2000年1月26日、大久保美玲氏から修士論文「徳本行者―その生涯と思想―」および「資料編」が送られてきました。拙著・写真集「徳本名号石考」の序文でも「江戸時代の社会的背景や布教の実態、民衆の生活や動向など宗教民俗学的な探求と解明が期待される」と書きましたが、大久保氏自身随所で「今後の研究課題」とされている部分を含めて、大変貴重な解明がなされており、深く感銘しています。
同論文は、A4判102pの大部ですので、全体を紹介することはできませんが、以下、「はじめに」の部分のみご紹介します。
はじめに
天台宗観音寺(神奈川県中郡大磯町)の境内の一角に、当たり前のように立っている石碑(図1)がある。
「南無阿弥陀仏 徳本(花押)」
私は幼い頃からこの石碑(名号石)を見ていたが、まさか、これから、江戸時代後期文化の縮図を見ることができるとは思ってもみなかった。
私は、卒業論文で、地元にある史料を使って、何か研究したいと考え、右記の寺院、観音寺の近辺にある、天台宗吉澤山延命寺(平塚市上吉沢)の版画准胝観音像(江戸時代後期<推定>)から、この神奈川県平塚市・大磯町あたりの近世文化を探ろうとした。その結果、現在も農家が多く、山と田畑に囲まれている土地なので、近世はさぞかし農村文化一色だったろうと思っていたこの地域も、江戸などで栄えていた当時の仏教文化を享受していたことが分かった。というのは、同像は仏像版画として、たいへん水準の高いものであることが分かったのだ。だが、「なぜ准胝観音がここにあるのか」という切り口で論文を構成したので、准胝観音は全国的に見ても作例が少なく、これまでも准胝観音像がどういうものであるかを述べことに終始してしまった感が強い。修士論文で更に准胝観音を扱うには、行き詰まりを感じざるを得ないので、とりあえず、これはひとまず寝かせておき、心機一転、また違う地元の材料を使って、何かできないかと考えた。そこで選んだのが、右記の名号石である。
この名号石は、徳本行者という江戸時代の浄土宗の高僧にまつわるものだという。ちなみに、これと同類の名号石は神奈川県内だけでも150以上あるといわれており、特に小田原、平塚は多い。そして、全国的にも信州・相模・武蔵が多いと言われている。
なぜこの小寺、観音寺(天台宗)にこのようなものが存在しているのか。しかも、浄土宗系のものが。その手がかりをつかむべく、調査していくうちに、徳本行者は以下に述べるような偉大なる伝説(これはほんの一部でしかない)が残され、没後もなお、宗派を越え、その名号を受けるため、入滅場所であり、行者の魂をふきこんだ尊像のある小石川一行院に列ができるほどの人物であることがわかった。
この観音寺の名号石も、「安政六年(1856)」とあることから、行者入滅(文政元年<1818>)後、受けたものであることがわかる。
ここで、徳本行者の簡単な紹介をしておく。徳本行者(1758〜1818)は、紀州日高郡に生まれ、2歳にして「さし出る月の玲瓏たるを見給ひ、初めて南無阿弥陀仏とぞ称せられたる」という、あたかも釈迦牟尼仏が誕生したとき「天上天下唯我独尊」と称し、聖徳太子が「2歳の時、東に向かいて南無仏と称し給ふ」(本朝高僧伝)と伝えられるのと同様、ただ人ではない伝説が残っている。
人生の大半は苦行錬行で過ごしたと言われている。生きるための最低限の食事で、毎日夜明け前から渓水での垢離、そして、一日5千、7千或いは1万の五体投地(額と両肘、両膝を地に着けて礼拝する)での礼拝の式を遂げる。その結果、満身のひび皹あたかも松皮の如く、礼拝し給うごとに鮮血ほとばしるほどであったという。その仏道に徹底した姿は、43歳にして、紀州徳川家の信仰を得ることになる。
そして遂にはその偉業は江戸にもとどろき、西国の山奥から、大都市江戸へ入府されることと、芝の増上寺貫首典海などから強く請われた。晩年は一ツ橋冶斉が増上寺典海にはたらきかけ、典海が徳本に与えた小石川一行院で、あるいは各地を行脚して膨大な人々の教化を成し遂げた。(『徳本行者伝』福田行誡著)
以上のような経歴を持つ徳本行者は、浄土宗史上、捨世派のうち弾誓の流れをくむものとして、長年位置付けられてきた。しかし、彼は「捨世派」という言葉では片付けられる人物ではないということもいわれてきた。私も、あえて分類するならば捨世派に属するという考えは否めないが、何かもっと見るべきものが彼にはあるのではないかと思わずには居られない。なぜそう考えるかというと、ただ弾誓上人の跡を慕った捨世僧として修行、教化していただけでは、あれほどの幅広い帰依は受けられないと思うからだ。
私はその要因に、徳本のかたくなな宗教活動、それに伴う人間関係と希に見る民衆勧化力、そして時代的背景が働いたことに重きを置きたい。
以上のような考えを基盤に、私の徳本研究の最終テーマを「江戸時代後期の社会における徳本行者の位置付け」と据えて進めて行きたい。その第一歩として、この論文においては、徳本行者を良く知ることに重点を置き、以下のような手順で進めてみたい。
第一章で徳本研究の現状と問題点を挙げ、筆者の研究目的を再確認したい。
第二章では、「徳本の生涯と帰依した人々」というテーマで、徳本の生涯、徳本を取り巻く帰依者の様子を、福田行誡編『徳本行者伝』を柱として、これまで見過ごされてきた他の伝記類を吟味しながら取り入れ、肉厚に見て行きたい。
第三章では、徳本の思想が分かる資料、「勧誡聞書」(説法記録集)類を分析し、徳本の行動の基盤となっていた考えを探ってみたい。
第四章では、他には類似の物が見られない資料、『徳本行者絵巻』(和歌山県御坊市往生寺蔵)の分析を試みて徳本信仰の一端を垣間見たいと思う。
第五章では、私が修士課程在籍の2年間で取材した徳本行者に関する資料、特に絵伝関係を紹介したい。それぞれの相互関係が分かりやすい様に、系統図を作成した。
そして、最終的には、現時点において自分が考える徳本像をまとめてみたいと思う。