礼です。
郷射は、郷大夫士が相集まって行う射で、射を行うに先立って酒宴を開き、この間において長幼の序を明らかにする。これを郷射礼と言います。

「故射進退周還必中禮。内志正、外體直、然後持弓矢審固。持弓矢審固、然後可以言中、此可以觀徳行矣。」
読み下し文:
「故に、射は進退周還必ず礼に中たる。内志正しく・外体直くして、然る後弓矢を持ること審固なり。弓矢を持ること審固にして、然る後以って中たることを言うべし。此れ以って徳行を観るべし。」となります。

更に続いて注釈として下記の様な説明が付されています。

正義に言う
「此の一経は、射者の禮を明らかにすることにある。即ち、内の志が審正であれば、則ち射は能く中たる。故に其の外射を見れば、則ち以って其の内徳を觀ることが出来る。故に以って徳行を觀る可しと言う」
呂氏曰く
「禮射は、必ず先ず此れ■(漢字が無い為に■とする。漢字はヒの下に禾偏を置いた偏、作りは田の下に円を書いた字)を先にする。故に■皆上■下■(前記に同じ)あり。皆弓を執り、その上で矢を挟む。そして堂に進む。階に行き着き・階に登る。物に當たり・物に及ぶ時、皆互いに揖をする。退くときにも、亦た之(かく)の如く揖を互いにする。 其の動作に左右が有る。その升降りるに先ず後有り。其の射は皆が拾射を發す。その矢を干輻に取る。始め進みて揖をし、輻の前では揖をし、矢を取って揖し、既に■(手偏に晋)挟して揖す。射終わって退かんとする者と、将にこれから射る為に進まんとする者は互いに揖をする。其の矢を取るとき也、弓を横たへて手を郤げつけ(弓偏に付)を兼ね、羽に順い、拾取之節有り。射を終わって而して酒を飲む。勝者は決を組み、遂に張弓を執る。勝ちを得ざる者は決を襲説し、弛弓を拾加し、升って飲む。相揖すること初めの如し。
則ち進退周旋は、必ず禮に中らなければならない。夫れ先王が禮を決められた。苟くも繁文の末節である。人を使め行い難しめん。亦曰く善人を養うのみ。蓋し君子之天下に於ける、必ず節に中らざるという所為し。然して後徳を成す。必ず力行して而して後功あり。其の四肢は安佚ならんことを欲す。苟くも恭敬之心勝たずんば、則ち怠惰傲慢之気生ず。動容周旋節に中うる事能はず。體佚と言えども、而も心亦之が為に安からん。其の安からざる所に安んずれば、則ち手足其の所を知らず。故に放僻侈る、分を踰(こ)えて上を犯す。将に至らざる所無からんとす。天下之乱此れ自り始まる。聖人之れを憂う。故に常に繁文末節を謹んで、以って人を事とする所無きの時に養い、其れ之を習し使めて、而して煩を憚らず。則ち不遜之行い、亦自ら作ること無し。久しきに至って之れを安んず。則ち禮に非らずんば禮に行はず。往く所として非ずと言う事に無きなり。君子敬以って内を直にす。義以って外を方にす。内に存する所の者は敬なり。則ち以って外に形るる所の者は荘なり。内外交脩みならば、則ち事に發する者は中なり。射は一芸なり。容禮に比し、節楽に比す。發して而して正鵠を失わず。是れ必ず義理を楽しみ久しく敬恭に久しくありて、志しを用い分けざる之心有り。然る後以って之れを得るべきは、則ち其の以って之を得る者の所以なり。反れ徳を成す知るべし。」

ここでは、射る者は先ず内志しを正しくして、外体を直くすべき事を説いています。大射・郷射を行うには、先ず君臣の義・長幼の序を明らかにしなければならない。故に射は進退周還の動作は必ず礼に中たらなければならない。この時には、内志しは必ず正しくして安らかにし、外体は必ず直くしてゆったりとしていなければならない。然る後に弓矢を持ること審固である。弓矢を持ること審固であって、然る後中たると言う事が出来るのである。此れを以って射る人の徳行を観ることが出来るのである。と言う意味になります。

呂氏の注釈では更に当時のその射を行うについての礼儀作法を述べています。現代で言う所の射礼における体配になります。

「射者、仁之道也。求正諸己。己正而後發。發而不中、則不怨勝己者、反求 諸己而己矣」
読み下し文:
「射は仁の道なり。正を諸(こ)れ己に求む。己正しくして而して後に発す。発して中たらざるときは、則ち己に勝つ者を怨みず、反って諸れを己に求むるのみ。」
正義曰く
「此の一経は射は是れ仁恩之道なるを明らかにす。唯内諸れを己に求め、物に病害せず。既に諸れを己に求む、其の勝たざるを耻(は)ず。乃ち争心有り。仁を為すこと、己に由(よ)る。射之中否は亦己に由る。他人の能くあずかる所に非らざる也。故に己に勝つ者を怨みず、而して惟う反って諸れを其の身に求む。」とあります。

射ることは、仁の道を行うのと同じである。何となれば、射る前に先ず内志しを正しくし、外体を直にしなければ正鵠を得ないから、先ず正しきを己に求め、己を正しくして後に矢を発す。発して正鵠に中たらない時には、決して己に勝った者を怨まず、反ってその正鵠を得なかった事の原因を己に求めて反省するだけである。これが、「禮記」の射義編にある文章です。

これで、皆さんは礼記の中の第46編にある「射義編」の存在を確認すると共に、巻末の全文を確認する事により、道場に掲げられている「礼記射義」がその冒頭の部分と最後の部分を繋いで纏められている事を理解する事が出来るでしょう。

礼記の中では「礼・仁・射など」分かっているようでありながら、理解のし難い概念・用語が沢山あります。これらについては、順次説明しますが取りあえずは、少し現代語に置換えて内容が分かるように、意訳によりご紹介しましょう。

「昔の天子・諸侯が射を行う大射では、射に先立って先ず燕礼と言って天子と諸侯群臣が集まって公式な形での酒宴が開かれ、その中で君臣の大義が明らかにされました。射はその上で行われました。また郷大夫が行う郷射では、郷大夫士が相集まって同じく公式な形での酒宴を開き、その宴を通して長幼の序を明らかにし、その上で射を行いました。弓を射ることは、男子たる者の晴れのことであり、故に必ず礼と楽とを以って立派に射を飾り、射に拠って徳を養い、進退周還(旋)の立ち居振舞い全ての動作が正しく礼に適うように動作するものです。」
これらの酒宴・射会を通して、男子はその人柄・人格・礼儀作法等が評価されるのです。多くの高官が列席された場であり、射に対する態度や、礼に即した人間関係や立ち居振舞い等の作法が、厳しい目で見られているのです。それは儒教の道徳・倫理観に基づく役人の登用・評価の場でもあり、大変に重要な場となります。
(註:中国では役人の選出には、科挙の制度により儒教の試験がなされ、六芸といって射も試験の科目となっていました。従って、先輩の天子・上級官僚の列席される場の宴会や射においては、儒教の精神に基づいた君臣の義・長幼の序等の礼儀作法は必須であったのです。)

勿論、大射における燕礼と郷射における郷飲酒の宴では、宴を通して相い会した人を心から楽しんで貰う事と同時に本来在るべき礼儀を尽くすことが重要です。この場合、君主と大臣の関係や高級行政官と一般役人等との社会組織上の間柄・関係を示す礼儀作法が必然的に要求されます。すなわち君臣の義として、君主は人としての模範的な存在としての仁を示し、家臣は君主に対して忠誠を尽くすという意味の「君臣の義」が確認され、また互いの郷士太夫の間では先輩・後輩の間柄「長幼の序」すなわち年長者は慈しみの心を持って年少者に対し、年少者は年長者に対して常に敬いの心を持って接し、年齢や豊富な経験から来る叡智に尊敬の念を払い、その年齢・経験の量の貧富に応じた人間関係の序列をはっきりさせるのです。これらの社会の中で定められている五常七道のルールを、特に互いの社会での役割分担に応じた人間関係・それに見合った礼儀作法を宴会の間中でもしっかりと守り・節度を身につけていることが必要であり、立ち居振舞いを通して体現し・披露して、その後始めて弓を射るのです。従って、この大射・燕射・郷射の行事を通して、自ずと君臣の義・長幼の序等が明らかにされ、それぞれ定められた礼にあたる行動が取られなければならないのです。」

「この様な射会に参加する人同士の間柄・関係における礼儀作法を宴を通して確認し合う訳ですから、それ故に射においても、進退周還の全ての起居進退・立ち居振舞いは、必ず礼に則して行わなければならないのです。その時には、心は正しく(正しき道に従う心を持って、敬う心・慎む心を持ち、高ぶり奢る心を捨て・怠惰な心を捨てて安らかな心で)、外体は必ず直く(服装は正しく清潔にし、体は厳かにキリット)して、且つゆったりとしていなければならない。その上で弓矢を持つ時には、いささかのスキも有ってはならない。この様に心の内側・外側に一分のスキも無い状態で弓矢を持って、その上で正しい道・方法に従った射を行い、矢を発して始めて本当の的中が得られるというものです。この様子を見ていると、射る人の人徳・人柄も自然の内に観察することが出来るものです。
弓を射ると言う事は、人としての理想の在り方としての仁の道を行うことと全く同じことです。何となれば、常に礼の理念に従って行動し、基本に忠実な射を求めて、射および体配をするに至らなければ、真実の的中を得る事が出来ないからです。若しそうでなければ正しい矢が発せられる訳が無く、正しい的中も得られないでしょう。その上で射を競った結果として、自分に勝った者にたいしては怨んではならない、的中を得る事の出来なかった自分自身に対して、的中が得られなかった本当の理由を自分自身に求めて反省をしなければならない。邪な心を持たなかったか・基本に本当に忠実に射る事が出来たか等をよくよく反省して、自分を高めるべく次の努力への糧にしなければならない。この態度・姿勢こそが仁の道であり、その人柄であり人徳を表わすと言えるでしょう。」
と言うような意味に成るのではないでしょうか。

この中で大切な事は「正しきを己に求める」の意味です。
何が正しいかは、個人の価値観であり信念となり、正邪の識別をする自分自身が問題となります。従って射を見ればその人の正邪に対する考え方を観ることが出来るからです。的中を求めて手段を選ばない人は、勝ち負けを目的としている人であろうし、勝つ為には在るべき姿を歪める人であるかも知れないと言えるでしょう。ここで言う正しいとは、儒教の世界における社会的・道徳的・倫理的価値観での正しい事です。そう考えるとその理想の姿としての「仁」の意味が大変に重要になり、また儒教の規範としての「五常七道」の実践が要求されます。それと同時に射技としての正しさである、射の理念や基本の実践も含まれてきます。
何が正しく、何が間違っているのかを判別するのは自分自身であるからです。
自分勝手な正しさでは困る訳です。自分中心の価値観や、利害関係中心の価値観ではいけないのです。天に誓ってとか、神に誓ってと言う絶対的な正しさを求めています。それは、礼記の基本が天即ち本来在るべき理想の姿を前提とした考え方であり、現在の世の中の様な妥協の産物としての正邪の判断基準であるとか、競争社会の中での自己中心の価値観ではなく、高い道徳・倫理に支えられた価値観であるからです。現代の日本の様に和を大切にした伝統的な日本の価値観と工業化社会・競争社会の中での価値観の併存の中で、多様化した価値観の中ではこの「正しきを己に求める」の説明が大変に難しくが、ハッキリさせなければならない内容になると思います。

弓道で言えば、射技の基本の意味であり、礼の意味であり、人としての在り方としての本来在るべき姿でしょうか?
弓道の世界でも昔から破邪顕正と言う言葉が使われます。邪を破り、正しい事を顕すと言う意味です。正邪の判断が出来る考え方がないとこれは実現出来ません。
正しい事と照らし合わせて自分を反省する事により、自分を高めて行く事が出来るのであり、何が正しいかの物差しを明確にしなければならないのは当然の事となります。価値観が多様化している現在において、この「正しきを己に求むる」の言葉は非常に大切な内容を秘めていると思います。

これに関して思い出すのは、日本の武士道における武家社会の幼児教育の在り方です。人を殺傷する事の出来る武器としての刀を持つ事の出来る唯一の階級としての武士が、どんな時に刀を抜くかは非常に重要な課題となります。
自分個人の利害関係だけにより刀を抜かれたら、正常な社会を維持する事は出来ません。社会倫理・道徳の中での在るべき姿に違う時に、正義を正す時にのみ刀を使わなければならないでしょう。将に破邪顕正実現の為の武道で在る事が要求されました。それ故に武家社会では武士の子供に、武術を習う前の年齢、即ち幼少の頃に儒教特に論語を中心とした価値観で、正邪についてのしっかりとした考え方を教え、その上で武術の修練をしたのです。それだから世界に比類のない道徳・倫理に支えられ、しかも自律的で・自己規制の効いた武士道が日本で育ったのではないかと思います。

現代の弓道においても、長年弓道を修練している間に、正しい事が自然に身に付くと言いますが、それは私は間違いではないかと思います。
形から入って心に至ると言う考え方は現代の多様な価値観の時代には正しくないと思います。矢張り正しい事を理屈の上でしっかりと学び、その上で弓道の修練をすべきではないかと思います。指導者が自信を持って指導出来る射技理論や礼に関する深い智識や人間としての在り方についての智識を以って指導をしなければならないでしょう。指導者自身にも大きな責務が掛かっていると共に、学ぶ人のマナーもハッキリとすべきではないかと思います。単に矢数を掛けて練習する中では射術は身に付くでしょうが、深い礼や仁の思想の世界には到達出来ないと思います。

本を読むのが嫌いな人や、素晴らしい先輩・先生の話を聴く事の出来ない人では、本当の弓道を学ぶ事は困難ではないかと思います。本当の意味の正邪の判断があって始めて正しきを己に求め、自分を反省して、自分を高める事が出来るのです。ここでは、私なりに相当言葉を付け加えて、内容が理解しやすいように意訳を試みました。

燕射・郷射の射会に先立つ人間関係における礼を、現代弓道流に置き換えて考えるならば、道場の内外での礼、師弟の間柄での礼、組織運営者との間の礼、世代間での礼と言えるでしょうか、この背景には社会の中での役割や人生の長さから来る経験の量の差などにより、教わる事への感謝の念と、経験・体験は文字以上の多くの教訓を得る事が出来ることを認識した上に成り立っていると思います。射においては、師匠の教え又は弓道教本に示されている考え方や射の基本に対して忠実に射を行い、正しい射を絶えず自分に求めて、自分自身の最善を求めて一射一射真剣に練習を重ねる修練に対する姿勢でしょうか?
道場という概念も、現在では単なる練習場と言うものになってしまっていますが、ここには「道の場」としての道場の意味がなくてはなりません。道の概念が非常に大切になります。弓道と言う言葉にも道の言葉が使われています。「弓の道」が弓道であるのです。この礼記射義の説明から外れますので、ここでは道の考え方について述べる事は出来ませんが、よくお考えを戴きたいと思います。

射技の練習についても、的中すれば善いと言う考え方でなく、正しく射る事により的中を得なければなりません。「正しく射れば必ず的中するものであり、的中したから正しい射であった確証にはなりません。」一番簡単に言えば、押し手・妻手共に弛んだ場合には的中するものであり、前矢ばかりの人が狙いを後ろにすれば的中する訳です。それでは的中したから、正しい射であったとは言えない事は説明するまでも無いでしょう。しかし的中をすると人は今の射は善かったとお世辞を言ってくれるから、つい自分も今の射は善かったのかなあと誤解をしてしまう訳です。その為にも何が正しく、何が誤っているかをしっかりと理解していないといけないでしょう。射技においての正しきを己に求め、その結果の的中・不中です。全ては自分に責任の在る事です。この様にして離して的中しなかった時には、決して自分に勝った者を怨んではいけないのは当然です。
反って的中を得なかった自分に何処に不十分な所が有ったか、気持ちの上で自分の至らなかった所は何処か、等を反省しなければならないのです。その考え方の中から「的」は、自分の心及び射を映す鏡と言う考え方が出てきます。矢の行き着いた所を見ながら、自分の射を反省しなければなりません。正しい事に照らし合わせて自らを反省するのです。それ故に審査等でも同じ的中でも甲矢の的中の方が乙矢の的中よりも価値が認められるのです。甲矢の矢処により、反省をして乙矢を射る事が出来るからです。
価値が違うのはこの理由によります。
押手と妻手の力のバランスが合っていなかったとか、引き分けの運行が悪かったとか、会における張り合いの方向が間違っているとか、狙い自体が間違っているとか、射としての在るべき姿に対して自分を反省し、それらを気遣いながら更なる修練を重ねるのです。この正しい射を求めた修練の積み重ねが弓道で一番大切にする所です。
的中を求めた安易な小手先の修正は、正しき道からどんどんと放れて行き、何れは茶ノ木畑に入ってしまう事となります。狙いを変えてでも的中を得たいと考える自分自身の心に問題があると言えるでしょう。的中で評価する弓道の競技であっても、狙いを変えて不正により勝利を得る事に、どんな意味があるかと考える事が自分自身の「弓道の心」を育てる上において大切な事となります。

射を行う心について、「内志正しく、外体直くーー」と言う内容についても、道場に入った時の先輩や先生への挨拶が失礼に当たらないように正しく出来ているかどうかを考える必要があります。先生のご苦労された体験の中から貴重な教えを受けるのです。それがどんな意味と価値を持っているかを考える必要があります。教えてもらう事が当たり前と考える甘えが問題です。その感謝の気持ちがあるならば、先生に対してのご挨拶も、先生の正面に立って「宜しくご指導をお願いします」と挨拶が出来なくてはいけないでしょうし、練習の後では「有り難うございました」と心からの感謝の言葉も自然と出て来るでしょう。
外体直くについて言えば、練習に当たっては、胴着・袴を着用して練習をするのが当然ですが、その服装を正しているでしょうか?帯を締めずに練習をしている人を見掛けますが、帯を締めずにどうして丹田に力が入っているかどうかを確認する事が出来るでしょうか?胴着・袴での正式な服装により、座射で練習することにより、道場を何時も奇麗に保たなければならないことも身に付くのではないでしょうか?練習の入る準備についても、使用する道具の点検をし、練習に先立ち座って心を静めているでしょうか、正座をしてゆがけを挿しているでしょうか?これらは、練習の中での不慮の事故が起きないようにする為に必須の礼儀作法でしょう。また道場の敷居を知らず知らずに踏みつけていないでしょうか?日本の家屋において敷居がどんな機能を果たしているかを知っていないから、敷居を平気で踏んだりもするのでしょう。又先生の敷居を踏んだという厳しい声の意味が理解出来ないのです。こんな道場の中における礼儀作法に関する色々な事柄を沢山含んでいるのが、「内志正しく、外体直く」の意味ではないかと思います。

射礼の行い方について、呂氏の注釈では更に詳しく述べています。
これにより、今から2000年以上も前に中国の宮廷内では既に「射礼」が確立されており実施されていた事実とその内容が理解出来るでしょう。
基本的な部分については、現代の体配と全く同じで在る事を理解するでしょう。
「礼射を行うには、必ず二人が並んで行うのが通例である。故に同じ一組には、先に射を行う者(前立ちの射手)と後で射を行う者(後立ちの射手)が生れます。共に弓を執り、矢を腰にとる。そして階段に進む時には階段に向かい、階段に至った後の本座では的に向かい・射位に至った時に、夫々揖を行うのです。又退く時にも前の如く揖をする。其の行動は、二人の間に前後があり、階段の登り降りにも後先があります。射の数は十本です。いよいよ射が始まって、その矢を輻(矢を放射状に組んで飾ってある所)まで進み出て矢を手に取る。この場合、初めに揖をして前に進み、輻の所に至って揖をし、矢を手に取って揖をし、そこで脇に矢を差し挟んでもう一度揖をします。そして退く者と矢を取りに進む者と互いに揖をします。その矢を執る時には、弓を横において、手を下ろし、矢の付いた所を押さえて羽さばきをして矢を取ります。それらの動作は全て作法として定められています。射終わってからは、勝った者はゆがけを手に付けた侭、張り弓を手に執り、負けた者はゆがけを取りはずし重ねて、弦を弓から外して手に持って、堂に登り罰杯を飲みます。勝者・敗者は互いに揖をし合って是を行うのです。
この様に、全ての立ち居振舞いは、必ず礼に適うことは誠に見るべきものがあります。先王は、礼法を制定されたが、この礼法たるや何と細々と煩わしい規則であろうか?
孔子先生はこれに答えて曰くに
「この繁文末節を決めたのは、善いことを行わせて人を修養させることに意味がある。確かに君子たる者は、天下において何時・如何なる時にも、やる事・為す事の全てにおいて、定められた作法に従って正確に為さなければならない。かくしてこそ夫々の徳を身につけ、この様に必ず努力を重ねて修養に努めれば、意識をせずとも自然にそれが出来るようになり、社会に出てから立派な功績を上げる役人になるであろう。その手足はいたずらに怠ける事を願っているものである。仮にも敬い・慎む心が勝らなかったら、怠け・怠る心・奢り・高ぶる心が生じるものである。そうすれば、立ち居振舞いは、作法に適う事も出来なくなるであろう。体が怠けては、心もこの為に落ち着かない。落ち着かない所で無理に落ち着こうとすれば、手足はどうして善いか分からない。故に我が侭勝手や、間違った度の過ぎる様なことをして、夫々の分を越えて、上に逆らう事になる。将に何処まで行き着くか分からない有り様である。そうすれば、 天下の乱れはここから始まる事となる。聖人(天子)は、この事をご心配になる。故に何時も、如何なる繁文末節であろうとも、これを慎み守り・人をして事件/事変が起こらない様に、よく修養して身に付ける事が大切である。これを良く習わせ、煩雑さを厭わないように躾なければならない。そうすれば思い上がった又は謙らないような行動は、自然と起こらなくなるであろう。そうすれば如何に久しきに亙っても、是を案ずる事が出来る。そうすれば礼に適わない行動も起きず、また義に外れる事もなくなるであろう。

君子は、慎みの心で身の内を正しくされる。正しき道に従う心を持って、身の外形を正しくされる。身の内に在るものは、慎みである。即ち身の外形に現れるものは厳かであるであろう。この様に内も外も互いに整い納まったならば、發し現れるものが、正しく無い訳が無い。いわゆる中正である。射は、一つの技である。容(すがた・たちいふるまい)を礼に照らし合わせ、節(おりめ)を楽にたくえ・なぞらえたならば、矢は發して正鵠(的)から外れる事はないであろう。是は必ず正しい条理を踏む事を楽しみ、久しく敬い・謹んで、その志(精神)を、事に拠って分かたない強固な心が育てられる事となる。かくして後、どんな事態にもいささかも動じない心を持つ事が育つのは、即ち是を持つ事の出来る所以である。これは徳を身につけることである。その事を知るべきである。」と言われた。

ここまで確信に満ちて射の在り方について要求しているのは、それなりの意味があります。前にも書いた通り、儒教の五常五教(又は五道・七道・七教)を基盤にして、役人の登用にも儒教の各科目が必須となり、尚且つ射を含めた六芸で選出するのです。これは役人の資格として、全てに対して「公明正大」でなければならない行政官であり、基本に忠実で、正しい在るべき姿を何時までも自分に求めながら、行政をし・係争についての判断をしなければならないからです。
その為には自己が正しく・基本に忠実で・常に冷静に判断が出来る人格を形成し、その中から理想的な政治が為されなければならないと言う政治についての考え方があるからです。それ故に、的中の為の見せ掛けの射芸は、全く排除されているのです。それをしようとする邪な心自体を問題としているのです。
これが礼記の中で求めた射の姿でしょう。

射を行う体配についても同じです。既に2000年以上もの昔から今で言う体配が定められて射をしていたのです。単なる的中のみでなく、礼の心をきっちりと守り、射を行う事を通して社会の中で役立つ自分を作り上げ、社会の中で礼を尽した生活を送り、万民を公平に、しかも温かい心を持って行政する事が出来ると教えてきたのです。
射礼の歴史を見ると共に、現代弓道の理念の神髄を見る思いがします。

02.語彙の解説.


ここで少し語彙を説明して置きたいと思います。
詳細な概念については、次項以降で説明します。
射:弓を射ること。平時は射で姿形を習い、射術を修める。
射を通して、その徳行・人格を見て「士(中央・地方の行政官)」を選び、天下に事在る時には、これを用いて戦わせる。射には、大射・賓射・燕射・聘射・郷射・ 州射・武射・軍射等が在る。
昔の中国では、地方の役人を選ぶのに「六芸」と言って「礼・楽・射・御・書・数」の試験に拠った。その中には射があり、これは単なる的中で判断すると言うものではなく、射を通して見られる人格・人徳が礼に適った立ち居振舞いや射会の前後を含めたその他での礼儀作法などの全体で判断された。
君臣の義:上下関係の中で守るべき道。五教・五倫の教えの中の君臣の間での
義である。その外には、父子の間に親あり、夫婦の間に別あり、長幼の間
に序あり、朋友の間に信ありとなり、これが人として守らなければなら
ない人間関係である。
君臣の義:君臣の間に為されなければならない事。君は君主としての道(仁)
を尽くし、臣は臣下としての道(忠)を尽くす事を言う。
父子の親:父子の間にて為されなければならない事。父は子を慈しみ、子は親
を愛して孝を尽くす事。その間には自然の情愛が生れる。
夫婦の別:夫婦の間柄の中で何時も為されなければならない事。夫と妻とも、
夫々定まった役割分担・職分があり、そのきまりを守らなけばならない。
又夫婦の間でも自ずから礼儀があるべきであり、互いに馴れ合い・汚し
合ってはならない。
長幼の序:年齢の長幼の中での為されなければならない事。年長者と年少者と
の間には、道徳上当然守らなければならない秩序がある。即ち、年長者は
年少者を慈しみ・可愛がり、年少者は敬い・貴ぶ事である。
朋友の信:朋は同門の者・友人・同志を言う。
信は、人の言葉は偽りなく、誠・真実であらねばならない。
友人間においては互いに信頼出来る真実がなければならない。
正鵠:弓の的、正は布を張って的を作り、中心に正を描く。鵠は皮を張って作
り、中心に 鵠を描く。正も鵠も鳥の名前です。狙い所・要点を言う。
審固:審はつまびらか・細かい所まで詳細にと言う意味です。内志が正しく、
外体が直であれば、弓矢を持つことは自ずから堅固となり、いささかの
隙―スキも生じない。心の中が正しければ、視る力も自然と的を見定
めるにも審かになる。
審の字は、野球などの審判と言う言葉を考えて戴けば理解出来る様に
細かい部分まで見ることとなります。審判とは細かな所まで見て、
ルールに照らして判定すると言う意味です。
義理:正しい筋道。人としてふみ行うべき正しい道。義は、人として常に行わ
なければならない五常(ごじょう)の一つです。五常とは、仁・義・礼・
智・信です。射義を射技と間違えないようにして下さい。
意味が全く違ってきます。

03.孔子の考え方と禮の意味するもの


ここでは、礼が中心の課題となっています。
この文章は、今から2500年位前の中国の思想家・哲学者の「孔子(こうし)」と言う人の説かれた「礼」についての考え方を集約した「禮記」という本に礼についての考え方・心得・礼儀作法を記載しています。
孔子は中国の聖人であり哲学者であり、紀元前5世紀の人です。そして「儒教」を確立した人でる。儒教の中国での位置づけを考えてみると、紀元前136年の前漢に中国の国教に定められ、その後清朝までの2000年以上に亙り、中国において行政や市民の生活の中での道徳・倫理の規範として、また社会人としての在り方などの規範として採用され生活に浸透している考え方です。善悪の判断の基準として2000年にも亙り、維持されてきました。

日本には、西暦500年位に仏教と殆ど同時代に紹介され、その後の奈良時代・平安時代・鎌倉時代等の政権の細部に至るまで、儒教の論理が展開浸透されていました。特に江戸時代には儒教の一つの派である「朱子学」が武士の規範として教育に採用され、「武士道」の精神的な部分に多大な影響を与えています。
またこれらの思想は、明治以降も受け継がれ、第2次世界大戦が終了するまでの長い期間に亙り、私達日本人の生活に影響を与えた思想です。
そして現代に於いてもその価値観は社会の中で生き続けています。儒教はこの様にして宗教と言うよりも思想として、哲学として社会制度を含めた社会組織・家庭の中で共通の考え方として定着浸透したものであり、宗教と言うよりも思想・哲学と位置づけた方が善いと思います。

漢文を習われると、必ず出て来るのが孔子の論語でしょう。
又時代劇等で幼少の武家の子供が先生の前で大声で、「子 曰くーー」と呼んでいるのは、この論語です。非常に大切な考え方ですから詳細に説明しましょう。

04.礼記について


礼記の中に射義編があり、これが私達が馴染みになっている礼記射義で在る事は、前述の通りです。では礼記全体ではどんな教典で構成され、どんな事が記述されているのでしょうか。

1)礼記の構成

礼記は、孔子の教えの儒教の中でも論語に次いで大切なテキストです。
孔子は、紀元前1027年から始まった西周の君子の行政を理想の形として、周礼を模範として、神事・祭礼等における儀式の運営に関わる礼法から始まり、社会の中での人間関係の中での礼の位置づけに至るまで細かく定め、生活に根差した礼儀作法の考え方から具体的な方法に至るまでを定めています。それが礼記です。儒教が単に人生哲学の範囲を越えて、元々健全な政治・理想的な政治を求めた孔子の生き方とも大変に関連強く、他の宗教とは少し異質な実践哲学の性格を持っています。
そして儒教は、中国では長年国教として定め運用され社会や個人の生活の隅々に迄に浸透し、その思想や具体的な様式は近隣の朝鮮半島・日本・東南アジア諸国等にも大いに影響を与え、その影響力は仏教同様に絶大なものがあります。

礼記の成立について、下見隆雄先生の「礼記」(明徳出版社)によれば、「隋書」経籍志に記されおり、それによると「漢の初め頃、河間献王と言う人が、孔子の弟子や後の学者達の記しのこした礼に関する記録131編を手に入れて天子に献上しました。その当時はこれを説く者は居なかったが、漢の劉向が経籍の類を調べ、検討した時には130編の記録を見出したと言われます。彼はこれを整理して順序を正しました。そして更に明堂陰陽記33編、孔子三朝記7編、王史氏記21編、楽記23編をも見出しました。全部で5種類・214編になりました。この後、戴徳がこれらの煩雑で重複しているものを省き・調え全部で85編と致しました。これを大戴記と言います。その後戴聖が、またこの大戴の書を省き・整えて46編としました。これを小戴記と言います。
漢代末期の馬融は、この小戴記の学を説いたと言われます。彼は又月令1編・明堂位1編・楽記1編を付け足して、合わせて49編に纏め直しました。
そして鄭玄は、この馬融から学問を受けてこれに注釈を加えました。今、周官6編・古経17編・小戴記49編の計3種類がある」と述べています。

その後も配列の順番等について色々な変遷がありましたが、現在では次の様な構成になっています。
「曲礼上・曲礼下・壇弓上・壇弓下・王制・月令・曾子問・文王世子・礼運・礼器・郊特性・内則・玉藻・明堂位・喪服小記・大伝・少儀・学記・楽記・雑記上・雑記下・喪大記・祭法・祭義・祭統・経解・哀公問・仲尼燕居・孔子間居・坊記・中庸・表記・緇衣・奔喪・問喪・服間・間伝・三年問・深衣・投壷・儒行・大学・冠義・昏義・郷飲酒義・射義・燕義・聘義・喪服四制」の49編がそれです。
そして私達が注目する射義編は、上の通り46編目に在ります。

2)礼記全体の内容

では、礼記全体でみた時に、どんな事が記述されているのでしょうか?
全部で49編の礼記を内容別に見ると、通礼として曲礼上下・内則・少儀・玉藻・深衣・月令・王制・文王世子・明堂位があり、次は喪礼でありこれを2つに分けて一つは既喪を扱った喪大記・雑記・喪服小記・服問・壇弓上下・曾子問であり、もう一つは喪の義を述べたものであり大伝・問喪・三年問・喪服四制となります。
次は祭礼について定めたものであり、これも二つに分かれます。一つは既祭としての祭法を述べ、一つは郊特性・祭義・祭統をあてています。
4つ目は通論で、礼運・礼器・経解であり、一つは哀公問・仲尼燕居・孔子問居であり、一つは坊記・表記・緇衣であり、一つは儒行であり、一つは学記・楽記です。ここまでの36編が礼記の中心となります。この経の後に、冠義・昏義・郷飲酒義・射義・燕義・聘義などの儀礼について纏めたものと、投壷・奔喪の礼の正経となっています。

この様に礼記では、国王の色々な国家行事での礼儀作法から個人としての礼儀作法に至るまで細かく定めています。

礼という考え方は、本来は宗教上の諸行事を行う時に、神・仏に対する儀礼・行事の執行についての手順等から発生しており、真摯な気持ちで、素直に、正直に、神仏に対して無礼・失礼の無いように、定められた通りに行事を執り行う事から出発しており、それを人間社会の中に広げて、共通の価値観の元で、共通の道徳・倫理の考え方・ルールとして定着させ、家庭・社会の中でのお互いの人間関係を潤滑に維持する規範として定着して来ました。

05.礼の考え方・意味について


では礼とは一体何なのでしょう。
礼の考え方は、礼儀作法と言ってしまうから、どうも形式的なものに思われがちですが、礼の心を把握しておかないといけないと思います。
特に弓道を中心とした武道ではこの礼の考え方は重要な事であり、また欧米を初めとした自由平等の横社会の世界にある外国の弓道人に、縦社会の礼のコンセプトを説明する時に重要ですから、しっかりと理解されたいと思います。

1)礼と言う漢字の意味について

「礼」は、本来の字が「禮」であり、これは「示」編に「豊」という字から成り立っています。心の豊かさを示すのが禮と言う字は表わしています。
「禮」の字を漢和辞典でもう少し詳しく調べてみると、「示」編は神様に関連のある言葉が並びます。神社祀祈祇祝祖祢祠祗祕祓祭祷等などと並び、全て宗教と関連のある文字で在る事が理解出来るでしょう。だから、神につかえて、これを祭る時に「ふみ行うべき道」を意味しています。これが「人としてふみ行うべき道」に拡大されて考えられた考えが「禮」にある訳です。その出発点を忘れないようにしてください。新字源(角川書店)で見てみると、示すと豊(ふみおこなう意味)とからなり、神を祭る際にふみおこなうべき儀式、ひいては人の守るべき秩序の意を現わします。

又一説には、豊が祭りの最も重要な儀式の神酒を呑み意と音を示し、ひいては礼法の意を表するとあります。この方が私達には馴染み易いものがありますが、私は前者の意味により、考えたいと思います。

2)礼の概念

この様に考えて見ますと、「礼」の考え方には、外面的な制度・儀礼・作法などだけではなく、人の在るべき姿・人生の意義などの内面的なものを同時に多く含んだ形で、教理が述べられています。人間としての在るべき姿を身に付けているのが仁者であり、そこで示されたものが礼です。これに関しては仁と礼で述べます。神の前にて為すべき事を、人の社会に広げた人間相互の在り方が礼であるとも説明されます。その中心には他を思い遣る考え方があり、併せて大切な事は、孔子の生きた紀元前5世紀の頃は、現在の様に孔子の考え方を記録に残す紙が在った時代ではなく、又印刷術の様に一つの原本から多くの部数作り、一般に広める手段も無い時代であり、こんな時代背景の中で、孔子が話した内容を弟子や学者達が、言い伝え、実践した中から、これらの教えが整備され、体系化されていった事です。それらの考え方は実践の中で淘汰され、それを集大成化して行ったものである事です。従ってそれらは単なる思想ではなく、実践を通して取捨選択しながら整備していった経緯の中に、礼の意義があり、重みがあり、儒教が現代まで生き続けた秘密が在るように思います。

06.仁の概念について


礼記射義の中で、「射は仁の道なり」と言う大変に重要な言葉があります。
また孔子は「仁」と言う考え方を最も大切にしていること。そして「仁」を形に現わしたのが「礼」で在る事を考えると、ここで「仁」の概念を明確にしておく必要があります。

しかし残念ながら、仁と言う概念について纏まった形で定義されたものがありません。論語の中でも問答を通して、孔子がこういうのが「仁」なのだと説明しているものから、想定する以外にありません。

論語の中で仁についての記述は56個所にあります。その中で、論語顔淵第十二の顔淵と孔子の問答がよく「仁」について表現されているであろう思います。

以下は吉田賢抗先生の論語(明治書院の新釈漢文大系)から引用紹介します。
「顔淵が仁とはどういうことかを質問した。孔子は己に克ち禮を復むを仁と為すと言う、当時世間によく言われた古語を用いて答えた。則ち、克己復禮が仁だよと、自分の身勝手を行わないように、心では自分という者を引き締め、外部は先王の定めた社会の規則、人の踏まねばならぬものをふみ行うことが仁である。若し人がただ一日だけでも、この克己復禮で仁を行うことが出来たら、その影響は広く行き渡って天下の人々が皆仁徳に帰服するようになるであろう。この己の身勝手に打ち勝って、自分が禮を実践しうるようにすることは、結局自分の力によって出来る事であって他人の力に俟って出来るものではない。全て人の身に具わった心の働きによるもので、所謂我仁を欲すれば、ここに仁が行うのであるとーーそこで顔淵はさらに進んで、これを実行する為の細目を教えて下さいと言った。これに対して孔子は禮に適わぬことを行動にあらわしてはならない。全て人の視聴言動を禮に合致させるようにせよ。禮は人の世に秩序を与え、社会の平和になる法則であり、すべて道理に適ったものを、古来の聖人たちが善く考え・善く行って、身を以ってこの世に残し示したものであるから、これに従って視聴言動を慎めば、その侭仁の徳と一致するのであると教えた。
顔淵が感激して回は愚かでふつつか者でございますが、何とかしてこのお言葉を私の一生の仕事にしたいと存じますと申し上げた。」とあります。
猶、克己復禮についての余説として、次の様に説明されています。
「克己復禮の四字は極めて有名で、己という私心に打ち克ち、外は禮に従って行動するのが仁である。克己によって調伏した自己が復禮によって、大きく社会性を帯びて積極へ転じるのである。自己調伏は、己に克つことであるからやや消極的に感じられる。孔子の言葉が窮屈に感じられるのは、こういう所である。
しかし、この自己は自分の私欲と言う個人的なものを意味するのであって、復禮という積極面において一たび否定された自己は大きく昂揚するのである。

孔子の考えによれば、仁は人の心であり、人そのものであって、人の内なる心の自然の働きである。己によってのみ得られるもので、人の力を待たない。人が宇宙間の一物であり、社会の構成の一員であるならば、克己復禮において始めて心の働きに帰ることが出来る。孟子のいう惻隠の情の発展したものであり、孔子のいう己を推して人に及ぼす所が、克己復禮の働きである。こうして社会人としての本当の自由を獲得出来るであろう。顔淵がその条項を問うたのに孔子は、視聴言動禮に違うなと答えた。礼は先王の礼であり、孔子が一生を掛けて研究対象とした礼である。
仁はこうして孔子によって新しい生命を吹き込まれた道徳の根本総要である。

古来から礼、人と神との繋ぎ、更に人と人との間の秩序となり、世の規範となった外部的なものが、仁と言う道徳の生命に繋がったのである。そしてこの仁は他人によって生れるものではなく、自分の心の働きによってのみ生じるものである。
ここにおいて始めて礼と言う外部的規範の学が、仁と言う主観的道徳となると共に、人間の自主性を強く打ち出す事によって、人間の価値を高く評価する事となった。客観的規範の礼が主観的な仁という徳性に転じた事をしることが出来る大切な一章である。」

次に同じ文章を、宇野哲人先生の「論語新釈」(講談社学術文庫)の解説から引用して見ましょう。

「顔淵が仁を行う方法を問うた。孔子が答えて言われるには、仁は心の全徳で天の与えた正しい道であり、天の与えた正しい道が形に表われて中正を得たものが礼である。しかし、仁は私欲の為に破られるものである。故に己の私欲に打ち克って礼に反るのが仁を行う方法である。仁は天下の人の心に同じく具わっているものであるから、誠に能く一日の間でも己の私欲に打ち克って礼に反れば、天下の人が皆我が仁を与る程、仁を行う効果は甚だ速やかであり、kつ大きいものである。この様な仁を行うのは己自身の修行によることで、他人に関係あることではない」 顔淵は孔子の語を聞いて、天の与えた正しい道と人の私欲とのことについて明らかに知って何の疑う処も無かったので、直ちに己に克ち、礼に反える修行の箇条をお尋ねいたしますと言った。
孔子は一身の動作が礼に外れるのを己の心で禁止しなければ、天下から与えられた正しい道が消え失せてしまうから、礼に外れた色を視ようと思う時は、必ず心で禁止して視せないにしなさい。礼に外れた声を聴かぬ様にしなさい。
礼に外れた辞を言おうと思う時は、必ず心で禁止して言わぬ様にしなさい。
礼に外れた事は皆私欲である。心でこれを禁止するのは皆これに打ち克つのである。私欲に打ち克って一挙一動皆礼に合うようにならなければ仁が行えたと言えるだろう。顔淵は私は愚か者でございますが、ご教訓の語を行う事は己の任務といたしましょうと答えた。」(程子はこの章の非禮勿視、非禮勿聴、非禮勿言、非禮勿動は、後世の聖人を学ぶ者の服膺すべきものであるとして、視箴・聴箴・言箴・動箴の四箴を作って自ら戒めた。)

ここで、顔淵との仁についての問答を吉田賢抗・宇野哲人両先生の解説を掲げてみました。「仁」の解釈と共に、礼との関係も書かれた部分であり、大変に重要な部分であるので敢えて取り上げました。

その外に、顔淵以外で仁について記述されている処をここに紹介し、仁についてのイメージを持って戴きたいと思います。ここの部分は全て吉田賢抗先生の論語(明治書院)から引用します。

「有子曰く、その人と為りや、孝弟にして上を犯す事を好む者はすくなし。上を犯す事を好まずして乱を作す事を好む者は、未だ之有らざるなり。君子は本を務む。本立ちて道生ず。孝弟なるものは、それ仁の本為るか」(学而第一)
「子曰く、巧言令色 鮮いかな仁」(学而第一)
「子曰く、弟子入りては則ち孝 出でては則ち弟 謹みて信 汎く衆を愛して仁に親しみ 行いて余力有らば 則ち以って文を学ぶ」(学而第一)
「子曰く 人にして不仁ならば 禮を如何せん。人にして不仁ならば 楽を如何せん」( 八■第三:人偏に八の下に月)
「子曰く、仁に里(を)るを美と為す。撰びて仁に慮(を)らずんば、焉(いづくん)ぞ知りたるを得ん」(里仁第四)
「子曰く、不仁者は以って久しく役に慮る可からず。以って長く楽に慮るべからず。仁者は仁に安んじ、知者は仁を利す」(里仁第四)
「子曰く、唯 仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む。」(里仁第四)
「子曰く、まことに仁に志せば、悪しきこと無し。」(里仁第四)
「子曰く、富と貴とは、是れ人の欲する所なり。其の道を以ってせざれば、之を得るとも慮らざるなり。貧と賎とは、是れ人の悪む所なり。其の道を以ってせざれば、之を得るとも去らざるなり。君子仁を去りて、悪(いづ)くにか名を成さん。君子は終食の間も仁に違うこと無く、造次にも必 ず是に於いてし、顛沛(てんぱい)にも必ず是れに於いてす」(里仁第四)
「子曰く、我未だ仁を好む者、不仁を悪む者を見ず。仁を好む者は、以って之に尚(くわ)ふること無し。不仁を悪む者は、其れ仁を為さん。不仁者をして其の身を加えしめざればなり。能く一日も其の力を仁に用いること有らんか。我未だ力の足らざる者を見ず。蓋(けだ)し之有らん。我未だ之を見ざるなり。」 (里仁第四)
「子曰く、人の過ちや、各(おのおの)其の當に於いてす。過ちを観て、ここに仁を知る。」(里仁第四)
「子曰く、士 道に志して、悪衣悪食を恥づる者は、未だ與(とも)に議(はか)るに足らざるなり。」(里仁第四)
「或る日、雍や仁なれども侫(ねい:弁舌が立つこと)ならずと。子曰く、焉(い)づくんぞ侫(ねい)を用いん。人に禦(あた)るに口給を以ってすれば、屡(しばしば)人に憎まる。其の仁を知らず。焉んぞ侫を用いんと。」 (公冶長第五)
「孟武伯問う、子路は仁なるかと。子曰く、知らざるなりと。又問う。子曰く、由や千乗の国、其の賦を治めしむ可きなり。其の仁を知らざるなりと。求や如何と。子曰く、求や千室の邑(いう)、百乗の家、之が宰(さい)たらしむ可きなり。其の仁を知らざるなりと。赤や如何と。子曰く、赤や束帯して朝に立ち、賓客と言わしむ可きなり。其の仁を知らざるなりと」(公治長第五)
「子張問ひて曰く、令尹(れいいん)子文、三たび仕えて令尹と為れども、喜色無し。三たび之を己めらるれども、慍色(うんしょく)無し。旧令尹の政(まつりごと)は、必ず以って新令尹に告ぐ。如何と。子曰く、忠なりと。曰く、仁なるかなと。曰く、未だ知らず。焉ぞ仁なるを得んと。
崔子、斉君を弑(しい)す。陳文子馬十乗あり、棄てて之を違(さ)る。他邦に至れば、則ち曰く、猶お吾が大夫崔子のごときなりと。之を違る。一邦に之(ゆ)けば、則ち又曰く、猶ほ吾が大夫崔子のごときなりと。之を違る。如何と。子曰く、清なりと。曰く、仁なるかと。曰く、未だ知らず。焉ぞ仁なる得んと。」(公冶長第五)
「子曰く、回や、其の心三月仁に違わず。其の余(あまり)は則ち日月に至るのみと。」(雍也第六)
「りん遅(人の名前)知を問う。子曰く、民の義を努め、鬼神を敬して之を遠ざく。知と謂う可しと。仁を問う。曰く、仁者は難きを先にして獲(う)ることを後にす。仁と謂う可しと。」(雍也第六)
「子曰く、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かんり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し。」(雍也第六)
「宰我問いて曰く、仁者は之に告げて井(せい)に仁有りと言うと雖ども、其れ之に従わんやと。子曰く、何為れぞ其れ然らん。君子は逝かしむ可し、陥れる可からざるなり。欺(あざむ)く可し。しう(道理の無いことで目をくらませて欺すこと)べからざるなりと。」(雍也第六)
「子貢曰く、如し博く民に施して、能く衆を済(すく)う有らば、如何。仁と謂う可きかと。子曰く、何と仁を事とせん。必ずや聖か。尭舜も其れ猶ほ諸(これ)を病めり。其れ仁者は己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能く近く取りて譬ふるを、仁の方と謂うべきのみと」(雍也第六)
「子曰く、道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に遊ぶ。」(述而第七)
「冉有(ぜんゆう)曰く、夫子は衛の君を為(たす)けんかと。子貢曰く、諾、吾将に之を問わんとすと。入りて曰く、伯夷・叔斉は何人ぞやと。曰く、古の賢人なりと。曰く、怨みたるかと。曰く、仁を求めて仁を得たり。又何をか怨みんと。出でて曰く、夫子は為(たす)けざるなりと。」(述而第七)「子曰く、仁遠からんや。我仁を欲すれば、斯(ここ)に仁至る。」(述而第七)
「子曰く、聖と仁との若(ごと)きは、則ち吾豈(あに)敢えてせんや。そもそも之を為(まな)びて厭わず、人を誨(おし)えて倦まず。則ち云爾(しかいう)と謂う可きのみと。公西華曰く、正に唯だ弟子学ぶこと能はざるなりと。」(述而第七)
「子曰く、恭にして禮無ければ則ち労す。慎にして禮無ければ則ちしす(しは草冠に思う:ビクビクと臆病になること)。勇にして禮無ければ則ち乱す。直にして禮無ければ則ち絞す。君子親に篤ければ則ち民仁に興る。故旧遺れざれば、則ち民ゆからず(人情にうすくならない)。」(泰伯第八)
「曾子曰く、士は以って弘毅ならざる可からず。任重くして道遠し。仁以って己が任と為す。亦重からずや。死して後に己む。亦遠からずや。」(泰伯第八)
「子曰く、勇を好みて貧を疾(にく)むは乱す。人にして不仁なる、之を疾むこと甚だしければ乱す。」(泰伯第八)
「子、まれに利と命と仁とを言う。」(子まれ第九:ワ冠にハ千)
「子曰く、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず。」(子まれ第九)
「顔淵仁を問う。子曰く、己に克ちて禮を復むを仁と為す。一日己に克ちて禮に復めば、天下仁に帰す。仁を為すは己に由りて、人に由らんやと。顔淵曰く、その目(もく)を請い問うと、子曰く非禮視ること勿れ、非禮聴くこと勿れ、禮言うこと勿れ、非禮動くこと勿れと。顔淵曰く囘不敏なりと雖ども、請う斯(こ)の語を事とせん。」(顔淵第十二)
「仲弓仁を問う。子曰く、門を出でては大賓を見るが如し、民を使うには、大祭を承くるが如くす。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。邦に在りても怨み無く、家に在りても怨み無しと。仲弓曰く、雍、不敏なりと雖ども、請う斯の語を事とせんと。」(顔淵第十二)
「子張問う。士如何なるを斯(ここ)に之を達と謂う可きかと。子曰く、何ぞや爾が謂う所の達とはと。子張対えて曰く、邦に在りても必ず聞こえ、家に在りても必ず聞こゆと。 子曰く、是れ聞なり。達に非らざるなり。夫れ達なる者は、質直にして義を好み、言を察して色を観、慮りて以って人に下る。邦に在りても必ず達し、家に在りても必ず達す。夫れ聞なる者は、色仁を取りて行いは違う。之に居て疑わず。邦に在りても必ず聞こえ、家に在りても必ず聞こゆ。」(顔淵第十二)
「はん遅(人の名前)仁を問う。子曰く、人を愛すと。知を問う。子曰く、人を知ると。はん遅未だ達せず。子曰く、直きを挙げて諸(これ)を枉(まが) れるの措けば、能く枉がれる者をして直からしむと。はん遅退き、子夏を見て曰く。郷(さき)に吾夫子に見(まみ)えて知を問う。子曰く、直きを挙げて諸を枉がれるに措けば、能く枉がれる者をして直からすむと。何の謂うぞやと。子夏曰く、富めるかな言や。舜天下を有(たも)ちて、衆に撰びて、 皐陶(こうえん:人の名前)を挙げしかば、不仁者遠ざかりき。湯天下を有ちて、衆に撰びて、伊尹を挙げしかば、不仁者遠ざかりきと。」 (顔淵第 十二)
「曾子曰く、君子は文を以って友を曾し、友を以って仁を輔(たす)く。」(顔淵第十二)
「子曰く、如し王者有りとも、必ず世にして後に仁ならん」(子路第十三)
「はん遅仁を問う。子曰く、居処恭しく、事を執りて敬し、人と忠なるは、夷狄に之くと雖ども、棄つ可からざるなり。」(子路第十三)
「子曰く、剛毅朴訥は仁に近し。」(子路第十三)
「克伐怨欲行われずんば、以って仁と為す可きかと。子曰く、以って難しと為す可し。仁は則ち吾知らざるなりと。」(憲問第十四)
「子曰く、徳有る者は、必ず言有り。言ある者は、必ずしも徳有るにあらず。仁者は必ず勇有り。勇者は必ずしも仁有らず。」(憲問第十四)
「子曰く、君子にして仁ならざる者は有らんか。未だ小人にして仁なる者は有らざるなり。」(憲問第十四)
「子路曰く、桓公公子糾す。召忽(そうこつ)は之に死し、管仲は死せず。曰く、未だ仁ならざるかと。子曰く、桓公諸侯を九合するに、兵車を以ってせざりしは、管仲の力なり。其の仁にしかんや、其の仁に如かんやと。」(憲問第十四)
「子貢曰く、管仲は仁者に非らざるか、桓公公子糾を殺すに、死すること能わず。亦之を相(たす)くと。子曰く、管仲桓公を相けて、諸侯に覇たらしめ、天下を一匡す。民今に至るまで其の賜を受く。管仲微(な)かりせば吾其れ髪を被り衽(じん)を左にせん。豈匹夫匹婦の諒(まこと)を為すや、自ら溝涜(こうとく)に経(くび)れて、之を知ることなきが如くならんやと」(憲問第十四)
「子曰く、君子の道とする者三。我能くすること無し。仁者は憂えず、 知者は惑わず、勇者は懼れずと。子貢曰く、夫子自ら道(い)ふなりと。」(憲問第十四)
「子曰く、志士仁人は生を求めて以って仁を害すること無し。身を殺して以って仁を成すこと有り。」(衛霊公第十五)
「子曰く、民の仁に於けるや、水火よりも甚だし。水火は吾踏みて死する者を見る。未だ仁を踏みて死する者を見ざるなり。」(衛霊公第十五)
「子曰く、仁に當りては、師にも譲らず。」(衛霊公第十五)
「陽貨孔子を見んと欲す。孔子見(まみ)えず。孔子に豚を帰(おく)る。孔子その亡きを時として、往きて之を拝す。諸に塗(みち)に遇う。孔子に謂いて曰く、来れ予爾と言わん。曰く、其の宝を懐きて、其の邦を迷わすは、隠と謂う可きかと。曰く、不可なりと。事に従うを好みて、しばしば時を失う。知と謂う可きかと。曰く、不可なりと。月日逝きね。歳我と與ならずと。孔子曰く、諾、吾将に仕えんとすと。」(陽貨第十七)
「子張仁を問う。孔子曰く、能く五つの者を天下に行うを仁と為すと。之を請い問う。曰く、恭・寛・信・敏・恵なり。恭なれば則ち侮れず、寛ならば則ち衆を得、信なれば則ち人任じ、敏なれば則ち功あり、恵なれば則ち以って人を使うに足れりと。」(陽貨第十七)
「子曰く、由や、女(なんじ)六言六蔽を聞けるかと。対えて曰く、未だしと。居れ、吾女に語らん。仁を好めども学を好まざれば、其の蔽や愚なり。知を好めども学を好まざれば、その蔽や蕩なり。信を好めども学を好まざれば其の蔽や賊なり。直を好めども学を好まざれば其の蔽や絞なり。勇を好めども学を好まざればその蔽や乱なり。剛を好めども学を好まざれば其の蔽や狂なりと。」(陽貨第十七)
「子曰く、巧言令色、鮮いかな仁。」(陽貨第十七)
「微子は之を去り、箕子(きし)は之が奴と為り、比干は諌めて死す。孔子曰く殷に三仁有りと。」(微子第十八)
「子夏曰く、博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う。仁其の中に在り 」 (子張第十九)
「子游曰く、吾が友張や、能くし難きを為す。然れども未だ仁ならず。」(子張第十九)
「曾子曰く、堂々たるかな張や。與に並びて仁を為し難し。」(子張第十九)
「尭曰く、ああ爾舜、天の暦数 爾の躬に在り。允に其の中を執れ。四海困窮せば、天禄永く終えんと。舜も亦以って兎に命ず」曰く、予小子履、敢えて玄牡を用いて、敢えて昭らかに煌煌たる后帝に告ぐ。罪有るは敢えて赦さず。帝臣蔽わず。撰ぶこと帝の心に在り。朕が躬罪有れば、萬方を以ってすること無けん。萬方罪有らば罪朕が躬に在らんと。「周に大賓有り、善人是れ富む。周親有りと雖ども、仁人に如かず。百姓過ち有らば、予一人に在り」権量を慎み、法度を審かにし、廃官を脩むれば四方の政行われん。滅国を興し、絶世を継ぎ、逸民を挙げれば天下の民心を帰す。重んじる処は民の食葬祭なり。寛なれば則ち衆を得、信なれば則ち民任ず。敏なれば則ち功有り、公なれば則ち説ぶ。」(尭日第二十)
「子張孔子に問いて曰く、如何なれば斯れ以って政に従う可きかと。
子曰く、五美を尊び、四悪をしりぞければ、斯に以って政に従う可しと。子張曰く、何をか五美と謂うと。子曰く、君子は恵にして費やさず、労して怨みず、欲して貪らず、泰にして奢らず、威ありて猛からずと。子張曰く、何をか恵にして費やさずと謂うと。子曰く、民の利する処に因りて之を利す。斯れ亦恵にして費やさざるにあらずや。労す可きを撰びて之を労す。又誰をか怨まん。 仁を欲して仁を得たり。又焉んぞ貪らん。君子は衆寡と無く、小大と無く、敢えて侮ること無し。斯れ亦泰にして奢らざるにあらずや。君子は其の衣冠を正しくし、其の瞻視(せんし)を尊くし、厳然として人望みて之を畏る。斯れ亦威ありて猛からざるにあらざるやと。子張曰く、何をか四悪と謂うと。 子曰く、教えずして殺す之を虐と言う。戒めずして成るを視るこれを暴と言う。令を慢にして期を致すこれを賊と言う。猶しく之れ人に與えるなり。出納のやぶさかなる之を有司と言うと。」(尭曰第二十)

この様に考えてみると、論語の中でも色々な面から「仁」を説明していますが、顔淵との問答が一番要領よく纏まっていると思います。これらを整理して仁についての概念をまとめると善いのですが、私の力を越えたものであり、皆さん御自身の理解に委ねたいと思います。これらを前提として、次に移ります。

別の面から見てみると、礼は五常の「仁義礼智信」の仁を形に著したものを礼として、「仁」と言う考え方との関係において理解しなければならないと言われています。即ち「仁」は個人として・社会人としての完成された人間像・理想像であり、完全な人格者として、多くの徳を備えた理想の人間を意味します。
その「仁」を形に現わしたのが「礼」となります。

仁の域にある人が身につけているものが礼となり、礼を身についた人でなければ仁者では無い事にもなります。人間の理想的な在り方の中にこの礼を身に付けていることが必須になっているそんな位置づけの「礼」でも在ります。

新渡戸稲造の「武士道」(元の書は英語で書かれたものであり、その日本語訳を私達は読んでいます)の中で、外国の人に向けての説明として、仁の文字は人が二人いる事を表わしています。即ち、人が二人以上になったならば、人として必ず心得なければならない事、即ち他人に対する「思い遣り」「気遣い」であり、それは親子・兄弟等の間に生れる「親愛の情」が拡張されたものであると考える事ができると説明しています。しかし「仁」は、それ程簡単に定義出来るものではなく、論語においても非常に多くの事例を上げて仁を定義しているのは上記に紹介した通りです。

これらの記述を全部合わせた者が仁者であり、人間の在るべき姿であると説明しているので、非常の漠として掴み所が無い概念です。
仁は人としての在るべき姿の理想的なものであり、射は仁の道であり、礼は仁を形に現わしたものであるというのです。他を思い遣り、義理に熱く、正義を実践する事が仁の道とでも言うのでしょう。そして「礼」の効用としては、心正しく・身を調え・礼儀正しければ、地位の上下・親子・夫婦・長幼(年齢の上下)・友人同志等の色々な人間関係も自然と親しみ・善い関係が保つ事が出来る事となると、礼の効用について説いています。

07.五常五教(五倫)について


今迄の所で、仁とか礼とか義理とかを言葉として使用しました。それぞれはどんな概念であり、人間の社会の中でどんな位置づけにあるのでしょう。また正しきを己に求める内容として、射技だけでなく、徳行としての正しい在り方を述べる必要もあると思います。ここで儒教の中で大変に重要な考え方をである五常五教(倫)について説明する必要があります。これも「礼」と言う概念を理解する上において非常に重要です。

五常とは、人として常に(永遠にの意味もある)行わなければならない事の意味であり、それは「仁・義・礼・智・信」の五つの徳目として定めています。
そして五教とは、君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の間にある人間関係として守らなければならない事となります。これに加えて兄弟・賓客を加えて七教と言う場合もあります。七教については、礼記の王制の中に「七教を明らかにして、それで以って民徳を興す」(七教を実践で明らかにして、民に徳で導く)、又大戴礼では「老を敬い、歯(年長者)を尊び、施しを楽しみ、賢者に親しみ、徳を好み、貪欲を憎み、潔白で遠慮がちであること」と教えています。

この個人として常に為さねばならないもの、即ち共通の価値観としての「規範」となる五常と社会の中での人間関係の「規範」としての五教(五倫)を併せて、五常五教(倫)と表現しているのです。これは、現代においても通用する永遠の価値観であると思いますし、特に武士道の中枢的な価値観で在り、概念ですので善く理解して置かなくては成りません。

前の項で示した「仁」の概念の様に、本来は詳細な概念として説明を加えなければなりませんが、ここでは弓道を実践するについて必要な程度の説明に止めたいと思います。何れにしても、この概念を理解する事なしに、古い武道の書籍の内容を理解する事は殆ど不可能であると思いますので、ここで合わせて紹介して置きたいと思います。

五常をもう少し説明すると、
「仁」とは個人として社会人としての人間の在るべき姿の理想のもので、聖人・仁者です。 仁については具体的にはどういう事かについて論語の中でも沢山出てきますが、上記で紹介の通りです。ここでは人間としての理想像とだけ考えて置いてください。
前記の様に新渡戸稲造先生は「武士道」の中で、仁の文字が表わす(人が二人)如く、人が相い親しみ・いつくしむ意味の二の合字です。二人以上になった時にそこで自然に表わされる関係、即ち「思い遣り」「気遣い」の考え方があります。
これは私の考え方からすれば、思い遣り・気遣いとは、競うと言う考え方ではなく共に住むと言う共存し和平を保つ意味に繋がり「和」を大切にした考え方でもあると思います。仁の思想は勿論理想的な人間像である訳ですから、和という概念だけでは包括出来ないもっともっと大きな概念であるとは思いますが、その一部に又は底流に和の概念に繋がる所があると考えています。
「射は仁の道なり」と表現している「仁」の意味はこの様に非常に深い意味を持っている言葉です。
「義」は、人としてふみおこなわなければならない道であり法です。
元の意味は、神前で行う舞いを示し、礼に適った行いの意味となり、転じて道の意味を表わしています。また公共団体・社会を維持する秩序正義の意味も持ちます。それは転じて公共の為に守るべき道ともなります。節度に適った善い事となります。
義気・義挙・義侠・義士・義人・義倉・義憤・義方・義務・義民・義理・義勇・義烈・奥義・講義・節義・道義・徳義・不義・律義・礼儀・本義・名義等の言葉に共通な概念を考えればそれらも自ずから明らかになると思います。
「礼」は、神を祭る際に踏み行うべき儀礼、ひいては人の守るべき秩序となります。前にも書いた様に、豊(れい)が祭りの最も緒重要な儀式の神酒を飲むと言う意味 の合字で、そこから礼法の意味を表わしているとも 説明されます。
礼意・礼器・礼儀・礼式・礼典・礼装・礼拝・礼状・儀礼・敬礼・婚礼・葬礼・典礼・拝礼・失礼・無礼・非礼等と使われます。
礼記で取扱う主題であり、ここでの説明は省略します。
「智」は、物事の本質を知り分ける能力であり、単なる知識ではなく、生きた智恵であり、叡智と考えた方が良いでしょう。智勇・智慮・智慧・叡智・智能・智嚢等と使われます。
「信」は、人の言葉と言葉が一致している様で、まこと・真実・誠実であり、信じられ信じる事となります。この文字は孔子の生きた時代を遥か溯る殷(紀元前1700―紀元前1100)の時代の亀甲文字にあります。
紀元前1700年には既に社会の中での人間関係の在り方として、信と言う事を大切にして、その文字が在ったと言う事でしょう。この字は人と言うの合字であり、人の言う事は信じられなければならない。嘘を言うなと言う事にもなります。言葉により人間社会が動いており、人の言う事が信じられなければ社会の中での全ての約束事が成り立たない。
自分の都合の善いように本当の事を隠し、世を欺く事が当たり前になってくれば、その社会全体が既に内部から崩壊を始めていると見做すのは世の東西同じであると思います。
信愛・信印・信義・信験・信士・信実・信書・信証・信条・信託・信念・信頼・信仰・信者・信奉・自信・確信等と使われます。
この様に、五常のどの概念も人間の社会の中で常に行わなければならない規範で在る事は理解出来ると思います。常の意味は、永遠にの意味があります。

五教は、君臣の義・父子の親・夫婦の別・長幼の序・朋友の信など、言葉は少し適切ではないかもしれませんが、支配する人とされる人・親と子供・夫と妻・年齢の上下・友達同志などの夫々の人間関係における為すべき礼であり、前記の通りであり語彙の説明の所で詳細に述べた通りです。

この様に五常・五教(倫)と言う形で、人間の在るべき姿を求めた考え方が儒教の中心にあり、それだからこそ何千年にも亙り社会の中で不変の価値観として存在し続けてきたのです。礼記射義を考える時に、この儒教の基盤にある考え方・価値観を先ず理解しておいておかないと、困るのでここで敢えて解説しました。

08.正しい人間関係を求めた射


この礼記射義において注意すべき点は、私達が道場の中で読む「射は進退周還必ず礼に中りーー」の前の部分に、お互いの人間関係における礼儀作法により、お互いの関係を明確に確認しあうと言う行為が在る事です。それがあって初めて「故に射は進退周還必ず礼に中りーー」と繋がっていることです。
道場の中での射礼の中での礼儀作法だけでなく、道場の内外における君臣・師弟・親子・夫婦・朋友の間における信頼関係を維持する為の人間関係が前提としてあることです。原典を読んでいないとこれが気付かない事となります。
この様に、弓を射くと言う事は、礼に適った姿・心で行うものであって、的中だけを求めて行うものではないことは礼記射義を日本の各道場に掲げて弓道の目標としている事でも明らかです。礼は、社会の中での人間関係をスムーズに行う為に、お互いに必ず守らなければならない約束事であり、それは射を通して体得しなければならないのです。

儒教が社会の基本ルールになっているのは、中国だけでなく、韓国や日本や台湾その他東南アジア諸国においても儒教精神により社会の基本ルールが成り立っています。それは日本においては前記の様に、西暦500年位に仏教と同時期に日本に紹介され、中国から儒教学者を招聘して当初は宮廷の中で、そして順次武家社会の中で、更にはあらゆる市民階層に浸透し、規範化された。
それらは中国における何千年にも亙る、何時の時代にも替わる事のない万古不易の価値観として淘汰され、定着したルールと言えます。それと同時に遣唐使や遣随使初め当時の文化先進国の中国と深い連携を以って文化連携を取ってきた日本にとっては、どの時代においても中国の政権との交流には、又は色々な儀式における儀礼は儒教の様式に拠らなければならない訳で、その考え方や方法は必須のものであったと思われます。基本の精神は、互いの心遣いが最も大切であり、その方法も合わせて教育されていたと思われます。礼記の教えは射においても同じであり、自分の射を行う心積もり・姿勢・態度を正しくしなければならない事を教えています。これらは、前田巌夫先生の解説書を中心にして纏めたものです。

09.儒教と弓道


弓道と儒教はどんな関係に在るのでしょうか?
日本の弓道と儒教の関係を考える時には、私達は武道と儒教の関係を理解しなければなりません。それは武士道と儒教の関係を説明する事により、全て理解戴けるでしょう。武士道の世界で評価される所は、和の精神を根底に持ち、自律・自制の文化で在る事であろうと思います。武と言えば世界共通して力の論理が中心になりますが、そこに和の文化・自律性が働いているのは極めて高い評価に値するものと考えます。

武家社会の時代に入り、社会の最高階級にある武士が、己を規範にし得るように修練すると共に社会の共有の正邪の判断基準として儒教が取入れられ日本流に特化され、特に江戸時代には儒教の一派の「朱子学」が幕府の正式な教科に定められ、儒教が武家階級だけでなく、庶民の思想基盤にまで浸透しました。
人を殺傷する事の出来る刀を帯ることの出来る唯一の階級として、又士・農・工・商の階層化により社会の維持統率を考えた徳川幕府は、社会の最高階級の武士に厳しい自律精神を要求したのは当然であり、その中枢に儒教が据えられていたということです。そしてそれらの考え方は、武道百般とも言われる剣道・柔道・弓道・居合い道等など・あらゆる武道に共通した徳目として存在します。それは当然の事であり、武家社会の中では、夫々の武道が独立して存在した訳ではないのです。武士である以上はあらゆる武芸に習熟している必要があったのです。遠くからの闘いの間は弓術で善いでしょう、接近戦になれば剣道になります。更に接近すれば組み打ちの相撲が必要になる訳ですから、あらゆる武芸の底流にこの儒教と禅の思想があったのでしょう。それらが専門化して独立した武道になってから、それぞれの武道の共通項として儒教や禅の影響があるのは当然である。これが日本の武士道と儒教の関係であり、武道と儒教の関係です。

日本の何処の道場にも掲げられている、そして弓道教本の一番始めの頁に掲げられている、この「礼記射義」は、私達弓道を修練する者の、心的な最高目標として掲げられているものであります。礼の意味については、兎角形式的な・儀礼的な面に囚われ勝ちですが、問題は「心の問題」です。
本当に相手を敬い・尊敬し、互いが無くてはならない人間同志であると言う実感・認識が無いと、その心が形として自然に現れないのではないでしょうか。
礼とは、それを知らないときに「無礼」となり、知っていても実行されないときに「失礼」となります。礼の基本の精神については、論語の中でも何度も何度も出て参りますが、それらが膨大な形で集約された内容として「礼記」が書かれている事に、その深さと重要さを理解しなければなりません。そしてこれらの礼は、頭の中で考えた作法ではなく、2000年以上に亙る長い年月を掛けて実践されて淘汰された結果、遺されている物である事を理解する必要があります。

昔の中国では、仏教の学者は儒教の学者でもありました。また道教の学者でもありました。その意味では、日本に入って来た儒教には、仏教・道教の影響を受けたものであり、仏教・儒教・道教が夫々棲み分けして結果として紹介され、更に日本の風土に合った形に咀嚼されて定着しました。

本場中国では、紀元前136年の前漢の時代に儒教が国教に定められ、1912年に清朝が崩壊するまでの2048年間に亙り、儒教が国教として維持されてきました。共産中国の誕生と共にその価値観は崩壊しましたが、現代共産中国で儒教が再評価されているのは興味深いものがあります。

中国においては早い時期から高い文化が発達し、隣国は中国から文化を導入して来ました。中国の文化を考える時に、例えば、孔子(BC551―BC479)の活躍した春秋の戦国時代の次の時代は、秦の始皇帝の時代になります。
紀元前221年の事です。日本の邪馬台国の卑弥呼の時代は西暦4世紀の話です。ここには600年の開きがあります。秦の始皇帝の時代には漢字を統一し、度量衡を統一し、大きな宮殿を建設し、万里の長城を建設する文化を既に持っていたのです。従ってこの時代では役1000年の文化的な隔たりがあったと考えて善いでしょう。巨大な中国大陸を統一した秦の始皇帝の時代には、既に組織的な政治形態が確立していたのは当然でしょう。色々な文化も花咲いていた事でしょう。それ故に、日本も遣唐使・遣随使を送り、先進的な中国の文物・習慣・制度を積極的に取入れています。その中国との間に主従関係を結ぶことも政治的安定を得る為に必要な事でも在りました。その中国において紀元前136年の前漢の時代から国教に定められ、秦の始皇帝の時代に一時儒教を排斥した以外は、ずっと中国の国教として君臨したのが儒教です。

儒教はこの様にして中国で生れ、政治権力と結び付けながら、近隣諸外国に大きな影響を与え続けた事はご理解戴けると思います。その意味で、中国で定着していた本来の儒教の形は韓国や台湾に残っており、日本の儒教は神道・仏教などと補完しないながら日本式儒教となっており、細かな点で中国・台湾・韓国などの儒教と相当な違いがあることを理解しておく必要があります。

孔子の論語の思想は、礼記と共に、日本人の知識階級の常識として、明治時代・大正時代・終戦までの昭和時代まで、営々と社会のリーダークラスのみならず、市民一般の基本的な思想として浸透し定着してきました。

弓道が、武道として位置づけられ、その中で紀元前5世紀に生れた孔子の「礼の思想」に基づいて、現代に至るまで営々と継承されている事実は、この教えが「万古不易」の思想であるが故であろうと考えます。逆に言うならば、紀元前500年の頃の思想家の孔子が考えた理念を、2500年経過した現代においても未だ射の理想の精神として追い求め、その実何時までも自分のものにならない「永遠の課題」として位置づけられている事実があります。文明は進歩しての人間の心の進歩はないのだろうか?

孔子の論語は、私も40年間近く親しんでいますが、人間としての在り方をして共感が持てる部分が非常に多く書かれており、流石2千年に亙り存続されてきた価値観であり、考え方である事を実感します。人間が実際の生活や政治の中で体験をしながら、継承してだけの内容をもっています。私に取っても長い期間に亙り座右の書としています。
孔子の関係の書籍も沢山所蔵しています。孔子の儒教は、西周の王の行政における人間を尊重し、自ら民の見本としての君子の在り方を示し、人徳を示し、民が自然と施政者に従いなびく様な、理想的な社会として施政に関わる者の在り方を定め、それに従う民の規範を整理したものと言えます。時代の風雪を経て改定を加え、解釈を加えて現代に継承されているものです。

10.日本の社会における儒教・礼の心


私は、古代の日本の政治の中で儒教を受け入れ、定着させてきた背景として、例えば律令制度などの中国の文化の導入や、政治交流の中での中国と日本の行き来・または朝鮮半島の諸国との文化的・政治的交流においても、儒教の礼儀作法がその共通作法として存在していたという極めて重要な要素がありますが、それと同時に中国文化を本質的に受け入れる共通基盤があったと考えています。
山川に狭く囲まれた地域社会中心の閉鎖的な生活共同体として、日本の地理的条件・自然条件の中で、育まれた社会の規律や人間同志の在り方を、独特の形で生み出して来ており、調和を非常に重要視した風土があり、儒教の色々な考え方も日本的に咀嚼されている部分が多くあります。
広い世界で生れた一つの思想が、或る条件下の社会に定着する為には、それらの咀嚼は当然の事であり、それだから時代を経過しても継承される内容に整ったのでしょうし、それ故に無理が無く重要な思想と言えるでしょう。

弓術が弓道へと変化してきた経緯も理解しておきましょう。
日本においても戦闘の歴史は長く続きました。戦闘の弓矢も術として君臨した時代が長いと言う事が出来ます。現に日本においては織田信長の長篠の合戦において鉄砲が戦闘の武器として地歩を得るまでは、弓矢が戦闘の武器でした。
しかしその一方では、律令制度と一緒に中国の文化が日本の文化に深く浸透しています。天皇・公家の社会においての射礼は既に平安時代から、儀式としての射が宮廷では開かれていたのです。

射礼の形は、呂氏の解説にもある如く、既にこの時代から現代の射礼と殆ど同じ内容の「射における礼」が定められていたのは驚くばかりです。日本には奈良時代に伝えられ、平安時代には大射が行われ「射礼(じゃれい)」として宮廷で行われていたのです。射に関わる諸行事も盛んに催されます。鳴弦蟇目の儀等も宮廷では行われていました。この様に日本においては、戦闘の弓矢としての弓術の流れと、宮廷で行われていた中国の儀礼を伴った射礼が併存していたのです。
発祥の地の中国・伝播の途中の韓国などでは、既に射礼は消失していますが、最果ての地の日本においてこの様に営々と伝承されている事は大切な事と思います。

何れにしましても、道場に掲げられている「礼記射義」の意味を十分に理解して、単なるお経になっていてはならないと思います。その心を十分に理解して、練習を通してその心を体得し、それを日常生活・社会生活に生かされて始めて弓道の意味が出て来ると思います。

11.競う弓道と和の弓道

次に現代弓道における礼記射義の意味を考えてみたいと思います。
弓道とは、「弓」を通して習う「道」なのです。道は何処に繋がっているかを考える必要もあるでしょう。「礼記射義」を「礼記射技」と間違えて書く人がありますが、射義と射技では、天と地程も隔たりが在る事を理解して、間違えないようにお願いしたいと思います。
射を通して体得すべき徳目を大切にしなければならないと思います。射を行う時に為さねばならない道筋であるので、射義と書かれている事に注意して下さい。
礼記の中では、個人としての人の在り方・社会人としての人の在り方について、道徳及び倫理の面から色々とその在り方を述べています。東洋における理想の世界が描かれています。この原点には、人間を愛する・人間同志が信頼しあい・心を通わせ合う「和の考え方」があります。
これを戦後の西欧文化の渦中にある現代日本の価値観と比較して考える必要性があるでしょう。特に、戦後日本の工業化社会への邁進の中で、私達は何時の間にか「科学的合理性」を求め、結果第一主義に犯されている傾向があります。その背景には競う文化があります。結果を大切にする考え方があります。
的中も表面的な的中を求めて、力学的な力のバランスによる射技を求めている傾向がないでしょうか?結果を競うスポーツとしての弓道・娯楽の一つとしての弓道も一つの在り方であり、上達のための道筋ではあると思いますが、伝統的な弓道では「修練を通して自分を鍛え・高めると言う崇高な目的」を持っている事を考えないといけないのではないでしょうか?

競争の原理に基づく西欧文明と調和を基盤にする日本文化、理論に照らし合わせて科学的に合理的に物事を考えようとする西欧文化と、基本になる思想を実際の生活体験を通して累積し、長い年月に亙り継承しながら取捨選択を重ねて淘汰して現代に継承されている「体験を基盤にした」日本文化、これらを考える時にスポーツとしての弓道と、弓の実践を通して人としての道を習得しようという伝統的な弓道とは、その根本として求める目的が違って来るのではないでしょうか?皆さんは如何考えられますか?

競う弓道と自己を高める弓道、的中を得る為に狙いを替えたり、弓具に細工をしたりする事を是とする的中主義の弓道(弓術)への誘惑とどの様に闘い、整合すべきか?
私も実業団弓道を指導している時には、この問題については随分苦しみました。
その結果私自身が考えてきたのは、4段迄は技を鍛える時代、それ以降は技と共に心を鍛えると言う考え方を取ってきました。勿論4段迄と言っても正しい射により、正しい方法によっての射です。こんな考え方の中での技の追究過程です。5段以上になれば中央審査の審査基準でも理解出来るように技だけではクリア出来ない精神的な要素があります。特に、地方自治体の社会教育・生涯スポーツの一環として、初心者から扱うについては、先ずは的中により弓道に対して興味を持って貰う必要があります。そして的中を通して正しい技の構成を身につけて貰う必要があります。その上で同じ的中でも位が在る事を順次説く方法が善いと思います。但しここには条件があります。指導者自身が、礼に則った、自己を高める弓道の意味をしっかり理解し、的中の位についても良く理解して、その上で的中の確実さを教えなければならない事です。的中を得る為に、狙いを変えたり、握りに細工をしたり、弦に印を付けたりと言うのは、的中すると言う目的の為の手段ではあるが、是では正しい技を身につける事は永遠に出来なくなってしまいます。胡麻化しの的中により、本当の自分の射の欠点を隠してしまうからです。
従って、初心の段階から修練の年数を重ねるに従い、スポーツ的な弓道から伝統的な弓道へと、自らが変遷していくことも事実ですが、矢張り一番善いのは当初から伝統的な弓道の求める姿を理解しながら、現在の自分の弓道の取組み方を決める事ではないかと思います。その為には立派な指導者の元での修練が大切となると思います。

12.和の文化としての弓道と礼の思想


私の弓道観からすると、弓道は的中を競うスポーツではなく、和を求め・自己を高める武道精神の中での、本来の日本文化の中での弓道の感覚が必要であると考えています。弓道の本来の姿を理解する為には、日本の文化土壌としての自然の条件と人間の関わり合いかたと、その中に育まれた歴史の中での武道精神を理解する必要があると思います。

第一点目の自然については、狭い起伏に富んだ国土です。
人の移動を容易に認めない山や河川の入り組んだ地形の中で、自然と共に生きた日本民族です。自ずから「和」「調和」を社会の規範として大切にしてきたことです。又閉ざされた世界でありながら、四季の折々の食糧を植物からも動物からも入手出来た恵まれた自然が西欧の様な大陸と違い、共棲・共同生活を基本にして社会の組織やルールを作って維持してきた事です。

第二点目は、弓道は武道の一つであることです。武道は武士道に繋がります。
人間同志の闘いを美化する積もりはありませんが、何も理解をしないで排斥するのはもっといけないと思います。武道精神・武士道は、世界でも非常に高く評価されている哲学的な内容を持つものです。日本文化の中で非常に高く評価される価値を持ったものだと思います。

武の精神は、中国の思想を受け入れていますが、戈(か)を止めることを武の本質としました。文字については、新字源(角川書店)で見ると、戈(か)はまたぐの意味であり、一跨ぎから転じて戦の強さの意味になった。一説に戈を持って攻めに行くと、止めるの会意とも説明しています。私はここでは日本独特の「和の文化」と関連させた、闘いを止める意味としての武の考え方を採用したいと思います。これは、上の「和の文化」「調和の文化」と関連を持ちます。和を前提とした闘いが、中国・日本での闘いの理想であり、基本となると言えるでしょう。

歴史的に見た場合、異民族同志の闘いでは勝者は敗者を隷属し、勝者の文化を移植し、敗者の文化は根こそぎ排除されるのが通常の形態です。これは大陸である、欧州や中国等の戦争の事実から明らかであろう。日本においても西欧や中国の様な大陸での人の闘いの様に、闘いの後で被征服民が奴隷化された時代もありますが、島国と言う閉鎖的な環境の中で全体的には同一民族の日本における闘いは内乱であり、自分の氏・素性を声高らかに名乗り上げて闘いをする文化です。
恥じの文化はその表側に礼の文化があるのです。戦闘時代においてさえもこの正義・公正を求めた闘いであり、大儀の為の戦闘であったのです。ましてや戦闘が終了して平和な時代になっての射の意味は、将に自己を鍛え、社会が要求する徳目を修練により習得する修行としての弓道の位置づけがあります。

13.自己規制・自律を求める弓道


礼の思想に基づく日本での弓道は、鎌倉時代を経て室町の時代に武士の在り方としての武士道と結び着きました。更には戦闘の形態も弓矢の時代から鉄砲の時代に移る中で、敵を倒す武器としての弓の術から、自己を鍛える道としての弓道へと替わって来ました。元来が相手の居ない弓の道です。静止した的に、自分の弓矢で、同じ距離から射を行うのです。修練により基本の射術が身につき、心が安定していれば、何時も同じ所に矢は到達する筈の弓道です。ここに術の中に心の要素が入る、相手の居ない弓道が、自己を規制し、自己を律するに最適な道としての弓道が確立されるに至ります。
武家政治の時代に士農工商の身分性により「武士・農民・工業・商業」の階層に分け、その中で人を殺傷し得る「刀」を持つ事を唯一許された階級として武士が厳しい自己規制・自己規範を持つことが要求され、人としてのあり方・個人又は社会人としての社会秩序・社会規範を身を以って例示する責任と共に、その教育と実際の生活が統制される中で武士道が築かれていったと言うことです。ここに儒教・仏教と武士道との関わり合いを認めない訳にはいけないところが出てきます。

互いの人間関係を大切にした「心の結び付き」は「思い遣り」「互いの気遣い」を始めとして、狭い地域で肩を抱き合って生きなければならない私達が、大切にしなければならない徳目として日本民族が大切にしてきた理念なのです。
そしてこれからの時代においては、物質と心を旨く融合させて、本当の人間の幸せを築いて行かなければならないと思います。そしてそれらを成すのは人の考え方・思想から出発します。ここに弓道人が果たすべき役割があります。

14.再び「礼記射義」の教えるもの


「礼記射義」の深い意味を考えて、心豊かな生活が弓道を通して実現したいものです。礼の思想が、形だけに流れないようにその本当の意味を良く理解をして、礼を尽くさなければならないと思います。この時、こちらを礼を尽くしても上位の人が応分の礼を返さないからと、礼の機会に人間関係が崩れる事がありますが、注意をしなければならないことです。
礼は、自分が相手の人に対して持つ感情であり、作法であり、相手の人が自分に対してどのような礼を返すかとは関係がないのです。段位が上がり、称号を取ると一度に態度が替わる人がありますが、それは所詮それだけの人格でしかないと考えれば善い事でしょう。「実る程 頭を垂れる 稲穂かな」の古語を思い出しながら、互いに注意し合って明るい社会の一員となりたいものです。

日本においては、礼の対象に応じて、礼の目的に応じて、9種類の礼を使い分けています。私達の弓道においても、指建礼・折手礼・托手礼・双手礼・合手礼等が使われています。
神社などでの神拝の仕方についても乱れている事を悲しく思います。
日常生活の中で礼がしっかりと出来る人は、それだけで信頼が出来る様に思います。心を失った礼は、反って不快感を相手に与えている事を、本人は知らずにしており、悲しいことです。これは形に囚われて、心を失っているからでしょう。
中国で生れた「礼記射義」が、本場の中国ではなく、日本において弓道と共にその心を求め、現代に於いても更にはこれからの続く時代にも永遠に求め続けられるでしょう。それは人間社会における一番基本的な在るべき姿を求めているからであり、特に日本の地理的な環境の中で育まれた文化の中で、深く結び付くものがあるからでしょう。そして更には、これから一層世界の時間距離が狭くなっていく時代に、互いの民族同志が和して共存してゆく為に、「礼の思想」その中の「和の思想」の意味は一層重要になってくるでしょう。

競う射ではなく、礼に即した、的に届いた矢により自分の射を反省し、常に正しきを己に求める生活態度や基本に忠実な射を求める心の持つ意味は一層深まるでしょう。私達弓道人が、率先してこれらの心を体得した結果を、家庭生活にそして社会生活に生かす事により、本当の意味の「礼記射義」の心が人間の幸せな生活に結びついて生かされるでしょう。

今、西欧の文化の反省の中で、礼を中心にした道徳観・倫理観が研究されています。弓道のおける礼が形式的な礼の世界ではなく、その精神性迄も含めた礼として体得して行く事がこれからの社会の中で、益々重要になるのは当然であると考えられます。

礼記射義の解説を私なりの視点で説明をしてみました。皆さんの参考に供することが出来たとしたならば幸いです。

15.礼記の射義編全文


禮記射義が引用されている「禮記の第46射義編」の全文を以下に参考に紹介します。資料は、前田巌夫先生のものより引用し紹介します。

禮記 集説巻之三十 射義(編)第46講義 宋 衛堤 撰

古者諸侯之射也、必先行燕禮。郷大夫士之射也、必先行郷飲酒之禮。故燕禮者、所以明君臣之義也。郷飲酒之禮者、所以明長幼之序也。
註:
正義曰、此経明将射之時、天子諸侯先行燕禮。所以明君臣之義。郷大夫将射、先行飲酒之禮。所以以明長幼之序也。呂氏曰、諸侯之射大射也。郷大夫之射郷射也。射者男子之事。必飾之以禮楽者、所以養人之徳、使之周旋中禮。蓋燕與郷飲、因燕以娯賓。不可 以無禮。故有大射、郷射之禮。禮不可以無義。故明君臣之義、與長 幼之序。

故射進退周還必中禮。内志正外體直、然後持弓矢審固。持弓矢審固、然後可以言中。此可以觀徳矣。
註:
正義曰、此一経明射者之禮。言内志審正、則射能中。故見其外射、則可以觀
行。故言可以觀徳行矣。
呂氏曰、禮射者必先此■(ヒの下に禾を置いた偏に、作りは田の下にぐうのあしを置いた文字で標準指定にはない)。故一■皆有り上■下■。 皆執弓而挟矣。其進也。當階及階、當物及物、皆揖。其退也、亦如之。其行有左右、其升降有先後。其射皆拾發。其執矢干輻也。始進揖、當輻揖。取矢揖、取■(手偏に晉)挟揖。退與将進者揖。其取矢也、有横弓郤手、兼■(弓偏に付)順羽、拾取之節焉。卒射而飲。勝者祖決遂執張弓。不勝者襲説決、拾加弛弓升飲。相揖如初。則進退周旋必中禮可見矣。夫先王制禮。豈苟為繁文末節、使人難行哉。亦曰、以善養人而己。蓋君子之於天下、必無所不中節。然後成徳。必力行而後有功。其四肢欲安佚也。苟恭敬老之心不勝、則怠惰傲慢之気生。動容周旋不能中乎節。體雖佚而亦為之不安。安其所不安、則手足不知其所措。故放辟邪侈、弁(本文は足偏に諭の作りを当てている)分犯上。将無所不至。天下之乱自此始矣。聖人憂之。故常謹於繁文末節、以養人於無所事之時、使其習之、而不憚煩。則不遜之行、亦無自作。至於久而安之。則非禮不行。無所往而非義矣。君子敬以直内。 義以方外。所存乎内者敬。則所以形乎外者荘矣。内外交脩、則發乎事者中矣。射一芸也。容比於禮、節比於楽。發而不失正鵠。是必有楽於義理、久於敬恭、用志不分之心。然後可以得之、則其所以得之者、其為徳不知矣。

其節天子以趨(本文は馬偏)虞為節。諸侯以貍首為節。郷大夫以采蘋為節。士以采繁(本文草冠あり)為節。趨(本文馬偏)虞者、楽官備也。貍首者、楽会時也。采蘋者、楽循法也。采繁(草冠あり)者、楽不失職也。是故天子以備官為節。諸侯以時会天子為節。郷大夫以循法為節。士以不失職為節。故明乎其節之志、以不失其事、則功成而徳行立。徳行立、則無暴乱之禍。功成則国安。故曰、射者所以観盛徳也。
註:
正義云:此節明天子以下射禮楽章之異。是故天子以備官為節、謂歌貍首也。郷大夫以循法為節、謂歌采蘋也。士以不失職為節、謂歌采繁(草冠あり)也。節者、歌詩以為發矢之節度也。一終為一節。周禮射人云。趨(馬偏)虞九節、貍首七節、采蘋采繁(草冠有り)皆五節。尊卑之節、雖多少不同、而四節以盡乗矢則同。如趨(馬偏)虞九節、則先歌五節以聴、則發四矢也。七節者、三節先以聴。五節者、一節先以聴也。

天子将祭、必先習射於澤。澤者所以撰士也。己射於澤、而後射於射宮。射中者得與於祭。射不中者、不得與於祭。不得與於祭者有譲。削以地。得與於祭者有慶。益以地。進爵退(本文では糸偏に出る)地是也。
註:
正義云:前経己言数與於祭而君有慶、数不與於祭而有譲。此経又重言者、前経明諸侯貢士之制。故賞罰所貢之君。此経論人君将祭撰士、賞罰其士之身。故於此又重言也。澤宮名。其所在未詳。疏云、於寛閑之処、近水澤而為之。射宮即学宮也。進爵退(本文では糸偏に出る)地者、疏云、進則爵軽於地。故進爵而後益以地也。退則地軽於爵。故先削地而後退(本文糸偏に出る)爵也。

故男子生、桑弧蓬矢六、以射天地四方。天地四方者、男子之所有事也。故必先有志於其所有事、然後敢用穀也。飯食之謂也。
註:
正義云:此一経明男子重射之義。以男子生三日、射人以桑弧蓬矢者、則有為射之志。故長大重之。桑弧蓬矢者、取其質也。所以用六者、射天地四方也。所以禮射唯四矢者、示事有不用也。四矢者象禦四方之乱。宇宙内事、皆己分内事。此男子之志也。人臣所以先盡職事、而後敢食君之碌者、正以始生之時。先射天地四方、而後使其母食之也。故曰飯食之謂也。飯食食子也。
射者、仁之道也。求正諸己。己正而後發。發而不中、則不怨勝己者、反求諸己而己矣。
註:
正義云:此一経明射是仁恩之道。唯内求諸己、不病害於物。既求諸己、耻其不勝。乃有争心矣。為仁由己。射之中否亦由己。非他人所能與也。故不怨勝己者、而惟反求諸其身。

孔子曰、君子無所争。必也射乎。揖譲而升、下而飲。其争也君子。
註:
朱子曰:揖譲而升者、大射之禮■(ヒの下に禾編、作りは田にぐうのあし)進。三揖而後升堂也、下飲、謂射畢揖降、以俟衆■皆降、勝者乃揖不勝者、升取■(角偏に単)立飲也。言君子恭遜、不與人争、惟於射而後有争。然其争也。雍容揖遜乃如此、則其争也君子、而非若小人之争矣。今按揖譲而升、未射時也。下而復升、以飲則射畢矣。揖譲而升下五字、當依劉作りはこざと)註為。

孔子曰、射者何以射、何以聴。循聲而發、發而不失正鵠者、其唯賢者乎。若夫不肖之人、則彼将安能以中。詩云、發彼有的、以祈爾爵。祈求也。求中以辞爵也。酒者、所以養老也。所以養病也。求中以辞爵者、辞養也。
註:
正義云:前経論射求諸己、乃有争心。故此明射之難、以中為貴。
孔子曰:射之以楽也。何以聴、何以射。謂射者何以能不失射之容節、而又能聴楽之音節乎。何以能聴楽之音節、而使射之容、與楽之節相応乎。言其難而美之也。循聲而發、謂射者依循楽聲、而發矢也。盡布曰正、棲皮日鵠。賢者持弓矢審固。故能中的。不肖者不能也。詩小雅賓之初筵、發猶射也。爵謂罰酒之爵。中則免於罰。故云者、求中以辞爵也。 酒所以養老病。今求免於爵者、以己非老者病者、不敢當其養禮耳。此譲道也。
以上が「禮記」の第46編「射義編」の全文及び、それについての解釈についての参考です。ここで「正義」とは、経書の解釈書の名前であり、正しい解釈の意味です。 以上

参考文献:


全日本弓道連盟 弓道教本
前田巌夫 禮記 集説集 巻之三十 射義篇第四十六講義
武経 射学正宗・武経射学正宗指述集
下見隆雄 礼記 中国古典新書 明徳出版社
濱口富士雄 射経 中国古典新書 明徳出版社
吉田賢抗 論語 新釈漢文大系 明治書院
宇野哲人 新釈 論語 講談社 学術文庫
貝塚茂樹 論語 講談社
陳 舜臣 儒教三千年 朝日新聞
溝口雄三・中島嶺雄 儒教ルネッサンスを考える 大修館書店
加地伸行 孔子画伝 集英社
孔子 プレジデント社
孔 健 孔子家の極意 日本文芸社
同 孔子と論語のこころ 日本文芸社
孔 祥林 孔子家の家訓 文芸春秋社
同 素顔の孔子 文芸春秋社
松村 映 儒教の毒 PHP
守屋 洋 論語の人間学 プレジデント社


「射法訓」

射法は、弓を射ずして骨を射ること最も肝要なり。心を総体の中央に置き、而して弓手三分の二弦を推し、妻手三分の一弓を引き、而して心を納む。是れ和合なり。然る後、胸の中筋に従い、宜しく左右に分かるる如く、これを離つべし。書に曰く 鉄石相剋して火の出ずる急なり。即ち、金体白色 西半月の位なり。

01.弓道教本での説明


礼記射義が、弓を射るについての心を教えたものであるのに対して、射法訓は、弓を射る方法・技術について書いたものと言えます。
弓道教本の中には、53頁に宇野要三郎先生は「三位一体」の古文献の項で解説をされていますので、さらに私見を交えて意訳をしたいと思います。
「射を行う場合には、弓の操作に囚われて、自分を失ってはならない。射は自分の骨法に従ってこれを行う事を忘れてはならない。心気を体の中央である丹田に置き、これを安定させ、引き分けに至っては、弓手を以って弦を推し、妻手で以って弓を引く気持ちが必要であり、即ち弓手は妻手と、妻手は弓手と調和を取って射く。これは、真っ直ぐに伸ばした弓手と、折り曲げた妻手とは2/3:1/3で始めて釣り合いが取れると言う教えです。弓手と妻手が相対応して均等に引き分ける必要がある。その上で、体の中央に置いた心を丹田に納め、身心弓の和合を図る。これを三位一体の「会」と言う。その上で胸の中央線から左右に分かれる如く左右に均等に張合う。これは、気持ちを体の中央に置き、力は体の中央から左右に矢筋に沿って内側から外側に向かって、徐々に働かせ、矢筋に一文字に張合った上で離す事が重要である。
これは、昔から伝書の中に言われているように、放たれた矢は的に対する当たり外れを言外に置き、離れた矢先の鋭さは恰も鉄と石が相剋して、火の出るような鋭い・気力に満ちた偉大な射を生む。即ち「鉄石相剋して火の出ずる事急なり」の位となる。
即ち それの位とは恰も暁点における金体が白色を帯びて東の空に輝き、西の空には半月が掛かり、相対照している黎明の位の素晴らしい残心(身)を生む。射によって生れる悟りの姿を現わす雄大な位となる」と言う事になります。

02.日置・竹林伝書及び仏教思想の理解し難い表現


射法訓を通して読んでみて理解し難い所は何処でしょうか?
先ず冒頭で出て来る射法は弓を射ずして骨を射ること肝要なり、そして弓手三分の二弦を押し、妻手三分の一弓を射く、という表現、左右に分かるる如く離つべしと言う表現、鉄石相剋して火の出づること急なり、金体白色西半月の位の表現などでしょうか?これらに焦点を合わせて私なりに経験を織り交ぜて所見を述べて説明を加えたいと思います。
弓を射ずして骨を射ること最も肝要なりーー
これは、後の鉄石相剋して火の出ずること急なりの詳細解説およびその次の十二字五意の項で詳細に説明しますが、結論としては弓は力任せに射くものではなく、その人その人の骨法即ち正しい骨・関節に添って正しく組み合わせると言う意味だと理解します。矢束はその人にとっての最適の骨・関節の組み合せにより決るものであり、只一点しかないのです。1mm長くても、1mm短くても正しくないのです。その一点しかない自分の矢束を求めて射技の構成を求めなければならないし、射の運行も必要になるのです。将に規矩に従う即ち定規・コンパスで描く様に寸部の狂いも無いように運行出来る様に、スキを造らず修練が必要となります。力任せの弓は初心の間の事でしょう。後は自分の骨法を知って、自分の矢束を取る様な射技を習得しなければならないと思います。
弓手三分の二弦を押し、妻手三分の一弦を押すーー
これは宇野範士のご説明が大変に理解しやすいと思います。
心の中筋から左右に分かるる如く離つべしーー
これは先生方によって意見の分かれる処だと思います。私は、胸の中筋から矢の筋に添って押し開き・張り合い矢筋の延長線に離れが取れる事と考えています。この矢筋を考える時、押し手は肩から肘を通して前腕の下筋を通して角見即ち親指の付け根の部分これは矢の位置に等しい事となります。一方妻手は手首と肘の中間辺り即ち矢の延長線部分に当ります。妻手はやや肘を後ろ下に回す感じがあって上記の部分が矢の延長線に張れる事になります。ですから手先同志が矢の延長線に張る事とは若干違ってきます。しかもその押す張りする力は絶えず肩からもっと言えば胸の中筋から順次肩・肘・手の内へと流れていないといけない事になります。手先に力が入れば肘・肩の力は緩みます。中心からじわじわと絶えず張り続けている状態を言いますので注意が必要です。
一般的によく見られるのは、表現が難しいのですが、肩甲骨を合わせて前の胸を開いて、振り込む様な形で両肘を背面に殊更飛ばす様な離れをする人が多いのですが、私はこれを蟹の離れと勝手に呼んでいますが、甲羅を取った蟹を胸の真ん中から二つ折りにして食べますがあれを想定して下さい。これですと結果的に振り込みがきつくなります。静止している的に対して自らが弓の狙いを動かしながら離す事になると考えます。従って左右の合わせ離れなら的中も可能ですが、延び合いながらの離れを求めれば的中を得る事が難しい離れになるであろうと思います。尾州竹林流の伝書の「十二字五意(位)」「絹綾錦の教え」の意味を突き詰めて行くと矢筋の張り合いになると思います。即ち自分の骨法に寸部の狂いの無いように射き納めると自然と弓と体が一体になる訳です。その上で縦線を効かせて行くと肩線と矢がどんどんと近づいて来る訳です。狙いと矢に働く力の方向が近くなって来る事になります。そして天地左右に張合って行くと言う事は、左右に関して言えば「胸の中筋より左右即ち矢筋に張合って行って離す」事になると考えるのです。只流派によっては、最後は押し手の角見と妻手の肘の釣り合いと教える流派もあります。又背筋力を鍛える機会の無い現代においては、前の胸部の筋肉と背筋の筋肉の力のバランスが弱い為に背筋を庇う様な射法として、蟹の離れをしたり、合わせ離れによる的中を楽しむのが習癖となって蟹の離れになっている人も多いと思います。
私自身は現在出来ている出来ていないは別として、伝書に残されている「左右に分かれる離れ」を求めています。そして残身は押し手は拳1つが後ろ下に、妻手肘も拳1つ後ろ下になっているのが正しいのではと考えています。これは矢の筋に押し引きをしているのですが、押し手の角見の働きによりやや上押しで捻りが加わっているのと、妻手も同じく妻手手の内に捻りが加わり更に肘は真横よりもやや後ろ下に力が働いており、離れの瞬間には即ち弓の抵抗が無くなった時には、会での力の働きの延長線に手先・肘が移動するからです。
書に曰く以降は、後で詳細に説明したいと思います。
この項は、私自身の尾州竹林流の伝書を基本にした解釈ですので、ご指導を受けてみえる先生の指導内容をよくお聞きして考えて戴きたいと思います。

03.日置流竹林と吉見順正

つぎに射法訓を遺した吉見順正と言う人物と、日置流竹林派(又は竹林流)そして皆さんが興味をお持ちの三十三間堂の通し矢について紹介を致したいと思います。

1)吉見順正について

射法訓を定めた人の吉見台右衛門と言う人はどんな人でしょうか、そこから話を始めましょう。春原平八郎先生の現代弓道小事典では、元の名を吉見喜太郎と言い、紀州竹林派の弓道の達人で、堂前の大射士の佐武源大夫の弟子です。
皇紀2313年といいますから西暦の1653年(江戸時代)4月26日徳川4代将軍家綱の時に、京都三十三間堂で総矢数3,000射中1,700射(56.7%)を通したのを初めとして同年5月11日には8,152射で4,480本(54.9%)、翌年には7,846射で5,158本(65.7%)、同年4月16日7,723射中5,252本(68.0%)を射通しています。
後に、吉見喜太郎経武を改めて吉見台右衛門順正と言う。順正は尾州竹林派の尾林与次右衛門に弓を学んだ。そして明暦2年(西暦1656年)に9,343射中6,343本(67.9%)を射通して「射越の誉」を荷った。そしてゆがけの拇指の皮の中に角を入れる事を工夫したのは、この人だと言われていると紹介されています。そして西暦1686年に総射数13053射中8133本(62.3%)を射通して大記録を作った和佐大八郎の師匠に当たります。

2)三十三間堂の通し矢について

三十三間堂の通し矢とは、どんな競技かと言えば京都洛東七条の蓮華王院の掾を射通すもので、三十三間堂は、間口が66間で、2間を一間として三十三間在る事から名付けられています。一寸分かり難いと思いますので平たく言えば柱と柱の間が33あり、その柱と柱の間が2間(1間は1.8mです)あると言う事です。ですから端から端迄の距離は約120mになります。通すとは、軒下にも、堂の側面にも、縁にも触れることなく、堂の端から端までの120mを射抜く事を言います。それも時間制限があって1昼夜即ち24時間と言う制限時間があります。

記録としては、尾州竹林流の星野勘左衛門茂則が西暦1669年に10,542射中で8,000本(75.9%)を18時間で射通したとしています。
これは当時の記録からすると大変な記録であり24時間の射通しても、その後挑戦する人が無くなってはと考えて途中で止めたと言われています。そして、その後西暦1686年に上記の和佐大八郎が挑戦した時には、大八郎の年齢15歳身長5尺6寸(約170cm)の精悍な青年が堂射に挑戦するのを見ていた勘左衛門が、初めの間通り矢が余りに少ないのを見て、少年惜しむべし 之を庇護して天下総一を挙げさせようとして、密かに大八郎を招き、小刀を取って大八郎の左の手の平の悪血を抜き取り、再び射を再開させた所、大八郎は忽ち常態に戻り、遂に勘左衛門の大記録を上記の通り、18年振りに破り大記録を達成したという逸話が残っています。

堂射の始まりは、後白河天皇の時代に奈良の吉野の奥熊野山の蕪坂に住む源太と言う人が狩猟を仕事としており2町(約218m)離れて走る鹿を射損じ無かったと言う人が、自分の弓勢を試そうと思い、蓮華王院お堂の後ろに廻り、お堂の掾の上にから軒端のしたを射渡して7本を射通した事から始まったと言う。
その後慶長11年に日置流竹林派の流祖の石堂竹林坊の門弟浅岡平兵衛が50本射通した後、射通した本数を競う様になったと伝えられます。

堂射は、夕刻に初め翌日の夕刻に終わり、丸一昼夜試み、常に第一等のものは其の矢数を記し姓名を書いて、額として堂に掲げその名誉を表彰した。その額が今でも三十三間堂に掲げられています。

射手は、堂射を行う時には数日前から精進潔斎して、当日には先ず堂の傍らで習い(之を芝矢という)、次いで堂に上がって練習して、その後本射に及ぶとされています。この際、矢先きが芝に立ち、矢の飛んで来る毎に旄(ざい)を挙げ声を掛けるのです。これを芝旄と言うそうです。射手の前に立って矢を発する毎に芝旄を上げて声を掛けるのを送り声又は送芝旄と言う。また堂見6人は日置流6派の人がこれに当り、通し矢の数を記し、検見は京都の坊官が勤め、之に印判を押して之を証明したと言われます。

この様に三十三間堂の通し矢は、日置流竹林諸派と大変に深い関係を持っています。また徳川御三家の藩の名誉を懸けた競技になっていきました。それが特に尾州竹林流と紀州竹林流の名を高めたと言えましょう。また120mを低い弾道で矢を飛ばす為に、弓や矢や射法の工夫がされ、また24時間と言う長時間を連続して射る為に疲れにくいようにゆがけの控えや堅帽子などが工夫されたのです。

それにしても24時間連続で射ると言う事、24時間で1万本射ると言う事、そして120mの距離を床・壁・軒下に触れる事無く低い弾道でその80%の確率で射通すという体力・技等をを考えて戴きたいと思います。
100射会でふうふう言っている現代の私達です。
江戸時代の弓の練習量について紹介すると、弓で身を立てている人は1日300射、そして1ヶ月の間の1日は1000射ひいて1ヶ月に1万本の練習をしたと言われています。これは明治の初めの先生の手記にも残っていますから、この位の練習量はそれまで続いていたのでしょう。現在の私達の1日にせいぜい40射位の練習とはその練習量の圧倒的な違いが理解されると思います。

こんな背景を持った尾州竹林流・紀州竹林流の伝書である日置流竹林派の竹林坊如成が著した「四巻の書」の位置づけと、竹林流の射法としての特徴があります。
「尾州竹林流 四巻の書 講義録」を書かれた魚住文衛先生は、尾州竹林の星野勘左衛門の流れを組んだ先生となります。私達もこの流派に流れる射についての理念や射法を現代に甦生して、維持していこうと修練をしています。

04.書に曰とは?


本論に入ります。前半の部分は弓道教本に宇野要三郎先生の解説があり、よく説明を聞かれる機会があると思いますので、皆さんの分かり難いとご質問の多い後半にポイントを置きたいと思います。

1)竹林派 四巻の書について

ここで書に曰く以降をもう少し詳細に紹介するとーーー
「書に曰く」とは、日置流竹林派の「石堂竹林派の弓術書 第四巻」を指すと言われております。即ち一般に「竹林流 四巻の書(ちくりんりゅう・しかんのしょ)」と呼ばれるものです。後程、日置流の中から竹林坊如成が竹林派を独立させて派を形成した経緯や、その後の竹林流と称するに至る経緯や、更には尾州竹林や紀州竹林への分岐の経緯について説明しますが、「射法訓」に表われている「鉄石相剋して火の出ずること急なり」の部分は、四巻の書の第四巻の「父母の巻」の「十三、十二字五意の事」からの引用であり、「西半月の位なり」の部分は第三巻「中央の巻」の「十四.五輪砕と言う事」からの引用になっています。

「竹林流 四巻の書」については、全日本弓道連盟の機関誌「弓道」において尾州竹林流道統の魚住文衛先生が「尾州竹林流 四巻の書 講義録」として解説されたものが在りますので、これに基づいて説明をさせて頂きます。私自身は尾州竹林流を魚住文衛先生の元で学んでいるものであり、魚住先生による直接の講義を受けており、同講義録も頂戴しており、それへの書き込みも多くしてあります。その外に紀州竹林の山東直三先生の「日置流竹林派弓道 本書口伝詳解 奥義」も参考にさせて戴きます。

「竹林流 四巻の書」とは、初勘の巻・歌知射の巻・中央の巻・父母の巻の4巻を指しております。四巻の書の構成および概要としては、「初勘の書」は主に射法七道について述べられており七道の巻とも言われています。「歌知射の巻」は、射法の内容を和歌に託して説明されています。「中央の巻」は、射法の内容を精神的な面から説明されており、又修行の心構えについて述べられています。「父母の巻」は、射法全般に亙って専門的にその内容が説明されています。
そしてこれらの巻が認許される基準は、初勘の巻が現代弓道の初段程度、歌知射の巻が三段程度、中央の巻が四乃至五段程度、父母の巻が六段乃至七段程度の時に認許されていたと魚住先生からお話を受けています。

ここでは、魚住先生の「尾州竹林流 四巻の書 講義録」から関連する所を抽出して説明しましょう。山東直三先生の紀州竹林の四巻の書も内容的には、殆どが尾州竹林流の四巻の書と同一であり、より仏教思想の面に深く立ち入って解説がなされています。山東先生は紀州竹林流を習われた方であり、系譜から見ても、「射法訓」を纏めた吉見順正は紀州竹林流であり、ここから引用する事が善いと思いますが、紀州竹林流は尾州竹林流から分岐した流派であり、その根は同一であり「四巻の書」も内容的には殆ど同一であり、魚住先生の「尾州竹林流 四巻の書 講義録」にて説明させて貰うことを予めお断りして置きます。

2)日置流竹林派について

先ず始めに、日置流竹林派または竹林流としての流派の系譜及び尾州竹林流と紀州竹林流の関連について若干説明をしておきます。

春原平八郎先生の現代弓道小事典によると、竹林派は伊賀日置流日置弥左衛門範次・安松流安松左近吉次・弓削流弓削甚左衛門正次そしてその子の弓削弥六郎の流れを組む、近江の人石堂竹林坊如成を始祖とする一派です。竹林坊如成は真言宗の僧侶であり、弓削弥六郎は父より伝授の弓削流を伝える者がなく、弓書と共に三島明神の社殿に篭もり亡くなっています。如成は三島明神の夢想により弓削の弓書を得て、射道の中興したものが竹林派と紹介されています。同じく武芸小伝には、伊賀日置弥左衛門範次は、日置弾正正次の弟で、その弟子が安松左近吉次で、その子新三郎がその技を継ぎ、その弟子が弓削伝左衛正次であり、その子が弥六郎となっています。何れにしてもこの時代には、未だ流派と言う考え方も弱く、日置流が安松流になり弓削流と呼ばれていたのでしょう。
この様に伝わった日置流の弓書が、竹林坊如成に渡り、竹林坊如成がそれらの書を悉く熟得して「日置一篇の射」と言う書物を編集し、北村の姓を石堂と改めた。この弓書を天正20年(1591年)に次男の弥蔵為貞に授けました。為貞はのちに石堂竹林と呼び、名を貞次と改め、尾張徳川家の初代である徳川義直公に仕える傍ら、実践的弓術の妙技を工夫考案して、父の如成が編集した「日置一篇の射」を加筆改編して、当流五巻(上記の四巻の書に加えて、内伝として潅頂の巻)を編集して、ここに竹林流弓術が完成しました。

3)竹林流の呼称について

日置流竹林派と読んだり、竹林流と読んだりで皆様も紛らわしいと感じられると思いますがその辺りの歴史的推移を紹介して置きましょう。
竹林坊如成の頃は日置流竹林派と称しましたが、「竹林流」の呼称は第2代目の竹林貞次以降に「竹林流」と称するようになったと伝えられています。
そして貞次には多くの優秀な弟子が育ち、正統竹林として石堂林左衛門貞直がその宗を受け、尾州竹林として瓦林与次右衛門成直が、紀州竹林として長尾六左衛門忠重がその伝を継承したとなっています。これが尾州竹林流であり、紀州竹林流となります。

流派の成立の前の時代については、色々な説があり、昏迷している部分もありますが、諸武道の流派の形成もこれらの時代であり、戦乱の時代がようやく落ち着きかけた時代背景を考えるならば仕方がない面もあろうかと思います。

このようにして「日置一篇の射」から出発して、徳川義直に仕えた石堂竹林坊貞次により出来上がった竹林流四巻の書は、その後尾州竹林・紀州竹林に分岐する時に、夫々に伝承され、内容的には殆ど同じ内容が伝承されていたと考えられるからです。これには徳川幕府の屋台骨を支える尾張藩と紀州藩の密接な関係が在る事は当然です。この様にして伝承されてきたのが、「竹林流 四巻の書」です、そしてそれらは前記の通り「初勘の巻」「歌知射の巻」「中央の巻」「父母の巻」となり、その外に奥伝として「潅頂の巻」があります。

05.「鉄石相剋して、火の出ずること急なり」について


この字句は、四巻の書の「第四巻の父母の巻」の「十三.十二字五意」に出てきます。ここで尾州竹林流では「意」と伝え、紀州竹林では「位」という字を充てています。これは、離れの事について伝えたもので、五意は五つの意味であり、五位は五つの位と内容的には全く同じ意味です。下記に示す様に「父母・君臣・師弟・鉄石・晴嵐老木」の十二字で構成された五つの位・五つの意味を指しています。

1)十二字五意(位)の意味

鉄石相剋云々とは何について語っているのでしょうか?原本を紐解きましょう。
伝書の本文で「十二字五意」とは、
一に、父母等しければ、子の成長急なり
二に、君臣直ければ、国豊かなり
三に、師弟相生すれば、諸芸長高し
四に、鉄石相剋して、火の出ずる事急なり
五に、晴嵐老木、紅葉散重て冷し
とあります。この段階が五つの位となります。

これは離れの位(品格)を表わしていると考えて善いでしょう。
同じ的中でも射の格により、離れも違って来る訳です。的中の確実さだけが修練の目的でない事が、この伝書の意味からもご理解戴けると思います。

その位の違いについて魚住文衛先生の解説を元に詳細解説すれば
父母:弓手(父)を中心にして、妻手(母)がこれに従い、左右(父母)が相協力して均等に引き分ければ、矢(子)は素直に、強く育ち、発する事が出来る。これは夫唱婦随で夫婦和合して、子を立派に育てる事と同じである。弓手・妻手が釣り合いが取れて左右のバランスが取れて放れる段階です。上下のバランス・弓力との関係・気合等との関係には至っていない。
これが、初歩の段階の放れの味わいとなります。序でに関連する教えが、四巻の書の「第二巻の歌知射の巻」の教歌に次のものが載せられたいます。
「剛は父 繋は母なり 矢は子なり 片思ひして 子は育つまじ」とあります。 意味は、弓手はお父さん、妻手はお母さん、その間にある矢は子供である。お父さんお母さんが片思いであると、善い子供(矢:射)は育たない。という意味です。
ここで剛とは弓手、繋(かけ)とは妻手であり・しかもかけを繋(つな)ぐと言う字を当てている事に注意をされたいと思います。これは弦と妻手の手の内はゆがけの枕を通して繋ぐだけであり、力を入れて弦や矢を握りしめてはいけない事を繋(つな)ぐと言う文字を使って「かけ」と詠ませてその極意を伝えている事です。
妻手を柔らかくと教えている訳です。弓手・妻手の間にある矢は、父母に育てられる子供であり、父母が仲良く夫々の役割を果たしながら、即ち弓手は妻手を思い、妻手は弓手を思い、互いに反対方向を気遣いながらの意味です。そして尚且つ父の立場からそして母の立場から子供をはぐくみ、それが有って初めて立派な子(矢)が育つと教えています。これにより「父母等しければ 子の成長急なり」の意味が理解出来て来ると思います。
君臣:君臣が相い助け合い政務をとれば、国も自ずから豊かになるの意味です。
君は弓・臣は身を表わします。弓力と身力の調和が取れ、縦横十文字の規矩(きく)が完成すれば、射形も豊かになるの意味を表わしています。弓と体が一つになる。即ち正しい矢束を取り、体に寸部の狂いもなく引き収めれば、弓の力を体全体で受け止める事が出来ると共に、胸の中筋からの張り合い(延び合い)も体全体で出来る事となる事を意味しています。
師弟:師弟が心合わせて修行すれば、弟子は必ず上達し、その武門の諸芸は長じ、高まり栄える。
師は弓、弟は身です。更に師弟の間の心の交流を言います。弓と体が一体になり、心がこれに加われば、中央の巻に示される「三合三心」であり「三位一体」となります。自分の骨法に最も自然は形で弓が納まる時に、弓の力は体全体に均等に掛かり、心を体の中心に納め、そこから左右に気を漲らせて行くと、そこに気合・気迫が生れ、射と体と心が一体になり、その中から気合・気迫に満ちた離れが生れる。
鉄石 :鉄と石が相打って火花が出る勢いである。これは軽妙で且つ鋭い矢が発せられないと実現出来ない。師弟の位で示した自分の骨法に対して左右が寸部の狂いがなく、又引き分けに於いて全く同じタイミングで引き収まり、気合が内面から外へ外へと満ちて行き、最後には弓手剛弱(手の内の剛弱)にて的芯に向かって伸びて行く中での離れが要求されます。妻手・肘力にて抱え惜しみ、やるまじきと保つ気持ちと、胸の割り轄(くさび)により胸の中筋から体の外へと順次力が流れて行き、自然の内に離れに至る境地です。左右に一瞬に離れる言葉に「梨割りの離れ」と言う教えがあります。
これは上に紹介したように寸部の狂いもない形に納まって、細部の骨法を詰め合い、その上で胸の真ん中に割り轄を打ち込むと、丁度熟した梨の様に包丁を入れた瞬間に左右にパチンと割れるような離れの意味となります。自然の離れを教える言葉に「雨露離」と言う言葉がありますが、これは芋の葉の上に雨露がのっていると考えます。一滴一滴が集まり玉を作ります。それらにより露玉は次第に大きく成っていきます。そして芋の葉が耐えられなくなると瞬間的にポロリと露が芋の葉から落ちます。そして芋の葉は何事に無かったかの如く元の侭の姿を保っています。
連続的に容積を増す雨露であり、極く自然に落ちるのです。こんな自然の離れは技に加えて延び合いの気力により生れます。気合がどんどんと掛かっている最中に生れる自然の離れです。これが雨露離です。
気合の掛かる中で、技も呼応します。この為に竹林流では、弓手が会までに延び切るのを嫌います。
猿臂(えんぴ)の射と言って弓手の肘に若干の余裕を持たせる事を重要視します。これは骨を一分残すとか、一文残すと表現することもありますが、会に入っての左右天地に延び合いその時にこの押し手肘も含めてどんどんと延びてゆき、押し手手の内親指の付け根が的芯の真ん中に延びながら離れて行くのです。
その余裕として肘の残しをしているのです。大三で押し手の肩から肘を真っ直ぐにして弓に押し込む姿を一番キライます。これは竹林流の特徴となりますが、その背景に三十三間堂の通し矢の低い弾道で遠くに矢を飛ばすと言う強くて勢いのある矢を生む為の技とも考えられます。
晴嵐老木:時代を経過した老木のように淡々と、また春の嵐の様に飄々とした風情であり、陽が西に傾き、雲が金色に輝く雄大な情景である。老木は枝が枯れても枯淡の味わいを示し、地面には晴嵐で散った紅葉の葉が錦のように敷き詰めて美しい。しかし樹々は風に関係なく微動だにせず整然としている。
的中に拘ることなく、朗々とした中で、ひたすら真実の弓を実現する努力を重ねている境地、否意識的に真実を求めようともしていないかもしれない。既にそれらの習いが全て身につき自然の形で為されており、淡々として心境で弓と遊んでいる風情かもしれない。
これらは、夫々の説明で分かるように離れの味わいを示したものです。

2)離れの位・的中の位とは

この様に離れの位(射格)を五段階に分けているのは、既に弓が戦闘の武器としての存在の時代から、自己の心身を鍛える弓道の時代を先読みしていたと思われます。静止した的に向かう自分の射を求める姿勢・心・射の構成について、厳しい修練の過程として考えていたと言う事でしょう。そこには射と言う技術的な側面と、射を通して人間としての境地を高めると言う仏教思想が結びついているのでしょう。
単なる左右のバランスによる父母の位の的中の段階、弓と体が一体になり人間の骨法を一番素直に纏め、それを弓に嵌めて的中を得る君臣の位の的中の段階、更に精密に体と弓が一体となった上で真理の為に妥協を許さないと言う心意気により永遠の延び合いを求めた精神性の発揮により、技を乗り切る師弟の位の段階、更には鉄石相剋して火の出ずること急なりの離れは、寸部の狂いも無いように弓が体に納まり、弓の力を体全体に平均に受けて、胸の中筋から肩・肘・手先へと体の中央から天地左右に向かってどんどんと延び合って、気合の発動と共に瞬間的に軽く・鋭く生れる離れの境地による的中を得る鉄石の位による段階です。その上に存在する晴嵐老木の位と、どこまで的中しても、的中の位を頭に入れるならば将に永遠の修行道としての弓道となります。

この様に十二字五意(位)で述べる離れの格は、同じ的中でも離れの味わいにより射格が異なる事を教えています。ここに単なる的中の弓道とは違う竹林流の伝統的な弓道の考え方があり、ご注意を戴きたいと思います。しかも四巻の書の書かれた室町時代に既にこの考え方があった事を注意されたいと思います。

3)「絹綾錦三段の事」と「十二字五意」の関係

十二字五意(位)は離れの格について述べていると説明しましたが、これを実現する為の射術の問題があります。これは魚住先生の教えにヒントを得た私の理解の仕方の範囲です。それについて参考となるものが、父母の巻にありますので、関連して説明をしておきましょう。それは、四巻の書・第四巻の「父母の巻」の「十一.絹綾錦三段の事」に伝えられている内容です。
これは「修学自師の位に至ては知る事なり」とのみ記述されているもので、口伝によらないと理解出来ない内容です。ここでは三段の事となっていますが、これに筵・布を加えて五段とも呼ばれています。これは弓と体そして精神の働きに関連するものですが、織物の経糸・緯糸の織り成す縦横の構成の精度の違いと、それによる内面の精神力の働きについて説明を加える事が出来るでしょう。併せて射技論からすれば、縦横十文字の組み合せ方でも、前面から見た十文字に止まらず、上から見た時の十文字のありかたも重要であり、それは縦線の充実による矢線と肩線が一層接近する事に拠り狙いの精度を挙げる効果に結びついていると思います。

これらは修行の段階に応じて、順序を追って、最初の筵の位から、布の位、絹の位、綾の位を経て、最後の錦の位に達することを示しています。非常に比喩的ですが、言い得て妙なると思いますので、少し詳細に説明をしましょう。
五段階は上記の通り「筵(むしろ)」「布」「絹」「綾(あや)」「錦(にしき)」です。織物に託して説明していると言う事は、緯糸と経糸を想像すれば良いでしょう。即ち縦横の構成について織物で説明をしているのです。これは別の解釈をとれば、弓・体・心の三位一体と、その結果の離れへの影響を説明することとなります。これらを魚住先生の講義内容に基づいて、私流の見解を織り交ぜて説明を加えよう。
筵は、縦横の重なり合いは非常に粗く、繊維も真っ直ぐにならず、凸凹も多い。
筵の上のお米も姿を消す位の凸凹があります。 師は細かな事を言わず、大きな射の課題だけを指摘する。即ち手先引きの状態で矢束も正しく取れていない為に体の骨法にも嵌まっていない。結局手先で弓の力を受けている段階でしょう。
的中も調子当りで、安定した的中も得られないでしょうし、離れも手先で合わせて放す段階です。従って師匠も全体の射技の課題が色々とあり、離れについての細かな事は言わず、基本の事を指摘されるのです。的中を目的としていない弓道であり、一見的中とは関係のない指摘に生徒は戸惑うかも知れません。
ここで師匠の教えを素直に聴いて修練する生徒は次の布の位にも上がることが出来ますが、的中の面白さにのめり込んでいる生徒には、師匠の指導の意味する内容が理解出来ず、指導された内容を練習に生かそうとしないでしょう。これでは何時までも筵の位にしかなれないでしょう。後の夫々の位の意味を理解すれば分かる通り、離れは手先によってのみ生れるものではなく、修練の度合いによって骨法で生れる離れになり、体全体で気合が働いて生れる段階と進む訳ですから、どんな離れであろうと的中に替りがないと考える生徒にとっては先生のおっしゃる意味が理解出来ないのは当然でしょう。ここに信頼するかしないかの分岐点があります。このレベルの射形にて的中を得て得意顔ではいけないのです。これは、縦横のバランスも極めて大まかであり、離れとの関連での矢束で考えるならば、弓の強さを手先で受けている為に、矢束も定まらず、単に手先でバランスを取って放す事となります。
矢束が自分の骨法にあったものではなく、恐らく矢束も1射1射違うでしょう。勿論大三の位置も違うであろうし、引き分けの左右バランスも違うであろうし、縦線の働きも殆どないレベルと言えるでしょう。
従って、そこでは合わせ離れしか生れないし、緩み離れも生れる結果ともなります。これは縦横の構成比率からすると、縦横がどうにか十文字になっているかなあと言う程度だと思います。即ち力の配分としては横の方が縦の力よりも大きいレベルではないでしょうか?
布の位になると外見的にも縦横の関係はしっかりとして来た段階をいいます。
イメージとして筵と布の縦横の組み合せを比較してみてください。
筵の縦横と比べれば、布の縦横の関係はずっと緻密であり、しっかりとしたものでしょう。しかし未だ形の縦横の組み合せであり、体まで完全に嵌まった完全な縦横の構成は出来ていません。即ち弓と体の十文字の段階でしかないのです。技術的には確かに縦横十文字が構成されているように見えるが、矢束で言えば多分未だ数ミリのバラツキが在るでしょう。会に入っても、単に縦横が合って弓の力を腕乃至は肩に受けており、内面からの離れの発動は生れません。その為に離れの発動は、外部からの別の力でタイミングを併せて放す必要があります。内面からの気力の発動は未だ効いていないのです。この段階では縦横が5:5で組み上がっている段階ではないでしょうか?
絹の段階になると、布に比べると絹独特の輝きが生れます。
布に比べれば縦の糸も横の糸も太さ・目方・色艶も揃っています。
縦横もしっかりとし、自分の骨法に合致した矢束が取れ、弓が体に嵌まり、その射手の骨法に適合した組み合せになり、弓と体は完全に一体になります。矢束の誤差もなく、ほぼ一定の矢束が取れているでしょう。それらは大三も正しく、引き分けも左右均等に出来ているという条件が必要でしょう。これらは弓構えから、打起し、受渡し(大三の作り方)、大三の形・肘の働き・力の方向、引き分けでの弦道、引き分けの左右のタイミング、引き納めまでが、布の位に比較すると一皮剥けた様に一段と全体的に向上しないと到達出来ない位になります。この段階では、弓が体の骨法に嵌まった状態であり、弓の力を体全体に均等に感じる事が出来るでしょう。
その為に、力は方円の器に従う水の圧力の如く体全体に均等に弓の力を受ける事になります。何処にも部分的に無理な形ではありません。それ故に、会において天地左右に同じ圧力で弓の力を押し返し延び合う事が可能になります。従って、心は総体の中央に置く事が出来る。 その上で胸の中筋から矢筋に沿って、体の中心から順次外の方へ力が流れ、永遠の延び合いを求める精神活動により、自ずから成る輝きが内面から放つのです。そして「気は技を制する」と言われる如く、技から気合を意識する段階にいたります。従って、息合いにあった射の運行が課題になる段階でもあります。それらの後で、軽く鋭い離れを誘発する段階に育っていきます。これにより、弓・体・心が一体となり、「気が弓や体に合う。即ち気合いが見られる段階」に至る。それ故に、布の位では得られなかった、内面からの気合の発動が感じられ、自然の発を生む母体が出来上がり、的中を得たいと言うよりも、全身を理想的に骨法により組み合せ、更に精神作用により小手先の釣り合いによる的中とは次元の異なる離れを期待する段階となります。正射を求め、表面的な的中のみを求める射と違う故に射品・射格が顕れる事となるのでしょう。それが絹の内面からの輝きだと思います。全身の離れ・骨法に忠実な離れとなるのはこの為です。この段階では、縦線主導で横線が構成されている段階ではないでしょうか?
綾の位は、絹の位が気合の段階ならば、綾の位は気迫の段階と呼べよう。
この位においては、自分の持って生れた骨法に素直に且つ完全に嵌まり(縦横斜め前後左右の全身)、打起し、受渡し、大三も正しい位置にあり、又弓と体とが一体になり、縦線及び背筋も肩甲骨・肩の鎖骨の関連・押し手肘を経由して押し手手の内、又妻手の肘の位置・力の方向なども縦線の構成と共に、次の引き分けに備えて最も合理的に出来上がり、引き分けも押し手の先導により、左右均等に縦線を中心に運行され、骨法に合った位置に妻手肘も納まり、自然に胸が弓の中に割り込み、詰合を経て延合に至り、気合がどんどんと掛かって行き、鋭く且つ軽妙な離れが自然に具わるであろう。この段階は上記に書いた如く、気合即ち射(技)と気が合うと言う段階から、一歩抜け出し気が技を制御して精神的にも大変に高度な一体感を生むであろう。絹の位が縦横の割合が5:5ならば、綾の位は縦横の割合は6:4位のイメージではないでしょうか?
縦が主導して射が構成されて行くから、会においても縦線の延びが中心になって、体全体の縦横十文字も会に入って一層緊密になり、弓と体と心が一体に成った上で更に、縦の働きにより一層しっかりとした縦横の関係を構成するといえるだろう。丁度上から見ると、縦線の充実により、肩線と矢がどんどんと近づいてゆき弓・体・心が寸部のスキもなく、一体になって働き、尚且つ精神力が主導で働きかける結果であろう。骨法に嵌まって矢束と、精神的な営みの中で気合の段階から気迫の段階に入る。
従って、人をして感動させ得る離れを現出する。
射技と精神性の力の配分から、気合・気迫の離れを感じるレベルでしょう。錦の位では、縦糸も横糸も金糸・銀糸で燦然と輝き、縦横の構成ともに理想的
な組み合せとなり、それでいて自然な風情でどこにも力味はなく、自然な
気品を持つ最高の位となる。射技と精神性の関係ではすべてが自然の形に
組み上がり、全体の調和が極く自然な一体感を持っている段階でしょう
か?

(私は、織物についての知識が乏しく、特に綾と錦についての説明が旨く出来ない為にパソコンネットワークを通して意見を求めましたら、次の様に指摘下さった方があり、その内容をご紹介しましょう。
情報提供者は三重県久居市の中村素彦氏です。
1. 筵は、材料が藺・蒲・藁・竹などで織られていて、髭が出ているのも有るだろうし、肌触りも少々悪く織り目も荒い印象の織物。
2. 布は、麻・葛などの繊維で織ったもので筵に比べ髭も出てなく洗練されてはきているが見た目は少しざらざらした感触の織物。
3. 絹は、蚕の繭からとった繊維で布より更に手触りが滑らかとなってきて肌触りも良く、見た目にも、綺麗な印象を与える織物。
4. 綾は、斜めに交差した模様も加わり、絹に比べがっしりとしたゆるぎない印象を見ている方に与える織物。
5. 錦は、金銀糸や種々の絵緯を用いて華麗な文様を織り出した文織物で、綾に加え、更に見ている方に貴重・豪華・華麗・重厚な印象を与えるような最高級の織物。)

この様に「織物」に比喩した表現による教えにより、上の十二字五位の離れを構成するというか、生み出す縦横十文字の格の違いが裏面に在る事を考えて戴きたいと思います。弓が体に正確に嵌まっているかどうか、それにより精神活動がどの様に働き得るかの違いとなってきます。其の意味では、矢束が本当に骨法に適ったその人に取って只一点の所にまで、完成させているかどうかに掛かって来る。高段になるに従い、矢束が自分に取っては只一点だけであり、そのたった1mmの長い短いでも弓が体に本当に嵌まった感じは得られなく、離れの濁りを自分で認識することが出来る様になります。
その為の大三の位置と力の働きであり、引き分けの方向・バランスであり、引き収めが左右全く同時に納まる引き分けの運行の重要性があり、力の停滞がなく引き分けの延長上に会の延び合い・離れが在るという力の連続的で繋がる力の働きが発揮されるのを確認することが出来ます。

その中での気力・気合・気迫が離れに現れる為に、離れの品格となって現出するであろうと思います。ここに十二字五意(位)に関連して、この絹・綾・錦の三段の教えが重要な内容を持つ事を感じて、ここで敢えて説明を施しました。

これらの原理を知らないで、先生達の言われる軽い離れ・軽妙な離れを求めて議論している弓射きを見掛けますが、軽い・軽妙な離れと言うのは決して手先の力を言えないとか、手の内が柔らかいとかの問題だけではない事を理解する事が重要であると思います。軽い離れが生れる技術要素が伝書の中にこの様に記載されているのです。

06.「金体 白色 西半月の位なり」について


次に射法訓では、「鉄石相剋して火の出ること急なり」の後、即ちと言う言葉に続いて「金体白色西半月の位なり」と言い換えている。この意味は何でしょう?何故即ちと言い換えているのでしょう。この部分は離れの後の雄大な残心の姿が表現されています。
上の説明でも示した通り、鉄石相剋して火の出ること急なりの段階とは、少なくとも「絹」「綾」「錦」の位でしょう。そしてその後、即ちと言い換えているのです。そしてその後に「金体白色 西半月の位なり。」と結んでいます。この言い換えにも意味があります。
「金体白色 西半月」とは、四巻の書の中央の巻の「第十四 五輪砕と言う事これあり」の項から来ています。その五輪砕には深い意味があり、仏教思想から来ています。

1)「中央の巻 十四 五輪砕と言う事」について

中央の巻 「十四.五輪砕と言う事」の章では、次の様に書かれています。
一に、土体・黄色・中四角と言う事。是は、先ず足踏みを大地の如く踏みて、
さて中四角とは胸骨・肩の骨ひづみなき様にと言う事なり。
二に、水体・黒色・北・円形と言うは、水の器に随ふ如くに、弓の中へ真ん丸に割り込み、 さて弱き所へ強き筋骨を水の流れる如くに引き込み、さて離は露などの落ちる如くに真ん丸にとつとつと離るる事ぞ。口伝莫大なり。
三に、木体・青色・東・團形、是れ右の丸き大体を覚えて、さて春に至って、草木の枝栄へ花の咲く如くに拳なり・懸なり・顔持を直(ただ)すべきなり。
四に、火体・赤色・南・三角。是れは右の花咲き美しい事を為しつくして、さて実のなる如くに、弓をも三角にとり、五体をも相生に構え、剛をあらせて石火の出る如くにし、弦煙を立て離る事なり。
五に、金体・白色・西・半月。是れは、右の段々を仕尽くして、弓手も馬手も三日月なりに先枯になし、さていかにも能(よ)き刃金を能く鍛えて、剛くはじかく、晴(さ)へて軽き刃金などを、打ち折る如くに離る。口伝莫大なりと言う。

略して 土体 黄色 中 四角
水体 黒色 北 円形
木体 青色 東 團形
火体 赤色 南 三角
金体 白色 西 半月 です。
ここで五番目に「金体・白色・西・半月」の言葉が出てきます。
この五輪砕きの思想を説明するのは大変な事ですが、非常に大切な考え方でありますので、説明を試みたいと思います。難しい思想でありますが、ご辛抱戴きたいと思います。五輪塔・武家社会の中での国教としての仏教・その中にある宮本武蔵の五輪の書を紹介しました。そうです文字通り仏教の話に入らないとこの説明が出来ないのです。

2)五輪砕の思想

竹林流の流祖は、前記の様に真言宗に帰依した竹林坊如成です。
従って、竹林流の射技・弓道思想を伝える流派の伝書の「四巻の書」には、真言宗の経典からの言葉を多用しています。仏教の経典の中の言葉により、その理念や思想を仮託して表現しているとも考える事が出来ます。上の五輪砕の事があると言う教義も、いきなり土体黄色中四角から始まります。土体とは黄色とは中とは四角とはと疑問の連続です。それだけに伝書の中身が現代に生活し宗教が日常から遊離した私達には理解することが難しいのです。五輪と言えば、オリンピックを連想されるかも知れませんが、武道の話であり日本の話ですから、そこに焦点を合わせると、皆さんには墓所にある「五輪塔」を思い出され、又剣道における宮本武蔵の極秘書である「五輪の書」を連想されると思います。武家時代は仏教が国教として位置づけにあり、国民も含めて何れかの寺院に檀家として所属する事が義務付けられた時代です。仏教思想は当時では常識の時代であり、五輪砕・五輪の書として仏教思想を背景とした表現が現れる次第です。では五輪砕きとは何を教えているのでしょうか?

07.仏教の五輪思想と古代インド思想の五大思想について


残念ながら、いきなり五輪思想から説明を加える事は出来ません。
古代インド思想の五大思想の流れから説明をしなければなりません。
古代インド哲学の五大思想とは、この宇宙を構成しているのは五つの元素によると言う考え方です。仏教の五輪思想は、その五つの元素にそれらを司る仏・如来を貼り付けた考え方です。しかも真言密教の考え方です。これでも分かるとおり仏教の五輪思想は、それ以前にある古代インド哲学の五大思想の上に在り、その思想を受け継いでいると考える事が出来ます。この関連を述べると共に、元になっている古代インド哲学の中の五大思想から説明する必要があります。その前に仏教自体が、古代インド哲学の大きな流れの中に在る事を理解しておいて下さい。例えば、五輪思想だけではなく、輪廻転生の思想や、瞑想およびヨーガの具体的な方法や、梵我一如の思想等は、仏教独自の思想ではなく、古代インド哲学の中に既にある思想だという事です。即ち仏教思想を紐解く為には、どうしても古代インド哲学の大きな流れを理解しなければならないと言う事です。

1)古代インド哲学の流れ

古代インド哲学は、紀元前1500年に溯ります。釈迦が生れたのが紀元前5世紀ですから、それよりも1000年も前から既にそれらの思想は胎動していました。古代インド哲学の歴史は、次の6つに区分する事が一般的です。
第一期 紀元前2500年ー1500年 インダス文明の時代
第二期 紀元前1500年―500年 バラモン中心主義の時代
第三期 紀元前 500年―後600年 仏教などの非バラモンの時代
第四期 紀元 600年―1200年 ヒンドウイズム興隆の時代
第五期 紀元 1200年―1800年 イスラーム支配下ヒンドウイズム時代
第六期 紀元 1800年以降 ヒンドウイズム復興の時代
ここで思想史として問題となるのは、第二期以降になります。

第一期は、哲学と呼ばれるようなものは無かったと思われています。
第二期の前半には、神への賛歌集を編纂した「リグ・ヴェーダ」があります。
これはインドの哲学的思索の萌芽とも言うべきものです。
第二期の後半に入ると「ウパニシャッド(奥義書)」が出現して、爾来インドの哲学的基盤となります。ウパニシャッドは、自己(個我:アートマン)と宇宙の根本原理(ブラフマン)とが同一で在る事を明言します。仏教でも出て来る「梵我一如」の思想です。ここにインド哲学の基本テーマが確立します。
第三期では、バラモンによる専制とその思想に反動する動きが始まります。
仏教の開祖である仏陀やジャイナ教の開祖マハーヴィラ等の非バラモン的勢力を代表する人達が活躍します。仏陀は、バラモン達の聖典であるヴェーダの権威を認めず、ウパニシャッドが主張した宇宙原理の実在を認めようとしなかった。仏陀及びその弟子達はウパニシャッドと同じ様に自己と宇宙の同一性を主張しなかったが、別の方法で「自己と宇宙の本来的同一性の経験」を追究しました。仏陀の教説の代表的なものは縁起説であり、この教説は仏陀以前のウパニシャッドの説と対照を成しており、仏陀の教説の特徴を善く表わしていると言われます。しかし仏陀の滅後1―2世紀を経るとその縁起説にも変化が起こります。つまりその後の縁起説は仏陀の時よりもバラモン系の思想に引き寄せられた形となっていきます。この様にして結果的には、仏教も大きなバラモンを中心とした古代インド哲学の影響を受けて思想展開がされて行きます。
これだけを前提として理解すると善いでしょう。
この様に私は仏教思想を考える時に、リグ・ヴェーダおよびウパニシャッドの中で古代インド哲学が求めてきた課題及び思索の結論が、如何にその後の東洋思想に大きな影響を与えているかを考える時に、殆ど原点に近いものを感じます。仏教思想も当然この古代インド哲学から大きな影響を受けており、真理として共通の思想基盤を与えている大変に重要な部分だと考えます。

2)「梵我一如」の自然と人間の関わりについての考え方

宇宙の構造や構成要素を考えたのは古代社会の中では、インドだけでなく、エジプトでも、ギリシャでも考えています。そして古代インド哲学の中のリグ・ヴェ−ダ−では、自然の力をそれを動かす神の存在と考えて、神への賛歌が纏められます。

紀元前9世紀から紀元前7世紀頃の古代インドに於いては、人々は時として姿・形の定かでない神神が織り成すおびただしい数の宇宙のエネルギーに目を向けます。現象界の背後に在るものに注意を払い不可知(人間が知る事が出来ない)・不可視(人間の目では見る事の出来ない)の実在を求めようとします。それらの探求の努力の跡は、ブラーフマナ文献と呼ばれるものから伺い知る事が出来ます。深淵な哲学的な思索と深い洞察と鋭い感受性で築き上げた世界観・人生観と言う事が出来ます。
これらはバラモンの専門の教育と訓練を受けた「詩聖達」によるもので、彼等は祭式の規則やその解釈を説いています。祭祀の意味についての具体的で詳細な伝承であり、祭祀で歌唱される賛歌または祭詞についての由来・価値・意味・目的・効果などについて細かく伝承しています。また祭式で人が密接に関連を持つ自然や、人間界の色々な事象に深い洞察を進めます。これは同時に供犠の研究やテキストの伝承などヴェーダの流れが中心になっています。
正しい祭式の時刻を決める為に、暦や天文学の知識が必要であり、祭壇の設計・構築には幾何学や数学の知識も必要でした。正確な発声と語法に対する必須の条件として音声学・文法・韻律・語彙等の研究も進んでいました。またアタルヴァ・ヴェーダに見られるように治病・息災の呪詞や穢れや穢れの原因である魔神又は存在の浄化を目的とした呪詞や、疾病・医薬などについての研究も進みました。
バラモンの求めた対象は、実用的効果を求めたものであり、知的満足への要求ではなかったのです。これはギリシャ文化の学問の為の学問、理論の為の理論として出発して後世の自然科学として発展した経緯とは大きな違いとなっています。
この時代に既に、大宇宙または大自然の摂理としての梵(ブラフマン)を感知しています。万物の本源への模索がこの時期に既に芽生えているのです。

紀元前6世紀頃には、全インド思想の基盤となり出発点となった最古の文献の一つで在るウパニシャッドが出現したのです。前の時代のヴェーダに根差したヴェーダ・ウパニシャッドの思索では、多様な現象界が一つの統一体として把握する唯一・独存の原理を追究する傾向を強くし、唯一の立場・唯一の形態を思索するのです。ここに梵を唯一とする見解を得るのです。そして人間の個体としてその肉体及び精神を司り・制御するものとして個我(アートマン)なるものを定義し、その個我と梵が同一のメカニズムにより制御されており一致していると結論つけているのです。この様に仏教で言われる「梵我一如」の思想に加えて、業(カルマ)、輪廻、更には解脱などの教理の基礎が紀元前6世紀の釈迦の生れる以前の時代に確立しれいます。

個我については、ブリハド・アーラニヤカ・ウパニシャッドの中にこんな詩文があります。「人が死ねと、その言葉は火に帰入し、息は風に、眼は太陽に、意は月に、耳は方位に、肉体は地に、霊魂は虚空に、毛は草に、髪は木に帰入し、血と精液は水の中に収められる。」
この様にして、人間の体も大自然の一部と考えて、大宇宙(大自然)と小宇宙(個我)との同質性を歌い上げているのです。これは、大宇宙即ち大自然である「梵」と小宇宙である個我である「我」が、同質すなわち一つの如し「一如」の思想です。この「梵我一如」という基本的な思想が、その後のインド思想の主要なテーマとして確立されるのです。

また「輪廻の思想」は、自然界における太陽の光りの強い弱いの変化・月の満ち欠け・季節の変化・移り変わりなど、また動物の生と死、植物の生と死、における如く周期的な生と滅の繰り返しの観察の中から、自然には消滅は無く循環のみがあるという思想が確信され、これが輪廻の思想になっています。
併せて、それらはこの世において大自然の摂理と同様に、自分自身を支配する力が存在し、それが人間に対して苦を惹き起こしていると考え、それらの力は一旦発動するや避けても避けられない自然の力として発揮するが為に、人間界の苦を治めて貰う為に犠えの思想を生み、それの為の儀式を生みます。

この輪廻の思想の発端・発生は、多分に植物的な見方が強いと思われます。動物の生滅の中でも考えられる思想ではありますが、特に人間の立場から考えると身近にあって、しかも生滅のサイクルの短い植物からは一層明確に、生命の循環の思想を学んだと言う事が言えそうです。輪廻の思想は、これらの植物・動物の生滅の営みと、これら自然界と人間界が同じ摂理に制御されているという考え方の上で成り立っています。

そしてさらに「人は自分が作る世界に生じる」すなわち自分があるのはその元にそれを作る営みが在ると言う、原因―結果との因果関係と言う考え方を生み、「人は混じり気の無い・純粋な・善い・気高い善業により善となり、邪な・不純な・悲惨な・憐れむべき悪業により悪となる」という思想を生み出しています。即ち、「法(dharma)」と「方正な行状・善行(acara)」の教えが、業と輪廻の教義と密接に結びついています。これは「自律」と「規範」と「連帯感」の思想であり、インド思想の文化的な思想となっていきます。
「法」とは、自然界の出来事・社会制度・身に定まった行為など、全てが何時・如何なる時にも基準として従っている「太古からの規範」あるいは「永遠の法則」の結果として認識をしています。そしてプリハド・アーランヤカ・ウパニシャッドでは「バラモンは、ヴェーダの学習により、祭祀により、布施により、苦行により、断食により、アートマンを知らんと欲す」と表わして、これが修行・ヨーガの思想を生み出しています。

この様に、原因と結果の「因果説」がうまれ、「自律性」を求める倫理が育ち、更には輪廻転生を前提とした「解脱」の考え方や、それに必要な「施し」の思想を生み、「苦行による修行」のヨーガの思想を生む基盤を提起しています。これらはすべて、仏教が生れる以前に確立されている概念・哲学であり、それ故にウパニシャッドがインド思想全体に非常に大きな影響を与えていると評価されている原因です。

3)五つの元素の思想―五大思想について

上記の様に、古代インドにおいては宇宙(自然)と人間の関わり合いについて継続的に哲学的思索が続いています。そしてそれは現代においても同じ課題が思索され続けています。紀元前6世紀の頃に発見された宇宙と人間が同じ摂理の元で制御されているという「梵我一如」の思想の上に、その宇宙を構成しているのは『五つの元素』であると言う宇宙観(自然観)を生み、自然を構成している『地・水・火・風・空』の五つの要素と定義し五大思想となり、その後更に理論展開され深い思想として発展していきます。これが形になったのが「五輪塔」であり、「五輪砕」の根底思想となります。

五大思想は、古代インドにおいて、紀元前4世紀頃から考え始められた思想であり、インド思想史の中で、『宇宙におけるアハンカ−ラ(Ahamkara:我の作者・我執)』あるいは『ブ−タア−デイ(Bhutadi):五大元素の源』という考え方がそれであり、インド思想全般にわたる極めて重要な思想です。
それを歴史的経緯の中で辿ってみると次の様になります。

マハ−バ−ラタ(Mahabharata)とこれに続くプラ−ナ(Purana)文献は、ほぼ紀元前4世紀ころバラモンたちに主導されて、バラモンとヴェ−ダの権威を認める一切を含むインド教(Hinduism)が華々しく開花しました。マハ−バ−ラタの哲学説では、すべて自然界に存在するものは、五種の元素(虚空 akasa-動的で無限の実体的原理と、大気あるいは風・火・水・地)の組み合わせから成っていたことを示しています。五種の元素は、この機能のため『五大』と呼ばれ、『粗大(sthela)』であり、それぞれの『極微の質』すなわち声・触・形あるいは色・味・香と関連付けられています。マハ−バ−ラタでは、感ずる器官とは何かが明確にはされていなくて、ある時は作用を、ある時は器官そのもを指しており、両者の間は何等区別されていませんでした。

仏教で五輪思想とか五大思想と言われますが、実は仏教の理論的な確立以前のバラモンによる古期ウパニシャッドの時代に既に宇宙の構成要素としての五つの元素の考え方を持っていたのです。そして、この宇宙の構成要素の五つの最も小さな物としての五元素に、思想や役割や守護する仏や如来などを関連付けるのは密教の時代になりまるが、ジャイナ教・仏教・小乗仏教・大乗仏教・第二期のウパニシャッドの時代の中でも五大の理論展開が成されますが、その次の古典サーンキャの時代になって一層専門的な理論的な追究がなされます。この古典サーンキャの動きは大変に重要です。仏教のみでなく他のインド哲学全般に対して理論的な根拠を与え、夫々の宗教・思索に対して共通の基盤を与えたと言えるからです。仏教もここに多くの理論の導入をしています。

小乗仏教から大乗仏教に発展していくに従い、釈迦が悟った真理も次第に理論化されていきますが、古典サーンキャは従来のリグ・ヴェーダやウパニシャッド等の古代インド思想共通の基盤に対する理論的な思索を加え、それらが各宗派に認められるに従い、一層理論展開を深くして行き、結果的には古代インド哲学全般に亙る理論展開が進み、その中で仏教理念の理論化も進みます。その意味で古典サーンキャの梵我一如や五大思想等への理論的な説明付けは重要な意味を持って来ます。

4)バラモン六派とサーンキャの世界構造論

次に仏教思想を初めとして古代インド哲学全般に亙りに大きな影響を与えたサーンキャ学派についての補足説明をしたいと思います。
と言いましても仏教学者でも何でも無い私ですので、どの程度説明しきれるか確かな自信はありませんが、私自身が仏教思想を追い掛けている間に、仏教について持っていた色々な誤解、例えば仏教と一口に言っても「釈迦仏教」「阿弥陀仏教」「大日仏教」の違いが在るとか、夫々の教理の違いまたは共通点をどのように理解すべきか、仏教の寺院に何故バラモンの神があるか等などの疑問に接し、それらの背景が古代インド哲学全体の枠組みの理解であったり、全体に対する理論的な方向を与えた古典サーンキャ学派の大きな影響力を無視出来ないと考えて来たからです。しかし何分にも専門外の趣味の範囲の私故に、思い違いの部分もあるかと思いますが、それらについてはご教授戴けると幸いです。以下は立川武蔵のインド哲学(講談社現代新書)とJゴンダのインド思想史(中公文庫)から紹介させて頂きます。

サーンキャ学派は、西暦1世紀ころからバラモンの哲学者達の間で哲学諸学派の形成の動きが盛んになり、西暦4世紀末から5世紀に掛けてバラモン正統派の諸哲学の大系整備が進みます。これらはサーンキャ、ヨーガ、ヴェーダーンタ、ミーマーンサー、ニヤーヤ、ヴァイシェーシカの所謂「インド六派哲学」と呼ばれるものです。今日私達がインド哲学と呼んでいる形態の実質的な基礎はこのインド六派から出発していると言える程です。この時期のバラモン哲学の主要関心事は「世界の構造」であり、この時期に活躍していたアビダルマ仏教哲学者達の関心事と一致していました。
サーンキャ哲学は、ヨーガ学派に理論的基礎を与え、行法を重視するヨーガ学派を支える役目を持ちます。ヴェーダーンタとミーマーンサーは哲学的には異なった考え方を持っていますが、ヴェーダの伝統を重んじる共通点を持っています。ニヤーヤとヴァイシェーシカは、前者が論理学派で、後者は自然哲学を発展させた学派ですが、両者は姉妹学派であり、11―12世紀以降は統合されて一つの綜合学派となります。

この六派の原因と結果の関係は、相異なる二つの考え方がありました。前者三学派が「原因はそれ自体の中に結果を持っている」(因中有果論)と、後者三学派が「原因はそれ自体の中に結果を持っていない」(因中無果論)と呼ばれます。

サーンキャが因中有果論の代表になりますが、この立場では「不滅のものが過去・現在・未来を通して存在しており、或る物が生じるとは、その不滅の物が顕現した状態に入る事であり、或る物が滅するとはその不滅の物が未顕現の状態に入る」という考え方です。従ってこの考え方では、厳密な意味では何も生じないし、何も滅しない。物が生じたり滅したりするように見えるのは、それは一つの不滅の素材の様態の変化に過ぎないと考えるのです。
サーンキャ哲学では、この不滅のものは「原質(プラクリテイ)と呼ばれる根本物質であり、この物質が原因と結果の関係に基づいて時間の中で展開することにより、この現象世界(現実の世界)が形成されると考えます。
サーンキャ学派の出発は紀元前350年頃から250年頃の人と言われるカピラと言う哲学者です。ウパニシャッドの時代の後、宇宙の根本原理と世界の問題には色々な学派が取組んできました。紀元前500年頃から西暦600年の頃に入ると自然に関する認識の発達と伴い、世界の成立と構造に関する統一的な知識体系が求められるようになりました。その中でサーンキャは因中有果論に基づく展開説を発展させ、前記の様に「原質」と呼ばれる根本物質が自己展開してこの現象世界を生むと主張し、原質の他に霊我(プルシャ)と言う原理を打ち立て、この原理は原質の自己展開を見守るのみであり、自らは宇宙想像には関与しないと言う立場を取ります。これは世界の素材としての自然と、精神としての霊我を分離すると言う二元論の立場です。そして「聖なる物」と「俗なる物」の区別を求め、この現象世界は「否定されるべき俗なるもの」であり、霊我は「俗なるもの」を否定して顕現されるべき「聖なるもの」であった。しかし現象世界が根本物質の自己展開と考える点ではウパニシャッドの伝統を受け継ぐものであった。
サーンキャ派と言う呼び名は、「サーンキャ頌(Sankhya-karika)」の作者のイーシェヴァラクリシェナ(Isvarakisna)が古くからの思想を基に、当時の体裁に倣って時節を確定した特徴的な形式に由来していると言われます。彼は、簡潔な行文を用い、古くからの種々の装飾部分や夾雑物を取り除き最も簡素な且つ本論に肉迫し、教訓的詩編の形で、無神論的サーンキャ説を樹立しました。これが西暦3―4世紀と言われます。(これが西暦6世紀頃に漢訳されて中国・日本に至っています。)

この様に世界成立・構造論の取組みにより理論整備をして、しかも理論的構造についてのその後の展開もサーンキャに対する批判の形で進み、サーンキャを無視してインド哲学の世界成立・構造論は有り得ないと言えます。

サーンキャの二元論に対して、ヴェーダーンタ学派は一元論の立場を守ります。ブラフマンと現象世界と言う二つのものを統一体として理解します。ウパニシャッドにおいては、ブラフマンは現象世界の原因であり、この現象世界は結果であり、しかもその現象世界はブラフマンであると定義して考えて来ました。この命題に対してサーンキャ学派は精神(霊我)と根本物質とを切り離す事によりこの問いに答えようとし、ヴェーダーンタ学派はウパニシャッドの精神をその侭引き継いで理論展開しています。ヴェーダーンタ学派の基礎は、紀元前1世紀のバーダヤラーヤナによって築かれたと推定されています。ウパニシャッドの聖典の編纂が一応終わった後、聖典の語句に統一的な解釈を下そうと努める人達の一人でした。そして当初はブラフマンと世界は統一体であり、この現象世界は「否定されるべき俗なるもの」ではなかったが、時代が下がったヴェーダーンタの哲学者達には、現象世界はすでに「汚れ」とものとの認識が一般化し、自己とそれにつながる世界の聖化・浄化が意識に登り始めていた。
そして西暦400年から450年頃に「ブラフマ・スートラ」と言う根本経典を作り上げました。これは宇宙原理ブラフマンと個我アートマンとが、異なるものであることを出発点として設定した上で、究極的には両者が同一であると弁証しよとするものでした。内容としては、サーンキャ学派からの批判に対する回答、サーンキャ・ヴァイシェ―シカ・仏教・ジャイナ教等の学説に対する批判、世界の成立過程を論じブラフマンから空―風―火―水―地と言う順序で世界構成要素が生ずる事を説きます。そして輪廻・個我(アートマン)と最高我(ブラフマン)との関係、念想・修道論、念想の実修法と善悪の業と解脱の関係、知者の死後の世界、解脱論等で構成されています。
これらを見ると仏教と共通の課題をバラモン六派でも扱っている事を理解する事が出来ます。この「ブラフマ・スートラ」にはその後数多くの注釈が加えられ、現存する最古のものはシャンカラによる注釈と言われます。彼は8世紀前半の人で、インド最大の哲学者と謂れヴェーダーンタ哲学を代表する人物です。この時代は、仏教やジャイナ教の非バラモンの哲学は世界構造論・認識論・論理学等の体系をこの時代迄に完成させており、正統バラモンの六派哲学も夫々の体系を一応成立させていました。
この当時のインドはグプタ王朝が崩壊し、数多くの王朝が乱立する時期で政治的にも世相も混乱していた時代でした。この様な時代の中でシャンカラは、仏教哲学等の先行する哲学体系から吸収出来る所は吸収し、ブラフマンと現象世界と解脱に関すると言う統一的理論を打ち出します。シャンカラは、「ブラフマ・スートラ」に依拠しながらも、其処にはない又は明白でない部分の幾つかの考え方を展開しました。
シャンカラは2種類のブラフマン即ち「最高の」(パラマ)ブラフマンと、それ以外の「低次の」(アパラ)ブラフマンとを区別します。前者は究極的実在で在り、部分を持たず、不変化で、永遠であり、いかなる属性をも持っていない。後者は属性をもっており、形態・差別などを持って世界を顕現させる。この様にシャンカラは、ウパニシャッド以来の伝統に従いつつ、ブラフマンがアートマンと同一であると考えたのです。その上で現実の経験世界にあっては、アパラ・ブラフマンが無数の個我となって現れるが、これは無明によるものだと主張します。この様に非常に仏教からも多くの影響を受けており「仮面の仏教徒」とも呼ばれています。

この様に古代インド哲学の流れを見ると、バラモン・非バラモンが互いに渾然一体ともいえるような複雑な絡みを見せながら、思想展開されて行きます。
そして仏教その他の非バラモンの宗教も、リグ・ヴェーダやウパニシャッドからの古代インド哲学の上に展開されている思想であり、バラモン六派のサーンキャやヴェーダーンタ等と影響し合いながら、仏教思想も固まっていったのです。

5)仏教思想の発展

仏教思想の発展の経緯については、普通三つの時期に区別されます。
第一期は釈迦による原始仏教の時代であり、第二期は西暦初頭までのもっぱら個人の解脱を目標とする純粋の小乗(himayana)の時代です。第三期は大乗の時代です。これらは順次に来たものではなく、宇宙真理・人間の真理の理解の仕方の違いであり、解脱の求め方の違いであり、一部並行して進んで来ました。

小乗の考え方の時代には、仏教の教義を厳密に確定し、また宗教的実践の方法や僧団運営上の様々な問題を制度化し、教理体系を整備し確立する動きを取っています。丁度この時期は、仏教のライバルである「バラモン主義インド教」の内部で起こった同様の動きに対応した動きと理解されています。

大乗は、西暦紀元の初め頃に、北方系仏教として登場します。インドの遥か北西部でその当時はこの半島中部では別の勢力が優勢であり、そこに居住していた異国出身出身の王カニシカ(Kaniska:西暦紀元1世紀末)の庇護を受けて発展し、幾世紀かの後にチベット・中国・日本などに広がりました。

特に理論的な整備については、大乗仏教はそれ以前の各時代の折り重なった思想を引き続き持ちながら、世親(Vasubandhu :西暦4世紀頃)と言う人物から始まると言われます。世親は最初小乗を信じ、その著「阿毘達磨倶舎論」で仏教思想の解明をしたいます。それは西暦1世紀頃に成立したといわれる「大毘婆沙論」という阿毘達磨文献への膨大な注釈書の議論を新たな立場から整理した著書と言われています。そしてその後 世親は、大乗に転じ兄無著(Asanga)と共にこの教派の優位を基礎付けたと言われます。

何れにしても小乗にせよ、大乗にせよ仏教全般が追い求めている思想は、
1) 一切は一刹那のみ現存する
2) 一切は無常である
3) 一切は自相(単一・個・独一)を持つものである
4) 一切は空であると言う思想であると言われています。
これを共通課題として理解しながら、細部を比較していくと仏教諸派の関連も理解出来る事でしょう。

では仏教の思想についてもう少し深く掘り下げてみましょう。
釈迦の生れた紀元前5世紀頃は、アーリア人種がインド東部に進出し、先住民との混血が進み、ヴェーダを中心とするアーリア人の文化を形成します。国土は肥沃であり、農産物も豊かで商工業も盛んになり、強大な経済力と政治力を持つ諸国家が勢力を競い合うようになり、思想・宗教的側面においても従来のヴェーダ至上主義が通用しなくなり、この様な下地の上で非バラモンの哲学や宗教が育って行きます。仏教は将にこの様な新興勢力の一派です。
仏教の開祖のブッダの考え方はざん新なもので、宇宙原理ブラフマンと個我アートマンとの相応において世界を見ると言う伝統的な方法ではなく、自己とその周囲世界との考察から始めました。即ちブッダはウパニシャッドの時代から今日に至るまでおおむね宇宙原理の実在性を認めたが、ブッダは自己の心身つまり自己の周囲の世界意外は認めなかった。ブッダに取っては、自我とは一体何かと言う問いであった。そしてその心身は五つの構成要素(五蘊:ごおん)すなわち物質(色)・感受(受)・単純観念(想)・意欲や心的慣性(行)および認識(識)によって成り立つと考えました。そもそも我々が宇宙の根本原理の考察に関わる必要はないのだと主張します。世界が有限か無限かも我々には差し迫った問題ではない。この苦しみの輪廻の世界から開放される事こそ問題であり、その為にはその様な根本原因についての形而上学的議論よりも、我々の実践によって悟りの智慧を得る事が重要である。ブッダが目指したのは悟りの智慧であり無明からの目覚めでした。ブラフマンと自己との同一性の体験ではなく、縁起を理解し、実践することでした。
その中からブッダの十二(支)縁起説が確立されます。それらは、
無明: 無知・正しい知の欠如
行: 行為エネルギーの慣性、世界を形成する力
識: 認識内容およびその作用
名色: 精神と物質、心と身
六処: 心作用の場、眼・耳・鼻・舌・身・意
触: 感官と対象の接触
受: 感受、好悪の感じ
愛: 渇愛、最も基本的な煩悩
取: 執着、行為「業」の条件
有: 人間の生存の基底、業により形成された総体
生: 生れる事。生れかわる苦しみとも解釈される。
老死: 個体に与えられた時間の終わり

第十二項の原因は第十一であり、第十一の原因は第十項である。
従って最後には第一項の無明の止滅によって第二項が止滅し、全世界が止滅する事になる。無明の止滅は悟りに他ならない。この悟りこそ人々を輪廻から開放すると考えたのです。つまり十二縁起の全ての項は、悟りを得る為に否定されるべき「俗なるもの」である。少なくとも悟りとか根本真理と言うような求めるべき「聖なるもの」が項の一つとして挙げられている訳ではない。聖なるものとしての悟りの智慧はここでは各項目すべての止滅を目指す人間の実践によって得られる。そこで得られるものは、宇宙の根本原理とか実体とかと言うような常住のものではなく、人間の不断の自己否定に裏打ちされた智の「ひらめき」であると定義しました。この思想は明らかにバラモンの思想とは違うものです。

ブッダの死後、ブッダの教説に対して様々な解釈が生れ、ブッダの没後300年から900年頃にかけては、ブッダの教説に関する解釈・研究を一つのシステムに作り上げようとする運動が盛んになった。こうして完成したのが、「アビダルマ」(阿毘達磨)と呼ばれるものです。アビダルマとは、世界の構成要素に関してと言う意味の言葉です。そして紀元前3世紀頃から仏教僧達は多くの派に分かれて学説を主張してきましたが、これらの中で紀元前1世紀頃にかなり整備された学説を持っていたが、西暦5世紀ころに世親の著した「倶舎論」です。これは倶舎宗としてインドだけでなく、チベット・中国・日本の仏教にも浸透しています。倶舎論の説明する宇宙の構造図は精緻なもので、先ず宇宙の全体図は大気・水および・黄金の層の上に大地の層が乗ったのもと考えます。大地の中央にはスメール山(須弥山:しゅみさん)があり、その周囲は七重の外輪山が取り囲む。この外輪山の外側の四方に大きな四つの大陸があるが、その中に南の大陸ジャンブー州は逆三角形であり、インド亜大陸を思わせます。
しかし倶舎論の関心の中心は、外的世界の構造ではなく、人間界にありました。輪廻を続ける生類の在り方を説明する個所で十二縁起説が注釈される。ここでは輪廻は、かの五構成要素(五蘰)が行為(業)の力によって循環的な運動を行う事だと考えられており、十二縁起はそのような循環運動を行って居る五構成要素の状態を語るとされています。

西暦1世紀頃アビダルマ哲学の整備・体系化が進む頃、この運動に対する批判として新しい形の仏教が台頭してきます。広大な荘園からもたらされる収益のお蔭で僧院の中でスコラ的な学問に専念する僧達のアビダルマ哲学を支える保守的な上座部仏教の僧達を中心とする仏教ではなく、一般の武士や商人によって支えられた仏教すなわち大乗仏教の成立です。

大乗仏教の理論的モデルを与えたと言われるのが竜樹(ナーガールジェナ:150―250年位の人)です。「中論」の著者の竜樹(西暦2―3世紀)や「倶舎論」の著者の世親(西暦5世紀)が活躍した時代は、バラモン正統派の六派哲学の形成期でもありました。この様に、仏教哲学とバラモン哲学とは、互いに批判し合いながら、夫々の思想を形成していったのです。

そしてその後に汎インド的思想・宗教としての密教が発生してきます。
「タントリズム」(密教)とはタントラ中心主議のことであり、ヴェーダ期あるいはそれ以前にもありながらインド思想史の中で最も遅く有力になった思想・宗教形態です。
ヒンドウの経典の歴史は通常、ヴェーダ・ウパニシャッド・プラーナ(神神の系譜)そしてタントラと言うように考えられます。インド仏教の経典は、プラーナとタントラの時代に並行して編纂され、仏教にも膨大なタントラ経典があります。

仏教タントラは、四種のタントラ経典の歴史として語られる。

1) 所作タントラ

祭壇の作り方や仏への供養の仕方という、儀式の所作や呪文を主に述べている。この段階では仏教が自らのシステムの中に儀礼を取入れ酔うとしているのに留まり、仏教の本来の目的で有る精神的至福をその儀礼によって得ると言う思想はまだ無い。

2) 行タントラ

7世紀の成立と考えられる「大日経」です。この経典の中では、儀礼・ヨーガの実践・シンボリズム等が統一され、究極的な目的は悟り、すなわち成仏を得る事を示している。

3) ヨーガ・タントラ

7世紀末頃の成立と言われる「金剛頂経」です。悟りを得る事を究極の目的とする処は「大日経」と同じであるが、密教的ヨーガの行法が更に一層重
視されている。行タントラとヨーガ・タントラの主要な相違の一つは両タントラの主尊の大日如来をどのように考えるかにある。

4) 無上タントラ

血に悟りの智慧と言う象徴的意味を与えて儀礼の中で用います。

タントラは、儀礼やシンボリズムの要素を多分に含んだ宗教形態ですが、それらの要素はヴェーダに既に含まれています。タントリズムの重要な要素であるマントラ(真言)は明らかにヴェーダにおけるマントラを継承したものであると言われています。

これが仏教の全体の流れになります。しかし前項に示すように、仏教の流れも大きな古代インド思想史の中で捉える必要があると私は考えています。
私は古代インド哲学史を専門に勉強した訳でもありませんので、時代の推移の中での相互の影響の及ぼし合いについて理解出来ていない部分がありますが、個人的な見解としては、先ず宇宙(自然)と人間との関わり合いとしての「梵我一如」、自然の営みから類推して人間への適用による「輪廻思想」、人間に苦をもたらす力から逃れる為の「ヨーガの手法」、さらには「解脱の考え方」の様な大きな枠組みがリグ・ヴェーダやウパニシャッドなどにより定義がされ、そんな時代に釈迦の原始仏教が生れます。

その後、バラモン系・非バラモン系夫々が理論整備を図って自教・自派の正当性を競う時代に移り、そこに現れたのがこれら全体に流れる部分を整理し、尚且つそれらの理論的な究明と体系化を図った古典サーンキャの学派の成果を基に、仏教その他インド哲学全体の中でサーンキャ学派の理論をベースにした、理論体系の再整備が進んでいったのではないかと考えています。その流れが仏教全体に継承されます。

この項で、理解のし難い古代インド哲学の流れを長々と取り上げたのは、兎角仏教思想は釈迦によって全てが形成され、その後の仏教界で理論化が進んだ様に思われがちですが、そうではなくバラモンを中心とした古代インドの大きな思想の流れがあって、その理論の上に、又はその理論の一部に反発しながら、仏教思想が形成されていったのではないと思われるから、ここに取り上げました。実際問題として、バラモンに反発して一つの宗教を作り上げた仏教ですが、三十三間堂の蓮華王院の諸仏の様に、バラモンの神神が仏教の仏や如来と一緒に祭られている事の理解をする必要があるから説明を致しました。
これらの宗教または宗派は、余り明確に区分出来ない部分が大変に多いと言う事です。これを理解していないと仏教の全体像を見誤るのではないかと思いますので、敢えて古代インド思想史の立場からその流れを示しました。

6)密教における五大思想の取り込み

いよいよ本論に入ります。射法訓が真言密教の思想の上に在る事は冒頭で説明した通りです。そして五輪思想の中に「金体 白色 西 半月」の位があります。
五輪思想と言うのは、古代インドの中でも仏教の中の密教のグループにより、古来の五大思想からその五大元素を守護する仏・菩薩を当て嵌めて、五輪思想にする所から関連を持つに至るのです。その中で金体白色西半月の意味する所が出て来るのです。

密教において、古代インド哲学の五大思想に土・水・火・風(金)・空(木)の自然の現象の最も小さな質としての五元素に、人間の意識としての「識」を加え六大を宗体とし、宇宙の五大その侭が本不生実相であると主張する考え方が成り立ちます。

密教における『識』とは、悟りに至る為に人間の意思が重要視され(これを唯識思想という)、人間の意識・認識・心という意味の『識』を加えて六大と呼ぶようになりました。 五輪における「輪」とは、倶舎論などの説で、世界の最下を風輪、その上を火輪、その上を地輪とし、この四層夫々が周円の形をなす為に「輪」と称したと言われています。

五大思想が密教に入ると、五大はことごとく如来の三摩耶身となり、五輪は法界身となって「輪」の意味も自然に転化して、一切の功徳を具足円満していることを意味し、その五輪法界身を五輪法界塔となります。一般に用いられている「五輪塔婆」は法界塔を意味する標識となります。その侭で法界身となる訳です。大日経秘密曼荼羅品の始めに説かれる「入我我入(サトバン)」の行法に、五輪厳身の観想(字輪観・通観)として、キャ・カ・ラ・バ・アが順・逆と廻転して想念上働きます。ここに五輪思想が完成するに至ります。

この様に古代からのインド思想の「五大思想」が、密教仏教において五大元素のそれぞれを象徴する仏や菩薩を配置して「五輪思想」となり、私たちに馴染みの深い「五輪砕」となって継承されたのです。そして、また密教の中で「識」を加えた六大思想となって行きます。この宇宙の構成が五つの元素によって成り立っているという五大思想の考え方は、仏教だけでなくインド思想共通に存在する思想であり、仏教ではこのバラモンの宇宙観の五つの元素(五大)の思想を受け継いだ事となります。

古代インドのバラモンの思想の中では、「梵我一如」「輪廻・業・ヨ−ガ」「五大思想」などが既に在り、それが仏教思想に入り込み、更には密教思想の中に取り込まれ、修行の仕方即ち仏に至る道やその方法等が体系的な纏まりを出し、真言密教として発展します。それには日本の修行僧として中国に渡っていた空海が非常に大切な役割を果たします。その経緯は次項で説明を加えます。そしてその空海の真言密教の思想に仮託して竹林の流派の弓道思想を語る形を取っている為に、理解が一層難しくなっているのです。

私たち竹林流の弓道に関わる者としては、竹林流の背景にある真言仏教思想を理解した上で伝書の思想を理解する必要があり、真言密教の思想・仏教思想等が流派の教えを理解する上において重要な思想となることをご理解戴けると思います。

そして、仏教思想を理解する時に、仏教成立以前のバラモンの思想や、リグ・ベーダやウパニシャッド等の文献に出てくる思想などを頭に置いて考えて戴けると良いと思います。 本来は、釈迦による原始仏教・小乗仏教・大乗仏教などの仏教全体の流れや思想そして密教の思想を考え、その上で古典ヨーガや古典サーンキャ等の思想と仏教との関連性などを考えなくてはならないと思いますが、仏教思想の細部には入り込まないで、それらの大枠とその概要をここに紹介する事に止めたいと思います。

08.真言密教と日本における五輪砕思想の関連


インド哲学や仏教思想はインドで生れ、チベットや中国に広がっていきました。
その間にサンスクリッド語で書かれた経典はどんどんと漢訳されました。そして中国においては、在来の道教や儒教などと関連し合いながら、中国仏教として花開いて行きます。中国における五大思想は、当然中国の仏教の中で五輪思想に繋がりました。では中国仏教から日本仏教に伝わる中でどんな経緯をしたのでしょうか?

空海はご存知の様に平安時代の僧侶ですが、優秀な学生として日本において797年に大学で「三教指帰(さんごうしいき)」を著し、儒教・仏教・道教の優劣を論じ、仏教に帰依していました。804年に遣唐使留学生として唐に渡り、西明寺で中国の密教の師である恵果から胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の両方の潅頂を得て、真言宗を完全な形で学び修めて806年に帰国します。この間には、貴重な話があり、恵果の元には中国人僧侶で真言密教の秘法を伝授するに値する僧が居なくて、日本人の空海にそれを授けましたと言う経緯です。日本にとっては大変幸運な事でした。本流の中国密教が中国人僧侶でなく、日本人の空海に渡されたのです。そして帰国後は、嵯峨天皇の保護を受けて高野山に金剛峰寺を築き、京都には東寺を建てました。真言宗は密教を仏教の究極のものとして加持祈祷を重んじ、即身成仏を説きました。
ではそれらはどのように日本の文化の中で花開いたのでしょう。

1)日本仏教の五輪思想

日本への仏教の紹介は西暦538年の事ですが、密教はそのあと270年程経過した、西暦805年・806年に最澄・空海が密教を中国から身に付けて相次いで帰国して、密教が正式に日本に紹介されました。
遣唐使として中国の新文化を学ぶ為に派遣された最澄・空海が新しい密教を習う為に中国に渡った背景には、当時の日本での仏教の在り方が政治と結びついて奈良仏教の腐敗を断ち切る目的もありました。政治と結びついた奈良仏教に政治の危険性を感じた桓武天皇は、都を奈良の平城京から京都に移し平安京としました。そして奈良仏教の様に政治の内部に接近しない、新たな仏教宗派としての最澄・空海の真言密教を支援するに至ります。

最澄は比叡山に、空海は高野山にその拠点をおいて夫々天台宗・真言宗として布教活動に入ります。真言宗の真言とは、真理を語った言と言う意味です。
これは不空訳の光明真言が仏教伝来と共に日本に伝わって来ましたが、空海・慈覚大師によって直接請来されたものです。「帰命不空 光明遍照 大印相 摩尼宝珠 蓮華焔光 転 大誓願(オン アボキャ ベイロシャナウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン)」意味は、帰命・効験空しからざる遍照の大印 すなわち 大日如来の大光明の印よ 宝珠と蓮華と光明の大徳を有する智能よ 我らをして菩提心に転化せしめよーーここにその考え方が集約されています。

日本において密教が広がって行くに従い、五輪思想も広がり供養塔としての五輪塔が建立され始めます。平安時代から始まった造塔は、鎌倉時代に形の上でも完成を見ます。室町時代・江戸時代に入り形が変化して行っていると言われています。そしてそれらは時代の風格を反映したものとなっています。
そして石の塔の建てられない階層の人々の為に、卒塔婆としての角塔婆・板塔婆が建てられます。寺院行事の為に建てる角塔婆の切り込みは、五輪塔(五解脱輪塔)と意義は全く同じです。五輪は「空風火水地」の五大の異なる呼び方であり、上記の通り輪は輪円具足の意味であり、法身如来の功徳を具足し、欠ける所の無いと言う事を表わして五輪、輪円具足とは曼荼羅または壇にあたります。
板塔婆も全く同じであり、表面に切り込まれる形は五輪塔の意味を表わします。
すなわち、キャ(宝珠形)カ(半月形)ラ(三角形)バ(円形)ア(方形)を表わしています。

2)釈迦仏教と大日仏教(真言宗)の違い

ここまで仏教の歴史について語ってきましたが、読者の中には仏教イコール釈迦とお考えの方も多いと思いますので、ここで取り上げている「竹林派 四巻の書」の大日如来を信奉する真言宗と釈迦仏教の違いについて若干触れておきたいと思います。「四巻の書」の冒頭に次の記述があります。魚住先生の「尾州竹林流 四巻の書 講義録(一)」に従います。
第一巻 初勘の巻の冒頭の序文で弓道の稽古の心構えを書いています。俗に言われる「空手水(からちょうず)」の呪文です。
「天竺の水なき島の空手水 悉皆(しっかい)草木皆是仏水」
これは、水はなくても空手水で心身を清める心を以ってすれば、宇宙の森羅万象悉く仏の水を受けて生育するという深い意味です。空手水とは水を使わずに身と心を清める事を意味しています。
そして冒頭に出て来る字句は次の言葉です。
「當に願うべき衆生は、百八の煩悩 無量の重罪を 即時消滅すべし。我は是れ誰ぞ未だ生れざる以前、本来の面目は一円の内ア・バン(ア・バンは梵字で書かれている)なり。大円の覚りを以って仏師 子たり。我が為に 伽藍となさば 即ち 是れ寿養信心安居すべし。 常に其の中に在りて 教行するとき座し臥す若(ごと)く 平等證智なり。」
意味は、弓道を始めて学ぼうとする人は、百八の煩悩と言われる如き数多くの迷い事や悩み事や量り知れない罪汚れを直ちに無くしなければならない。即ち、正しい清らかな心にならなければならない。自分が生まれ来る以前は誰であろうか?生れる前の事は知る由もないが、天地一円の内に汚れのない道理と知性(金剛界・胎蔵界の教えーあは胎蔵界大日如来でバンは金剛界大日如来を表わします)を備えた人間として生を享けた者である。天地一円の内に生れた事は幸せであり、大円の覚り即ち天地余す所なく宇宙の総てを我が心に収められている大日如来の悟りの様に師匠を仏と考えて信頼し、その弟子となって弓道の理論と実技を勉強すべきである。
我が身を仏の家(伽藍)に安住すれば、即ち是れ煩わしい事や悩み事もなく命永く、何時までも誠の心を以って安住する事が出来るのである。この様に清らかな心を以って師匠から教えを受けて射法各般に亙る理論と実技を修行して達人になる事は、座ったり寝たりするように容易なことである。と言う意味になります。
更に、「日置一流射形、師弟子之起請秘記之事」という弓道の修行をするにあたり、弟子が師匠に対して教えを乞い願う誓約書に対して、師匠が弟子に対して言って聞かす訓戒の言葉がありますが、この中に「三体は父母から譲られたものである。剛だからと言ってもそれは自分の力ではない。弱だからと言って恥じることはない。ただ、強弱を論じる事無く、水鉄の如く修学するならば、水水を流し、鉄刀鎬(しのぎ)を削る事が出来ることなる。この心を知って剛は剛、弱は弱と夫々の分を弁え、筋力を頼らず骨力を旨として、師匠の教えを信じて剛を妬まず弱を謗ることなく、正直(せいちょく)を神として法度に任せて心底から着いて来る者には、流派に伝わる秘伝を相伝もされる。仮令、師匠との間で深い関係を持つ弟子であっても、道に愚であり、他流の教えに驚くような、深い心の無い者には秘法を伝える事はないから、それを考えて精進しなさい。」と言う様な意味の事が訓戒されます。

ここで、大日如来が出てきます。ア・バンが出てきます。平等證智が出てきます。そして何よりもこの中に釈迦仏教とは違う大日如来を信奉する真言宗の考え方が出てきます。釈迦仏教では、この世を苦と定義します。
それを乗り越える為に修行をし、悟りを得るのですが、その道が非常に遠いのです。大日如来は架空の菩薩であり、光りをあらゆる所に満辺なく照らし、教えに忠実に修行する者は必ず救われるという考え方に立ちます。だから筋力が優れた者も得意顔するな、弱いからと言って親を怨んだりするな、師匠の教えを忠実に実践すれば誰でも達人名人の位に至る事が可能であると教えるのです。日本においては、仏教各派の教理の境界線が各宗派毎に厳密に規定されているのでしょうが、それらが戒律等により締め付けが厳しくなされない事もあり、世俗の私達一般人には分かり難い所があり、混乱しています。私もそうですが、当社は仏教と言う一括りの知識で「尾州竹林流 四巻の書」を読み始めたのですが、ここに紹介した冒頭の文章からして分からなくなってしまったと言うのが本音です。
その結果私なりに理解する内容を要約すると次の様になります。
分かりやすくする為に、釈迦仏教を最も厳しい形で受け止める小乗仏教と、大衆の中に入って経文を唱えれば仏にもなれると考える大乗仏教と、真言密教とを比較して上の修行を考えてみましょう。
釈迦仏教の苦行により悟りを得る小乗仏教では、出家をして世俗を捨てて修行する中で自分自身が始めて仏・菩薩と成りうると考えますが、この考え方からすれば、本当に弓道の極意を得るには、世俗を捨てて出家して修行しなければ名人・達人に域には達する事が出来ない事になります。大乗仏教的に考えると、師匠の言われる事を素直に実践していれば誰でも名人・達人になれると言う意味となります。世俗を捨てない在家であっても念仏を唱えていれば仏や菩薩に至る道があるからです。
これが大日如来の真言の立場になると、他に依存して念仏だけ唱えれば極楽に導かれるという安易な求め方ではなく、厳しい自己規制と修行を通して、真剣に修行することにより大日如来の導きで仏になると考えます。即ち師匠の教えを真剣に修行する間に大日如来の光りはこれらの人に満辺なく注がれ、万人を仏の道に導くであろうとなります。竹林の伝書の中にある教えの基本はこのように大日如来を信奉する仏教の教理の上に成り立っています。

3)五輪思想と五輪塔について

一寸回り道をしましたが、この様な密教の世界での五大思想又は五輪思想は、どのようになっているかについて考えてみましょう。ここでは不空成就仏・釈迦如来として、お釈迦様が位置づけられています。
五大思想が五輪思想となり、五輪塔に具体的な形態を表していきます。哲学的な理念が我々の日常性と結びつく事となります。森羅万象の基本的な要素を象徴する形状や色彩が表され、更にそれらを象徴する徳目を持つ、即ち我々人間からすれば、守護される仏や如来を結びつけて形となってくるのです。
どうか色々な仏様や如来の名前が出てきますので、混乱しないようにお願いします。又、夫々の仏様及び如来の象徴する役目・ごりやくも出てきますが、非常に意味の深い仏教的内容を持っていますので、併せて注意をしながら、見て戴きたいと思います。その中に「西半月の位」の思想が秘められています。
又三角・四角等の伝書に出てくる言葉が現れてきます。
何れにしても、哲学的思想を形・色で象徴させ、感覚的に理解し易い様にして世俗の人に理解し易い様にしたものではあるが、根本が哲学であり、容易な事では理解できないものであることを前提として纏めたいと思います。
五輪塔を思い出しながら考えて戴くと良いと思います。

善無畏三蔵の伝
五大 地(土)輪 水輪 火輪 風輪 空輪
形色 方 円 三角 半円 團
業用 持 攝 熟 増長 不障
性徳 堅 濕 長養 動 無礙
字義 本不生 離言説 無垢塵 離因業 等虚空
ア バ ラ カ キャ
五輪法界の分解
顕色 黄 黒 赤 白 青
方角 中央 北 南 西 東
五行 土 水 火 金 木
五気 土用 冬 夏 秋 春
五転 具足方便 入涅槃理 行菩提行 証菩提果 発菩提心
識大 奄摩羅識 五識 末耶識 意識 阿頼耶識
五智 法界體性智 成所作智 平等性智 妙観察智 大円鏡智
五仏 毘盧遮那仏 不空成就仏 宝生仏 阿弥陀仏 阿しゅく仏
五如来 大日如来 釈迦如来 宝勝如来 無量寿如来 薬師如来

この善無畏三蔵伝と五輪法界を見るだけで、勘の良い人は「金体白色西半月」と関連があることを察する事が出来るでしょう。ここで金体・白色・西に関連して、その守護を象徴する妙観察智・阿弥陀仏に関連する事項を述べておこう。
先ず妙観察智とは、諸法の差別を観る智慧です。けだし一切は平等であると言うものの、その相は依然として千差万別です。即ち一切は平等に即した差別と認めるのがこの智慧です。だから意識を転ずる処に現れる智慧です。そして阿弥陀仏は、妙観察智の徳に住み、衆生の為に説法により、疑い・迷いを断ち切り大慈悲を以って一切衆生を摂取し給う仏です。
無量寿如来は、清浄金剛とも言い、西方菩提門に住まれる仏で、身色は赤金色で弥陀の定印を結ぶ、即ち地水火の三指を重ねた姿は三毒煩悩を結び縛る事をしめし、風空相捻するのは寂滅の涅槃点を示します。これは煩悩を消滅させる意味を持ちます。

弓道における五輪砕については、既に簡単に説明をしましたが、この五大思想から来た密教の五輪思想に取入れられ、五輪思想から五輪砕きへと繋がって、私達の弓道と結びついてきます。五輪砕きは、五大(五行)の事である「土水火風空」を射形の組立て即ち弓の引き方に当て嵌めて教えている為に「五輪砕」と称しているのです。

五輪思想・五輪砕の仏教的な解説については、とても私の力で出来るものではなく、概要を紹介するに留まりますが、詳細に研究されたい方は山東直三先生の口伝解説書を読まれる事をお勧めします。山東先生は仏教学者であり、紀州竹林流を修めて見えますので、詳細な説明をされていますので、参照されたいと思います。只余りにも本格的な仏教理論の解説であり、只読んでも理解出来ない所が多いので、真言宗の僧侶の協力を得ながら研究される事をお勧めします。

4)射技のおける五輪砕の教義

ではもう一度、竹林流における伝書の中で示されている五輪砕の教義に目を向けてみましょう。冒頭部分に書かれた内容よりも、五大思想・五輪思想を理解した後であり、より深い理解が可能になっているであろうと期待しています。

「土体黄色中四角」は、足踏み・胴造りについて述べており、全ての中央に据えるべき重要な働きであり、その後の全てに影響を及ぼし、堅固に形造らなければなりません。土台であり、中央の働きです。
「水体黒色北円形」は、打起しから引分け・会における詰め合い・延び合い迄、力が水が方円の器に従う如く、弱き所へ強き骨を譲り合わせて総体に平均した力の満ちる事で、尾州竹林流で言う汰流し(ゆりながし)の教義です。兎角弓を射くと言う意識だけで、そこの部分に力が偏ります。初心においては特に手先に力が漲りますが、これは高段になっても同じことです。 水の様にあらゆる所に均等に力が加わる事が大切です。
「木体青色東團形」は、前の項の心持ちを覚え悟って陽春に花が咲く如く、美しい射前を美しく射る様、左手の拳(手の内)・右手の懸の形や顔持の姿を正しく直す事を言う。尾州竹林流の口伝書では「延びやかに優々(悠々の当て字)として剛身直の内に和を合わせて射ること也。息もゆるやかにして惣体を美しく春の草木の日々延びる如く、次第に射形の筋道を顕はし始めて、内外強身和を含み発して、射形の花を咲かせる如く、陸に(真陸―まんろくの事、即ち直であること)見事なる剛身を専らとす。是則ち拳形・懸形・顔持を直にする所なり。直なれば美しく、剛身の篭る所を教えたり」とあります。直すは修正すると言う意味よりも、正す・直にすると意味となります。
「火体赤色南三角」は、離れについての教えであり、上の花咲き美しき事を為し尽くして云々とは、木体の奇麗な射前をよく覚え悟り、身に付く事を言い、さて手の内を三角にとり五体も相生するように弓構えをなし、打起しから剛みを含んで五部の詰めより、胸楔(胸の割り楔)にて石火の出る如くに離れる事を言う。
「金体白色西半月」は、残心についての教えです。
第一から第四迄乃至第五に示されている事が完璧に行われ、その結果の残身は老木晴嵐の姿となるのであり、その有り様は夜明けの寂寞たる大自然の様に東の空に夜明けの明星が白く燦然と輝き、之に対応して西の空には半月が煌々と輝いて雄大で崇高な姿を表現しています。
ここに五輪の守護をされる仏・如来の思想を取り込むならば、妙観察智からは一射一射による違いの中から基本に照らした反省の中から、自らの迷い・疑いを消滅させ、失敗・成功を問わず大慈悲の心を以った、拘りの無いおおらかな心がひろがる姿でありましょうか。そして五気で言えば秋であり、それが象徴する様に次の活動期の春までのエネルギーを貯えて、次の循環に備えます。

従って、射の運行の順番から考えれば、足踏み・胴造りの土/打起し・引分けの水/会の火/離れの木/残身の金と言う、土・水・火・木・金の順番であると理解がすっきりとします。これを仏教思想の五輪塔の順番で考えると土(地)・水・火・金(風)・木(空)となり木と金の順番が逆になります。
これは五大思想を借りて射の運行の心に適応したと考えるべきではないかと思います。順序の違いよりも、この時代の常としての流派の秘密を他に漏らさない為にも口伝の形で伝承しながらこれらの矛盾については説明して来た事と思います。

即ちこの「射法訓」においては、紀州竹林流の吉見順正の教えも、その前提条件として真言密教の仏教思想に仮託して「竹林派 四巻の書」と言う極意の書を著した竹林坊如成の思想に基づくものであると言う事です。今ここで五輪砕の思想を理解する為に、本文から遠く離れた仏教思想に入ってしまいましたので、元に話を戻しましょう。

「射法訓」の書に曰く以降の部分で、「鉄石相剋して火の出ずる事急なり」が父母の巻及び中央の巻では第四位にあり、「金体 白色 西 半月」が中央の巻で第五位にあり、この二つの部分を「即ち」と言う言葉で繋ぎ、言い換えている事です。これで第四位と第五位がどうして言い換えで同一になっているのだろうかを、色々と考えてみましたが明確に説明出来る論法は見つかりませんでした。まあ余り厳密に論理展開する必要が無いかもしれない。第四位の離れの味わいを経て、第五位の残心の位に至る事を現していると想定されます。

これらを再度総括して説明をしてみますと、
第一位は、足踏み・胴造りを教示しており、足踏みは大地に生えた大木の如く、胴造りも大木の如く真っ直ぐに、安定した形と内容が必要である。
四角は地を現し、また四角は前後左右に動揺することのない最も安定している意味も含んでいる。十二字の父母の位・織物の筵の位に対応する。
第二位は、力の弱い所へは、強い骨を譲り合わせて、総体に平均した力が満ちる事であり、当流では汰流し(ゆりながし)の教義である。何処までも強弱なく、全身が一体になって射を運行する段階である。
四巻の書の初勘の巻の打起しの着身の事で、弓と体が一体になる事を言う。総身の強みを平均して全身に行き渡らせて、総部にて自然の離れを知る意味です。十二字では君臣の位、織物の布の位です。
第三位は、美しく射る様に、弓手の手の内、妻手の懸なり、顔持を正しく直くし、総体の強みに和を融合して、手の内の拳形・懸のなり・顔持(面)を正しくして、剛身を教える箇条です。十二字では師弟の位、織物では絹の位となります。
第四位は、手の内・弓構えの剛身から石火の離れを教えた箇条。全ての運行が寸部の隙もなく、会における詰合い・延合いが満ち充ちて、鋭く軽妙に離れる味わいを言う。十二字の鉄石の位、織物では綾の位となります。
第五位は、離れから残心の様相を教示した箇条。会にて左右の拳が相生して良く伸び、最後に一筋の糸を引き合う所まで至って、知らず知らずの内に離れ、その後に現れる雄大な離れの姿であり、残心の姿である。十二字の晴嵐老木の位、織物の錦の位となります。
と言う事になります。併せて、十二字五位の教えにより的中の五つの品位・格についての教えや、さらにはそれを実現する縦横十文字の構成や弓・体・心の三位一体と離れの関連についての、筵・布・絹・綾・錦と言う織物の種類に仮託した教えが秘められている事を頭においてその教えの深さを理解して戴きたいと思います。

この様に「射法訓」が、「礼記射義」における射における心・礼儀の在り方の精神的な教えに対して、実利的な弓の射き方の理想を教えていると冒頭に説明しましたが、よくよく考えてみると、単に的中を競うだけの技について教えているのではなく、深い仏教思想に仮託して弓道を通して自分自身を鍛えると言う厳しい修養道を説いている事と、的中の位を五段階に分けて、単なる的中に満足することなく自然と一体になる「梵我一如」の思想の元で、人間と自然(宇宙)との一体感を悟る為の弓道の考え方を示しているとも考えることが出来、その深さをご理解戴けると思います。

09.射法訓の本当の意味の理解を


「射法訓」を書いた吉見順正は、紀州竹林流の中興の祖と謂れ、その弟子に三十三間堂での大記録を打ち立てた和佐大八郎がいます。私が学ぶ尾州竹林流には星野勘左衛門があり、星野勘左衛門の働きがあって和佐大八郎の記録も生れています。日置流竹林派が竹林流と名乗り、更には尾州竹林流と紀州竹林流に育っていった兄弟流派で、三十三間の通し矢も競って行った事になります。
紀州竹林流の吉見順正の教えを「尾州竹林流 四巻の書」により説明致しましたが、兄弟流派として伝書も同じ物に基づいていると言う前提で説明を加えました。

「射法訓」は、「礼記射義」の精神的な教えに対して、射技の教えと冒頭で表現しましたが、実は修養道としての武道としての弓道の目指している事をはっきりとご理解されたと思います。修練の過程において、求める的中の位を上げて行く事を通して、道を覚えるのです。即ち弓を通して人間としての完成に向けての道を学ぶ事を教えていたのです。若しそうでなければ、わざわざ書に曰く以降は不要であったと思います。何故離れの五つの位について述べる語句を引用しなければならなかったであろうか?

更に難しく考えれば、竹林坊如成は空海の真言密教の教えに基づいてこの世で仏となる「即身成仏」の道として、「秘密十住心」による修養過程を経て、弓道の達人への道を教えているのかもしれないと考えられます。
ここでは秘密十住心については、詳細を説明しませんでしたが、弓道を弓の修練を通して自分を完成させるという修行道として考えるならば、弓道修練の目的や最高の目標とする処に到達する為の道しるべや、段階をハッキリさせなければならないでしょう。その意味では、竹林流が真言密教の教理の上に在ることを思うと、この世で仏の仏の位に到達する「即身成仏」を前提とした「秘密十住心」の修行の道程としての諸段階について理解をしておく必要があると考えます。これは尾州竹林流の立場での考え方になろうかと思います。
禅としての弓道を考えるならば、それは「十牛図」に象徴される禅僧侶の修行の道程ともなるでしょう。そしてそれらには多くの共通の概念が秘められている事も事実です。
それは、真言密教も禅も仏教という宗教理念を共有するからであろう。
この大自然の営みを絶対的なものと見做し、その摂理のもとで地球上の森羅万象が運行しそれを「梵」と表現し、この地球上にある我々は「我」であり、この人間の生命の営みそして感情や理性の働きも不可解な部分があるが、確実に何かに制御されながら営みがなされている。共に人間の知恵を超えた処で、統制・制御されていると考え、しかもそのメカニズムは同一であるとの思想による「梵我一如」という思想により、自分の内面をじっと見詰める事により、大自然の摂理を理解することが出来る、即ち「悟」事が出来ると信じて修行をする考え方や、人間は本来この世に生を受けた段階では、純真・純粋であるが、成長するにつれて世俗の垢に汚れ、多くの煩悩を感じるものである。
この世に生を受けた時の純粋・純真な処に戻るべく修行をする。本来在った自分を再び取り戻す修行をするという考え方、それらを得る手段として、ヨーガの様に肉体の極限まで至らしめる中で会得する方法や、弓道の様に常に己を反省しながら本来在るべき姿を求めて修行することを通して仏の道に至るという考え方も生まれ育った。
否 弓道修行の理念を仏教のこれらの理念や修行の道程・方法にヒントを得て、弓道理念に仏教思想を導入したとも言えるでしょう。

これら根本に在る教理・理念は、東洋に伝統的に伝わる思想の上に、成り立っているといえるでしょう。古代インド哲学が古代中国哲学に影響を与え、東南アジアを中心にした東洋において総合的に花咲き、影響し合って展開されてきたと言えるでしょう。古代インド哲学の上での人間の在るべき姿の上にある仏教であり、仏教の分派としての色々な宗派の中で仏に至る道を模索しながら学術的な体系を作ってきたといえるでしょう。その中では自ずから類似性は存在し、その修行のプロセスについても若干の違いがあるものの互いに共通する部分も多くあることを参考になれたいと思います。仏教とは、関係を持たない様に見える儒教でさえも、仏教の影響を著しく受けているのです。空海が中国を訪れた8世紀頃の中国では、儒者は仏教学者でもあったのです。この様に考えると単に射技についての教えと考える事は極めて皮相な理解になるのではないかと思われます。

10.射法訓解説についてのお断り


ここで最後に改めてお断りをしておきたいのは、私は仏教思想について専門的に勉強した宗教学者では在りません。細かな宗教上の教理の理解の仕方や、修行の方法論、そして長い古代インドの中での哲学の思想経緯の時代的な錯綜も在るかと思います。
文字に残す立場からは許されるものではないことを承知していますが、一市井の弓道生が己の弓道を求める為に、流派の伝書を理解する為に懸命に追い求めてきた結果を、宗教に馴染みの無い同じ道を歩み人達の一つの道しるべとして、書き残したものとご理解戴き、若干の誤り・誤解はご指摘戴くと共に、ご教導いただきたいと思います。
自分の仏教を初めとした宗教についての理解の程度から考えた時に色々な疑問にぶつかり、それらを一つづつ紐解いて来た結果がここに纏めた内容であります。
従って、伝統的な弓道の理念を求める同志にとっては、私同様に宗教に馴染みの少ない方も多く、これらの人達には或る程度の道しるべになるのではないかと期待も致しています。

文中でもご紹介しましたが、特に仏教の五大思想・五輪思想については仏教学者の山東直三先生の資料を研究される事を希望します。非常に専門的で学術的に記載されています。その導入部分として私の説明を理解して戴けるならば幸いです。 以上

参考文献:


全日本弓道連盟 弓道教本
魚住文衛 「尾州竹林流 四巻の書 講義録」 自費出版
山東直三 「日置流竹林派 四巻の書 詳解」 自費出版
三井英光 「真言密教の基本 教理と行証」 法蔵館
高神覚昇 「密教概論」 大法輪閣
J・ゴンダ 「インド思想史」 鎧 淳訳 中公文庫
立川武蔵 「はじめてのインド哲学」 講談社現代新書
徳山暉純 「梵字手帳」 木耳社
赤根祥道 「道元禅108の知恵」 日本文芸社
全集 「宗教と科学」 岩波書店
上田閑照・柳田聖山 「十牛図」 筑波書房
その他
礼記射義・射法訓の解説の最後に当たって
ここでは「礼記射義」「射法訓」について解説をしましたが、前者は儒教を、後者は仏教思想を多く含んだもので在る事を対比し良く理解されたいと思います。

宗教が私達の生活から遊離してしまった現代において、これらの教えの文字面からその奥深い思想を読み取る事は既に困難になっています。
「礼記射義」や「射法訓」を更に深く理解する為には、儒教・仏教の考え方・歴史・日本文化に及ぼした影響等を研究されると善いと思います。

浅学非才を省みず、経験の少ない小生如きが解説する事は非常に危険があろうとは思いますが、流派の伝書を理解する為に、儒教や古代インド哲学や仏教の本に深い関心を持ち、それらを通して私なりの理解をするに至り、これらの関係する書籍・文献等を多数読みながらそれらの引用を含めて纏めました。
足りない部分又は間違いのある部分については、皆さんの叡智を集めて、再編集をして行くのが善いと思います。宗教が日常と遊離した現代であるからこそ、今纏めておかないとと言う焦りの様な物を感じながら、そして「礼記射義」「射法訓」についての現代流の解釈及び説明を受ける機会の少ない方には、多少共参考になればと思いながら非力を自覚しながらも纏めました。
ここに示した解説は、私の浅い勉強の中から纏めたものであり、読者の皆様のご批判を仰ぎながら、一層内容を充実させたちと願っています。そして伝統的な言伝えに則りながら、現代流の分かり易い解説書に育て上げたいと願っています。

弓道を愛される皆さんには、弓道と宗教が何故関連を持たなければならないかとか、弓道と日本文化を何故結び付けなければならないか等の疑問もあろうかと思います。しかし、武道としての弓道の基本的な精神を正しく実践することにより日本文化の上に咲く精華としての武道としての弓道の楽しさを実感出来ると確信しています。
私は、本当の姿を見るためには、原点に戻らなければならないという考え方を持つと共に、弓道の国際的な普及の時代の中で、日本弓道の持つ本質的な意味をしっかりと理解した上で修練し、普及することが一層重要だと考えているからです。
一部の西欧の弓道愛好者は、日本の仏教や儒教や神道の教理を研究しながら弓道と取組んでいます。それは、18世紀以降人類が科学的合理性と言う実証的な考え方と、唯物論的な考え方の中で物質的な冨を求めて活動してきた結果としての「拝金主義」や、人間の尊厳を忘れた形で科学的な、物理的な価値観の中でのそれらの独り歩きは、人間としての精神の意味・心の意味の中から本当の人間の生きる幸せ・価値を原点に戻って考え直す、反省する時代として、現代の色々な矛盾を考えながら、その解決の糸口を東洋の思想特に禅仏教に求め、又社会の中での人間関係の在り方を儒教の中に求めて研究をしながら、弓道を修練している姿を現実に見ていることです。
これも科学時代や工業化時代と言う理解だけではなく、キリスト教の教理との関連も含めて考察しなければならないと思いますが、何れにせよ戦後の日本が歩んできた道は、ヨーロッパ文化の流れを組んだアメリカ文化に大きな影響を受けて、工業化社会の道を邁進してきており、そこから起きて来る社会的な矛盾を抱え、更には従来の日本的な価値観との整合を含めての混乱が現実問題として抱えているのが、日本の現代であると思います。

私には欧州の心有る弓道愛好者が歩み求めている道が、これからの日本にもその反省の時代が必ず来るであろうと予測しています。伝統的な弓道に携わっている私達がこの現実に直視して、その落とし穴に落ち込まない様に智恵を出して、弓道の修行の意味を考える必要があろうと思います。
「礼記射義」「射法訓」を文字通りに表面的に説明する方法もあったと思いますが、ここでは上記の意味をを配慮して儒教・仏教に少し深入りして紹介してみました。
以上