「礼記射義」の解説

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日本のすべての弓道場には、この二つの教えが掲示されています。
そして、練習の始めには皆で唱和して、修練の心得として確認しあっている事でしょう。しかし、時には唱和に流れてその内容を心に誓うことを忘れている時もあるでしょう。
私達は、この二つの教えの内容を再度確認し・吟味し、その貴い教えを理解しながら弓道を修練し・実践しなければなりません。ここが原点であり、終着点であると思います。ここに礼記射義・射法訓の意味をよく理解して、しっかりとした弓道観を育て、実践しましょう。ご存知の様に「礼記射義」は、今から約2500年前の中国の哲学者孔子の教えであり、「射法訓」は、今から約250年前の江戸時代の中期の紀伊藩(今の和歌山県)の吉見台右衛門経武のちに出家して順正と名乗った紀州竹林派の弓の名人の教えです。

古書を紐解きながら、原点に忠実に理解を深めて戴きたいと思います。
ここでは、前田巌夫先生の「禮記 集説巻之三十 射義編 第46講義」および魚住文衛先生の「尾州竹林流 四巻の書 講義録」を中心にしてその他の参考資料を多数使いながら纏めました。
                    松井 巌 教士6段
                     愛知県稲沢市高御堂2-23-6
                       作成 ・平成6年11月29日
                       改定1・平成9年02月25日
                       改定2・平成9年04月05日

目 次


01.礼記射義について 3
02.語彙の解説. 14
03.孔子の考え方と禮の意味するもの 15
04.礼記について 16
1)礼記の構成 16
2)礼記全体の内容 17
05.礼の考え方・意味について 18
1)礼と言う漢字の意味について 18
2)礼の概念 19
06.仁の概念について 19
07.五常五教(五倫)について 28
08.正しい人間関係を求めた射 30
09.儒教と弓道 31
10.日本の社会における儒教・礼の心 34
11.競う弓道と和の弓道 35
12.和の文化としての弓道と礼の思想 36
13.自己規制・自律を求める弓道 37
14.再び「礼記射義」の教えるもの 38
15.礼記の射義編全文 39

「礼記射義」

射は、進退周還 必ず礼に中り、内志正しく 外体直くして、 然(しか)る後に弓矢を持ること審固(しんこ) なり。弓矢を持ること審固にして、然る後に以って中るというべし。これ以って徳行を観るべし。
射は仁の道なり。射は正しきを己(おのれ)に求む。己正しくして而(しこう)して後(のち)発す。発して中らざる時は、則(すなわ)ち己に勝つ者を怨(うら)みず。反ってこれを己に求むるのみ。

01.礼記射義について


礼記は、後で詳細に説明しますが、全部で49編から構成されている礼記の46編目に射義編として記載されています。私達に馴染めの道場に掲げられている「礼記射義」は、この膨大な礼について書かれた「礼記」の中の射義編の冒頭の部分と最後の部分が取り上げられています。すなわち冒頭にある所の「古者諸侯之射也、必先行燕禮。郷大夫士之射也、必先行郷飲酒之禮。故燕禮者、所以明君臣之義也。郷飲酒之禮者、所以明長幼之序也。」「故射進退周還必中禮。内志正、外體直、然後持弓矢審固。持弓矢審固、然後可以言中、此可以觀徳行矣」とあり、最後の部分の「射者、仁之道也。求正諸己。己正而後發。發而不中、則不怨勝己者、反求諸己而己矣」です。

射義編の全体の本文は、参考に最後の頁に載せておきますので、是非目を通しておいて戴きたいと思います。ここでは直接に関連する部分のみを取り上げて説明をします。本当は全体を読みながら、この部分を読むと更にその深い意味が出て来るのですがーーーー。この文章の中で多分理解し難い部分と言うのは、礼の考え方、仁と言う考え方・何故射で徳行を観察する事が出来ると考えるのか、又己に求める正しきとは何であるか辺りではないかと思います。言葉としては審固でしょうか?
上記の様に括弧で括った所の以明長幼之序也まで、徳行矣まで、そして最後までの3つの部分に分けて、その意味・解釈を考えて見ましょう。

この解説をするに当たっては、愛知県の弓道教士8段で漢文の先生である故前田巌夫先生の纏められた集説巻之三十から引用させてもらいます。前田巌夫先生は、漢文の先生でもあり、中国の弓術書であり、江戸時代の日本の弓道に大きな影響を与えた「射学正宗」を訳文され解説されている先生です。
前田先生の集説巻之三十では、本文に加えて歴史的に評価の高い注釈として宋衛堤撰(堤:正式にはサンズイの文字ですが、標準では無い為にこの字を当てた)が載せられており、それは中国でも正統的な解釈としての位置づけにあり、また本文を理解する上に於いても大切であり、ここに併せて取り上げる事とし、宋衛堤の注釈を読みやすいように送り仮名を付けて説明したいと思います。

それでは、説明に入りたいと思います。先ず最初に紹介する部分は礼記射義には入っていませんが、後程示す本文で「射は進退周還―――」に繋がる最初の部分に「故に」と言う言葉がついており、その関係でその前の部分を示します。

「古者諸侯之射也、必先行燕禮。郷大夫士之射也、必先行郷飲酒之禮。
故燕禮者、所以明君臣之義也。郷飲酒之禮者、所以明長幼之序也。」
読み下し文:
「古(いにしえ)は諸侯の射には、必ず先ず燕礼を行う。郷大夫士の射には、
必ず先ず郷飲酒の礼を行う。故に燕礼は、君臣の義を明らかにする所以な
り。郷飲酒の礼は、長幼の序を明らかにする所以(ゆえん)なり。」
となります。続いて注釈として如何の様に続きます。

正義曰く
「此の経は将に射んとする時、天子・諸侯は先ず燕禮を行い天子と諸侯の関係
を明らかにする。すなわち君臣之義を明らかにする所以である。郷大夫が将
に弓を射んとすれば、先ず郷飲酒之禮を行う。これは長幼之序を明らかにす
る所以である。」
呂氏曰く
「諸侯之射は大射と言う。郷大夫の射は郷射と言う。射は男子の大事である。
必ず之を飾るに禮・楽を以ってするのは、人の徳を養う所以である。之れ周
旋は禮に従う。蓋し燕と郷飲とは、燕に因りて賓を娯しましむ。娯しみが有
って禮が無ければ、大射は有り得ない。故に大射・郷射には必ず禮が有ると
言う。禮が有って義がなければ、大射・郷射も有り得ない。故に君臣之義と
長幼之序を明らかにすることとなる。」
と二つの解説を載せています。
ここで、射とは勿論弓を射る事ですが、平時はこれをもって容(人間性・人格)を習わせ、芸(射芸・射述)を修めさせ、射・体配により射手の徳行を見て行政官としての士を選び、天下に事ある時は此れを用いて戦わせる。
射には、大射・賓射・燕射・聘射・郷射・州射・武射・軍射等の種類が色々在ると説明しています。
燕射は、天子が諸侯群臣を集めて行うもので、射を行うに先立て行う酒宴を行う。この間において君臣の礼を明らかにする。即ち大射礼です。
郷射は、郷大夫士が相集まって行う射で、射を行うに先立って酒宴を開き、この間において長幼の序を明らかにする。これを郷射礼と言います。

「故射進退周還必中禮。内志正、外體直、然後持弓矢審固。
持弓矢審固、然後可以言中、此可以觀徳行矣。」
読み下し文:
「故に、射は進退周還必ず礼に中たる。内志正しく・外体直くして、然る後
弓矢を持ること審固なり。弓矢を持ること審固にして、然る後以って中た
ることを言うべし。此れ以って徳行を観るべし。」となります。
更に続いて注釈として下記の様な説明が付されています。
正義に言う
「此の一経は、射者の禮を明らかにすることにある。即ち、内の志が審正で
あれば、則ち射は能く中たる。故に其の外射を見れば、則ち以って其の内
徳を觀ることが出来る。故に以って徳行を觀る可しと言う」
呂氏曰く
「禮射は、必ず先ず此れ◆(漢字が無い為に◆とする。漢字はヒの下に禾偏を
置いた偏、作りは田の下に円を書いた字)を先にする。故に◆皆上◆下◆(
前記に同じ)あり。皆弓を執り、その上で矢を挟む。そして堂に進む。階に
行き着き・階に登る。物に當たり・物に及ぶ時、皆互いに揖をする。退くと
きにも、亦た之(かく)の如く揖を互いにする。
其の動作に左右が有る。その升降りるに先ず後有り。其の射は皆が拾射を
發す。その矢を干輻に取る。始め進みて揖をし、輻の前では揖をし、矢を
取って揖し、既に■(手偏に晋)挟して揖す。射終わって退かんとする者
と、将にこれから射る為に進まんとする者は互いに揖をする。其の矢を取
るとき也、弓を横たへて手を郤げつけ(弓偏に付)を兼ね、羽に順い、拾
取之節有り。射を終わって而して酒を飲む。勝者は決を組み、遂に張弓を
執る。勝ちを得ざる者は決を襲説し、弛弓を拾加し、升って飲む。相揖す
ること初めの如し。
則ち進退周旋は、必ず禮に中らなければならない。夫れ先王が禮を決めら
れた。苟くも繁文の末節である。人を使め行い難しめん。亦曰く善人を養
うのみ。蓋し君子之天下に於ける、必ず節に中らざるという所為し。然し
て後徳を成す。必ず力行して而して後功あり。其の四肢は安佚ならんこと
を欲す。苟くも恭敬之心勝たずんば、則ち怠惰傲慢之気生ず。動容周旋節
に中うる事能はず。體佚と言えども、而も心亦之が為に安からん。其の安
からざる所に安んずれば、則ち手足其の所を知らず。故に放僻侈る、分を
踰(こ)えて上を犯す。将に至らざる所無からんとす。天下之乱此れ自り
始まる。聖人之れを憂う。故に常に繁文末節を謹んで、以って人を事とす
る所無きの時に養い、其れ之を習し使めて、而して煩を憚らず。則ち不遜
之行い、亦自ら作ること無し。久しきに至って之れを安んず。則ち禮に非
らずんば禮に行はず。往く所として非ずと言う事に無きなり。君子敬以っ
て内を直にす。義以って外を方にす。内に存する所の者は敬なり。則ち以
って外に形るる所の者は荘なり。内外交脩みならば、則ち事に發する者は
中なり。射は一芸なり。容禮に比し、節楽に比す。發して而して正鵠を失
わず。是れ必ず義理を楽しみ久しく敬恭に久しくありて、志しを用い分け
ざる之心有り。然る後以って之れを得るべきは、則ち其の以って之を得る
者の所以なり。反れ徳を成す知るべし。」
ここでは、射る者は先ず内志しを正しくして、外体を直くすべき事を説いています。大射・郷射を行うには、先ず君臣の義・長幼の序を明らかにしなければならない。故に射は進退周還の動作は必ず礼に中たらなければならない。この時には、内志しは必ず正しくして安らかにし、外体は必ず直くしてゆったりとしていなければならない。然る後に弓矢を持ること審固である。弓矢を持ること審固であって、然る後中たると言う事が出来るのである。此れを以って射る人の徳行を観ることが出来るのである。と言う意味になります。
呂氏の注釈では更に当時のその射を行うについての礼儀作法を述べています。
現代で言う所の射礼における体配になります。

「射者、仁之道也。求正諸己。己正而後發。發而不中、則不怨勝己者、
反求 諸己而己矣」
読み下し文:
「射は仁の道なり。正を諸(こ)れ己に求む。己正しくして而して後に発す。
発して中たらざるときは、則ち己に勝つ者を怨みず、反って諸れを己に求む
るのみ。」
正義曰く
「此の一経は射は是れ仁恩之道なるを明らかにす。唯内諸れを己に求め、物に
病害せず。既に諸れを己に求む、其の勝たざるを耻(は)ず。乃ち争心有り。
仁を為すこと、己に由(よ)る。射之中否は亦己に由る。他人の能くあず
かる所に非らざる也。故に己に勝つ者を怨みず、而して惟う反って諸れを
其の身に求む。」とあります。

射ることは、仁の道を行うのと同じである。何となれば、射る前に先ず内志しを正しくし、外体を直にしなければ正鵠を得ないから、先ず正しきを己に求め、己を正しくして後に矢を発す。発して正鵠に中たらない時には、決して己に勝った者を怨まず、反ってその正鵠を得なかった事の原因を己に求めて反省するだけである。これが、「禮記」の射義編にある文章です。

これで、皆さんは礼記の中の第46編にある「射義編」の存在を確認すると共に、巻末の全文を確認する事により、道場に掲げられている「礼記射義」がその冒頭の部分と最後の部分を繋いで纏められている事を理解する事が出来るでしょう。

礼記の中では「礼・仁・射など」分かっているようでありながら、理解のし難い概念・用語が沢山あります。これらについては、順次説明しますが取りあえずは、少し現代語に置換えて内容が分かるように、意訳によりご紹介しましょう。

「昔の天子・諸侯が射を行う大射では、射に先立って先ず燕礼と言って天子と諸侯群臣が集まって公式な形での酒宴が開かれ、その中で君臣の大義が明らかにされました。射はその上で行われました。また郷大夫が行う郷射では、郷大夫士が相集まって同じく公式な形での酒宴を開き、その宴を通して長幼の序を明らかにし、その上で射を行いました。弓を射ることは、男子たる者の晴れのことであり、故に必ず礼と楽とを以って立派に射を飾り、射に拠って徳を養い、進退周還(旋)の立ち居振舞い全ての動作が正しく礼に適うように動作するものです。
これらの酒宴・射会を通して、男子はその人柄・人格・礼儀作法等が評価されるのです。多くの高官が列席された場であり、射に対する態度や、礼に即した人間関係や立ち居振舞い等の作法が、厳しい目で見られているのです。
それは儒教の道徳・倫理観に基づく役人の登用・評価の場でもあり、大変に重要な場となります。
(註:中国では役人の選出には、科挙の制度により儒教の試験がなされ、六芸
といって射も試験の科目となっていました。従って、先輩の天子・上級
官僚の列席される場の宴会や射においては、儒教の精神に基づいた君臣
の義・長幼の序等の礼儀作法は必須であったのです。)
勿論、大射における燕礼と郷射における郷飲酒の宴では、宴を通して相い会した人を心から楽しんで貰う事と同時に本来在るべき礼儀を尽くすことが重要です。この場合、君主と大臣の関係や高級行政官と一般役人等との社会組織上の間柄・関係を示す礼儀作法が必然的に要求されます。すなわち君臣の義として、君主は人としての模範的な存在としての仁を示し、家臣は君主に対して忠誠を尽くすという意味の「君臣の義」が確認され、また互いの郷士太夫の間では先輩・後輩の間柄「長幼の序」すなわち年長者は慈しみの心を持って年少者に対し、年少者は年長者に対して常に敬いの心を持って接し、年齢や豊富な経験から来る叡智に尊敬の念を払い、その年齢・経験の量の貧富に応じた人間関係の序列をはっきりさせるのです。
これらの社会の中で定められている五常七道のルールを、特に互いの社会での役割分担に応じた人間関係・それに見合った礼儀作法を宴会の間中でもしっかりと守り・節度を身につけていることが必要であり、立ち居振舞いを通して体現し・披露して、その後始めて弓を射るのです。従って、この大射・燕射・郷射の行事を通して、自ずと君臣の義・長幼の序等が明らかにされ、それぞれ定められた礼にあたる行動が取られなければならないのです。」
「この様な射会に参加する人同士の間柄・関係における礼儀作法を宴を通して確認し合う訳ですから、それ故に射においても、進退周還の全ての起居進退・立ち居振舞いは、必ず礼に則して行わなければならないのです。その時には、心は正しく(正しき道に従う心を持って、敬う心・慎む心を持ち、高ぶり奢る心を捨て・怠惰な心を捨てて安らかな心で)、外体は必ず直く(服装は正しく清潔にし、体は厳かにキリット)して、且つゆったりとしていなければならない。その上で弓矢を持つ時には、いささかのスキも有ってはならない。
この様に心の内側・外側に一分のスキも無い状態で弓矢を持って、その上で正しい道・方法に従った射を行い、矢を発して始めて本当の的中が得られるというものです。この様子を見ていると、射る人の人徳・人柄も自然の内に観察することが出来るものです。
弓を射ると言う事は、人としての理想の在り方としての仁の道を行うことと全く同じことです。何となれば、常に礼の理念に従って行動し、基本に忠実な射を求めて、射および体配をするに至らなければ、真実の的中を得る事が出来ないからです。若しそうでなければ正しい矢が発せられる訳が無く、正しい的中も得られないでしょう。その上で射を競った結果として、自分に勝った者にたいしては怨んではならない、的中を得る事の出来なかった自分自身に対して、的中が得られなかった本当の理由を自分自身に求めて反省をしなければならない。邪な心を持たなかったか・基本に本当に忠実に射る事が出来たか等をよくよく反省して、自分を高めるべく次の努力への糧にしなければならない。この態度・姿勢こそが仁の道であり、その人柄であり人徳を表わすと言えるでしょう。」

と言うような意味に成るのではないでしょうか。
この中で大切な事は「正しきを己に求める」の意味です。何が正しいかは、個人の価値観であり信念となり、正邪の識別をする自分自身が問題となります。従って射を見ればその人の正邪に対する考え方を観ることが出来るからです。的中を求めて手段を選ばない人は、勝ち負けを目的としている人であろうし、勝つ為には在るべき姿を歪める人であるかも知れないと言えるでしょう。
ここで言う正しいとは、儒教の世界における社会的・道徳的・倫理的価値観での正しい事です。そう考えるとその理想の姿としての「仁」の意味が大変に重要になり、また儒教の規範としての「五常七道」の実践が要求されます。それと同時に射技としての正しさである、射の理念や基本の実践も含まれてきます。
何が正しく、何が間違っているのかを判別するのは自分自身であるからです。
自分勝手な正しさでは困る訳です。自分中心の価値観や、利害関係中心の価値観ではいけないのです。天に誓ってとか、神に誓ってと言う絶対的な正しさを求めています。それは、礼記の基本が天即ち本来在るべき理想の姿を前提とした考え方であり、現在の世の中の様な妥協の産物としての正邪の判断基準であるとか、競争社会の中での自己中心の価値観ではなく、高い道徳・倫理に支えられた価値観であるからです。現代の日本の様に和を大切にした伝統的な日本の価値観と工業化社会・競争社会の中での価値観の併存の中で、多様化した価値観の中ではこの「正しきを己に求める」の説明が大変に難しくが、ハッキリさせなければならない内容になると思います。

弓道で言えば、射技の基本の意味であり、礼の意味であり、人としての在り方としての本来在るべき姿でしょうか?
弓道の世界でも昔から破邪顕正と言う言葉が使われます。邪を破り、正しい事を顕すと言う意味です。正邪の判断が出来る考え方がないとこれは実現出来ません。
正しい事と照らし合わせて自分を反省する事により、自分を高めて行く事が出来るのであり、何が正しいかの物差しを明確にしなければならないのは当然の事となります。価値観が多様化している現在において、この「正しきを己に求むる」の言葉は非常に大切な内容を秘めていると思います。

これに関して思い出すのは、日本の武士道における武家社会の幼児教育の在り方です。人を殺傷する事の出来る武器としての刀を持つ事の出来る唯一の階級としての武士が、どんな時に刀を抜くかは非常に重要な課題となります。
自分個人の利害関係だけにより刀を抜かれたら、正常な社会を維持する事は出来ません。社会倫理・道徳の中での在るべき姿に違う時に、正義を正す時にのみ刀を使わなければならないでしょう。将に破邪顕正実現の為の武道で在る事が要求されました。それ故に武家社会では武士の子供に、武術を習う前の年齢、即ち幼少の頃に儒教特に論語を中心とした価値観で、正邪についてのしっかりとした考え方を教え、その上で武術の修練をしたのです。
それだから世界に比類のない道徳・倫理に支えられ、しかも自律的で・自己規制の効いた武士道が日本で育ったのではないかと思います。
現代の弓道においても、長年弓道を修練している間に、正しい事が自然に身に付くと言いますが、それは私は間違いではないかと思います。形から入って心に至ると言う考え方は現代の多様な価値観の時代には正しくないと思います。
矢張り正しい事を理屈の上でしっかりと学び、その上で弓道の修練をすべきではないかと思います。指導者が自信を持って指導出来る射技理論や礼に関する深い智識や人間としての在り方についての智識を以って指導をしなければならないでしょう。指導者自身にも大きな責務が掛かっていると共に、学ぶ人のマナーもハッキリとすべきではないかと思います。
単に矢数を掛けて練習する中では射術は身に付くでしょうが、深い礼や仁の思想の世界には到達出来ないと思います。

本を読むのが嫌いな人や、素晴らしい先輩・先生の話を聴く事の出来ない人では、本当の弓道を学ぶ事は困難ではないかと思います。本当の意味の正邪の判断があって始めて正しきを己に求め、自分を反省して、自分を高める事が出来るのです。ここでは、私なりに相当言葉を付け加えて、内容が理解しやすいように意訳を試みました。

燕射・郷射の射会に先立つ人間関係における礼を、現代弓道流に置き換えて考えるならば、道場の内外での礼、師弟の間柄での礼、組織運営者との間の礼、世代間での礼と言えるでしょうか、この背景には社会の中での役割や人生の長さから来る経験の量の差などにより、教わる事への感謝の念と、経験・体験は文字以上の多くの教訓を得る事が出来ることを認識した上に成り立っていると思います。射においては、師匠の教え又は弓道教本に示されている考え方や射の基本に対して忠実に射を行い、正しい射を絶えず自分に求めて、自分自身の最善を求めて一射一射真剣に練習を重ねる修練に対する姿勢でしょうか?
道場という概念も、現在では単なる練習場と言うものになってしまっていますが、ここには「道の場」としての道場の意味がなくてはなりません。道の概念が非常に大切になります。弓道と言う言葉にも道の言葉が使われています。「弓の道」が弓道であるのです。この礼記射義の説明から外れますので、ここでは道の考え方について述べる事は出来ませんが、よくお考えを戴きたいと思います。

射技の練習についても、的中すれば善いと言う考え方でなく、正しく射る事により的中を得なければなりません。「正しく射れば必ず的中するものであり、的中したから正しい射であった確証にはなりません。」一番簡単に言えば、押し手・妻手共に弛んだ場合には的中するものであり、前矢ばかりの人が狙いを後ろにすれば的中する訳です。それでは的中したから、正しい射であったとは言えない事は説明するまでも無いでしょう。しかし的中をすると人は今の射は善かったとお世辞を言ってくれるから、つい自分も今の射は善かったのかなあと誤解をしてしまう訳です。その為にも何が正しく、何が誤っているかをしっかりと理解していないといけないでしょう。射技においての正しきを己に求め、その結果の的中・不中です。全ては自分に責任の在る事です。この様にして離して的中しなかった時には、決して自分に勝った者を怨んではいけないのは当然です。
反って的中を得なかった自分に何処に不十分な所が有ったか、気持ちの上で自分の至らなかった所は何処か、等を反省しなければならないのです。その考え方の中から「的」は、自分の心及び射を映す鏡と言う考え方が出てきます。矢の行き着いた所を見ながら、自分の射を反省しなければなりません。正しい事に照らし合わせて自らを反省するのです。それ故に審査等でも同じ的中でも甲矢の的中の方が乙矢の的中よりも価値が認められるのです。甲矢の矢処により、反省をして乙矢を射る事が出来るからです。価値が違うのはこの理由によります。
押手と妻手の力のバランスが合っていなかったとか、引き分けの運行が悪かったとか、会における張り合いの方向が間違っているとか、狙い自体が間違っているとか、射としての在るべき姿に対して自分を反省し、それらを気遣いながら更なる修練を重ねるのです。
この正しい射を求めた修練の積み重ねが弓道で一番大切にする所です。
的中を求めた安易な小手先の修正は、正しき道からどんどんと放れて行き、何れは茶ノ木畑に入ってしまう事となります。狙いを変えてでも的中を得たいと考える自分自身の心に問題があると言えるでしょう。的中で評価する弓道の競技であっても、狙いを変えて不正により勝利を得る事に、どんな意味があるかと考える事が自分自身の「弓道の心」を育てる上において大切な事となります。

射を行う心について、「内志正しく、外体直くーー」と言う内容についても、道場に入った時の先輩や先生への挨拶が失礼に当たらないように正しく出来ているかどうかを考える必要があります。先生のご苦労された体験の中から貴重な教えを受けるのです。それがどんな意味と価値を持っているかを考える必要があります。教えてもらう事が当たり前と考える甘えが問題です。その感謝の気持ちがあるならば、先生に対してのご挨拶も、先生の正面に立って「宜しくご指導をお願いします」と挨拶が出来なくてはいけないでしょうし、練習の後では「有り難うございました」と心からの感謝の言葉も自然と出て来るでしょう。
外体直くについて言えば、練習に当たっては、胴着・袴を着用して練習をするのが当然ですが、その服装を正しているでしょうか?帯を締めずに練習をしている人を見掛けますが、帯を締めずにどうして丹田に力が入っているかどうかを確認する事が出来るでしょうか?胴着・袴での正式な服装により、座射で練習することにより、道場を何時も奇麗に保たなければならないことも身に付くのではないでしょうか?練習の入る準備についても、使用する道具の点検をし、練習に先立ち座って心を静めているでしょうか、正座をしてゆがけを挿しているでしょうか?これらは、練習の中での不慮の事故が起きないようにする為に必須の礼儀作法でしょう。また道場の敷居を知らず知らずに踏みつけていないでしょうか?日本の家屋において敷居がどんな機能を果たしているかを知っていないから、敷居を平気で踏んだりもするのでしょう。又先生の敷居を踏んだという厳しい声の意味が理解出来ないのです。こんな道場の中における礼儀作法に関する色々な事柄を沢山含んでいるのが、「内志正しく、外体直く」の意味ではないかと思います。

射礼の行い方について、呂氏の注釈では更に詳しく述べています。
これにより、今から2000年以上も前に中国の宮廷内では既に「射礼」が確立されており実施されていた事実とその内容が理解出来るでしょう。
基本的な部分については、現代の体配と全く同じで在る事を理解するでしょう。
「礼射を行うには、必ず二人が並んで行うのが通例である。故に同じ一組には、
先に射を行う者(前立ちの射手)と後で射を行う者(後立ちの射手)が生れ
ます。共に弓を執り、矢を腰にとる。そして階段に進む時には階段に向かい・
階段に至った後の本座では的に向かい・射位に至った時に、夫々揖を行うの
です。又退く時にも前の如く揖をする。其の行動は、二人の間に前後があり、
階段の登り降りにも後先があります。
射の数は十本です。いよいよ射が始まって、その矢を輻(矢を放射状に組ん
で飾ってある所)まで進み出て矢を手に取る。この場合、初めに揖をして前
に進み、輻の所に至って揖をし、矢を手に取って揖をし、そこで脇に矢を差
し挟んでもう一度揖をします。
そして退く者と矢を取りに進む者と互いに揖をします。
その矢を執る時には、弓を横において、手を下ろし、矢の付いた所を押さえ
て羽さばきをして矢を取ります。
それらの動作は全て作法として定められています。
射終わってからは、勝った者はゆがけを手に付けた侭、張り弓を手に執り、
負けた者はゆがけを取りはずし重ねて、弦を弓から外して手に持って、堂に
登り罰杯を飲みます。勝者・敗者は互いに揖をし合って是を行うのです。
この様に、全ての立ち居振舞いは、必ず礼に適うことは誠に見るべきものが
あります。
先王は、礼法を制定されたが、この礼法たるや何と細々と煩わしい規則であ
ろうか?孔子先生はこれに答えて曰くに「この繁文末節を決めたのは、善い
ことを行わせて人を修養させることに意味がある。確かに君子たる者は、
天下において何時・如何なる時にも、やる事・為す事の全てにおいて、定
められた作法に従って正確に為さなければならない。かくしてこそ夫々の
徳を身につけ、この様に必ず努力を重ねて修養に努めれば、意識をせずと
も自然にそれが出来るようになり、社会に出てから立派な功績を上げる役
人になるであろう。その手足はいたずらに怠ける事を願っているものである。
仮にも敬い・慎む心が勝らなかったら、怠け・怠る心・奢り・高ぶる心が生
じるものである。そうすれば、立ち居振舞いは、作法に適う事も出来なくな
るであろう。体が怠けては、心もこの為に落ち着かない。落ち着かない所で
無理に落ち着こうとすれば、手足はどうして善いか分からない。故に我が侭
勝手や、間違った度の過ぎる様なことをして、夫々の分を越えて、上に逆ら
う事になる。将に何処まで行き着くか分からない有り様である。そうすれば、
天下の乱れはここから始まる事となる。聖人(天子)は、この事をご心配に
なる。故に何時も、如何なる繁文末節であろうとも、これを慎み守り・人を
して事件/事変が起こらない様に、よく修養して身に付ける事が大切である。
これを良く習わせ、煩雑さを厭わないように躾なければならない。そうすれ
ば思い上がった又は謙らないような行動は、自然と起こらなくなるであろう。
そうすれば如何に久しきに亙っても、是を案ずる事が出来る。
そうすれば礼に適わない行動も起きず、また義に外れる事もなくなるであ
ろう。
君子は、慎みの心で身の内を正しくされる。正しき道に従う心を持って、身
の外形を正しくされる。身の内に在るものは、慎みである。即ち身の外形に
現れるものは厳かであるであろう。この様に内も外も互いに整い納まったな
らば、發し現れるものが、正しく無い訳が無い。いわゆる中正である。
射は、一つの技である。容(すがた・たちいふるまい)を礼に照らし合わせ、
節(おりめ)を楽にたくえ・なぞらえたならば、矢は發して正鵠(的)から
外れる事はないであろう。
是は必ず正しい条理を踏む事を楽しみ、久しく敬い・謹んで、その志(精神)
を、事に拠って分かたない強固な心が育てられる事となる。かくして後、ど
んな事態にもいささかも動じない心を持つ事が育つのは、即ち是を持つ事の
出来る所以である。
これは徳を身につけることである。その事を知るべきである。」と言われた。

ここまで確信に満ちて射の在り方について要求しているのは、それなりの意味があります。前にも書いた通り、儒教の五常五教(又は五道・七道・七教)を基盤にして、役人の登用にも儒教の各科目が必須となり、尚且つ射を含めた六芸で選出するのです。これは役人の資格として、全てに対して「公明正大」でなければならない行政官であり、基本に忠実で、正しい在るべき姿を何時までも自分に求めながら、行政をし・係争についての判断をしなければならないからです。
その為には自己が正しく・基本に忠実で・常に冷静に判断が出来る人格を形成し、その中から理想的な政治が為されなければならないと言う政治についての考え方があるからです。それ故に、的中の為の見せ掛けの射芸は、全く排除されているのです。それをしようとする邪な心自体を問題としているのです。
これが礼記の中で求めた射の姿でしょう。

射を行う体配についても同じです。既に2000年以上もの昔から今で言う体配が定められて射をしていたのです。単なる的中のみでなく、礼の心をきっちりと守り、射を行う事を通して社会の中で役立つ自分を作り上げ、社会の中で礼を尽した生活を送り、万民を公平に、しかも温かい心を持って行政する事が出来ると教えてきたのです。
射礼の歴史を見ると共に、現代弓道の理念の神髄を見る思いがします。

02.語彙の解説
.

ここで少し語彙を説明して置きたいと思います。
詳細な概念については、次項以降で説明します。
射:弓を射ること。平時は射で姿形を習い、射術を修める。
射を通して、その徳行・人格を見て「士(中央・地方の行政官)」を選び、天下に事在る時には、これを用いて戦わせる。射には、大射・賓射・燕射・聘射・郷射・ 州射・武射・軍射等が在る。
昔の中国では、地方の役人を選ぶのに「六芸」と言って「礼・楽・射・御・書・数」の試験に拠った。その中には射があり、これは単なる的中で判断すると言うものではなく、射を通して見られる人格・人徳が礼に適った立ち居振舞いや射会の前後を含めたその他での礼儀作法などの全体で判断された。
君臣の義:上下関係の中で守るべき道。五教・五倫の教えの中の君臣の間での
義である。その外には、父子の間に親あり、夫婦の間に別あり、長幼の間に
序あり、朋友の間に信ありとなり、これが人として守らなければならない
人間関係である。
君臣の義:君臣の間に為されなければならない事。君は君主としての道(仁)
を尽くし、臣は臣下としての道(忠)を尽くす事を言う。
父子の親:父子の間にて為されなければならない事。父は子を慈しみ、子は親
を愛して孝を尽くす事。その間には自然の情愛が生れる。
夫婦の別:夫婦の間柄の中で何時も為されなければならない事。夫と妻とも、
夫々定まった役割分担・職分があり、そのきまりを守らなけばならない。
又夫婦の間でも自ずから礼儀があるべきであり、互いに馴れ合い・汚し
合ってはならない。
長幼の序:年齢の長幼の中での為されなければならない事。年長者と年少者と
の間には、道徳上当然守らなければならない秩序がある。即ち、年長者は
年少者を慈しみ・可愛がり、年少者は敬い・貴ぶ事である。
朋友の信:朋は同門の者・友人・同志を言う。
信は、人の言葉は偽りなく、誠・真実であらねばならない。
友人間においては互いに信頼出来る真実がなければならない。
正鵠:弓の的、正は布を張って的を作り、中心に正を描く。鵠は皮を張って作り
、中心に鵠を描く。正も鵠も鳥の名前です。狙い所・要点を言う。
審固:審はつまびらか・細かい所まで詳細にと言う意味です。内志が正しく、
外体が直であれば、弓矢を持つことは自ずから堅固となり、いささかの
隙―スキも生じない。心の中が正しければ、視る力も自然と的を見定め
るにも審かになる。審の字は、野球などの審判と言う言葉を考えて戴け
ば理解出来る様に細かい部分まで見ることとなります。審判とは細かな
処まで見て、ルールに照らして判定すると言う意味です。
義理:正しい筋道。人としてふみ行うべき正しい道。義は、人として常に行
わなければならない五常(ごじょう)の一つです。
五常とは、仁・義・礼・智・信です。
射義を射技と間違えないようにして下さい。意味が全く違ってきます。

03.孔子の考え方と禮の意味するもの


ここでは、礼が中心の課題となっています。
この文章は、今から2500年位前の中国の思想家・哲学者の「孔子(こうし)」と言う人の説かれた「礼」についての考え方を集約した「禮記」という本に礼についての考え方・心得・礼儀作法を記載しています。
孔子は中国の聖人であり哲学者であり、紀元前5世紀の人です。そして「儒教」を確立した人でる。儒教の中国での位置づけを考えてみると、紀元前136年の前漢に中国の国教に定められ、その後清朝までの2000年以上に亙り、中国において行政や市民の生活の中での道徳・倫理の規範として、また社会人としての在り方などの規範として採用され生活に浸透している考え方です。善悪の判断の基準として2000年にも亙り、維持されてきました。

日本には、西暦500年位に仏教と殆ど同時代に紹介され、その後の奈良時代・平安時代・鎌倉時代等の政権の細部に至るまで、儒教の論理が展開浸透されていました。特に江戸時代には儒教の一つの派である「朱子学」が武士の規範として教育に採用され、「武士道」の精神的な部分に多大な影響を与えています。
またこれらの思想は、明治以降も受け継がれ、第2次世界大戦が終了するまでの長い期間に亙り、私達日本人の生活に影響を与えた思想です。
そして現代に於いてもその価値観は社会の中で生き続けています。儒教はこの様にして宗教と言うよりも思想として、哲学として社会制度を含めた社会組織・家庭の中で共通の考え方として定着浸透したものであり、宗教と言うよりも思想・哲学と位置づけた方が善いと思います。

漢文を習われると、必ず出て来るのが孔子の論語でしょう。
又時代劇等で幼少の武家の子供が先生の前で大声で、「子 曰くーー」と呼んでいるのは、この論語です。非常に大切な考え方ですから詳細に説明しましょう。

04.礼記について


礼記の中に射義編があり、これが私達が馴染みになっている礼記射義で在る事は、前述の通りです。では礼記全体ではどんな教典で構成され、どんな事が記述されているのでしょうか。

1)礼記の構成

礼記は、孔子の教えの儒教の中でも論語に次いで大切なテキストです。
孔子は、紀元前1027年から始まった西周の君子の行政を理想の形として、周礼を模範として、神事・祭礼等における儀式の運営に関わる礼法から始まり、社会の中での人間関係の中での礼の位置づけに至るまで細かく定め、生活に根差した礼儀作法の考え方から具体的な方法に至るまでを定めています。それが礼記です。儒教が単に人生哲学の範囲を越えて、元々健全な政治・理想的な政治を求めた孔子の生き方とも大変に関連強く、他の宗教とは少し異質な実践哲学の性格を持っています。
そして儒教は、中国では長年国教として定め運用され社会や個人の生活の隅々に迄に浸透し、その思想や具体的な様式は近隣の朝鮮半島・日本・東南アジア諸国等にも大いに影響を与え、その影響力は仏教同様に絶大なものがあります。

礼記の成立について、下見隆雄先生の「礼記」(明徳出版社)によれば、「隋書」経籍志に記されおり、それによると「漢の初め頃、河間献王と言う人が、孔子の弟子や後の学者達の記しのこした礼に関する記録131編を手に入れて天子に献上しました。その当時はこれを説く者は居なかったが、漢の劉向が経籍の類を調べ、検討した時には130編の記録を見出したと言われます。彼はこれを整理して順序を正しました。そして更に明堂陰陽記33編、孔子三朝記7編、王史氏記21編、楽記23編をも見出しました。全部で5種類・214編になりました。この後、戴徳がこれらの煩雑で重複しているものを省き・調え全部で85編と致しました。これを大戴記と言います。その後戴聖が、またこの大戴の書を省き・整えて46編としました。これを小戴記と言います。
漢代末期の馬融は、この小戴記の学を説いたと言われます。彼は又月令1編・明堂位1編・楽記1編を付け足して、合わせて49編に纏め直しました。
そして鄭玄は、この馬融から学問を受けてこれに注釈を加えました。今、周官6編・古経17編・小戴記49編の計3種類がある」と述べています。

その後も配列の順番等について色々な変遷がありましたが、現在では次の様な構成になっています。
「曲礼上・曲礼下・壇弓上・壇弓下・王制・月令・曾子問・文王世子・礼運・
礼器・郊特性・内則・玉藻・明堂位・喪服小記・大伝・少儀・学記・楽記・
雑記上・雑記下・喪大記・祭法・祭義・祭統・経解・哀公問・仲尼燕居・
孔子間居・坊記・中庸・表記・緇衣・奔喪・問喪・服間・間伝・三年問・
深衣・投壷・儒行・大学・冠義・昏義・郷飲酒義・射義・燕義・聘義・喪
服四制」の49編がそれです。
そして私達が注目する射義編は、上の通り46編目に在ります。

2)礼記全体の内容

では、礼記全体でみた時に、どんな事が記述されているのでしょうか?
全部で49編の礼記を内容別に見ると、通礼として曲礼上下・内則・少儀・玉藻・深衣・月令・王制・文王世子・明堂位があり、次は喪礼でありこれを2つに分けて一つは既喪を扱った喪大記・雑記・喪服小記・服問・壇弓上下・曾子問であり、もう一つは喪の義を述べたものであり大伝・問喪・三年問・喪服四制となります。
次は祭礼について定めたものであり、これも二つに分かれます。一つは既祭としての祭法を述べ、一つは郊特性・祭義・祭統をあてています。
4つ目は通論で、礼運・礼器・経解であり、一つは哀公問・仲尼燕居・孔子問居であり、一つは坊記・表記・緇衣であり、一つは儒行であり、一つは学記・楽記です。ここまでの36編が礼記の中心となります。
この経の後に、冠義・昏義・郷飲酒義・射義・燕義・聘義などの儀礼について纏めたものと、投壷・奔喪の礼の正経となっています。

この様に礼記では、国王の色々な国家行事での礼儀作法から個人としての礼儀作法に至るまで細かく定めています。

礼という考え方は、本来は宗教上の諸行事を行う時に、神・仏に対する儀礼・行事の執行についての手順等から発生しており、真摯な気持ちで、素直に、正直に、神仏に対して無礼・失礼の無いように、定められた通りに行事を執り行う事から出発しており、それを人間社会の中に広げて、共通の価値観の元で、共通の道徳・倫理の考え方・ルールとして定着させ、家庭・社会の中でのお互いの人間関係を潤滑に維持する規範として定着して来ました。

05.礼の考え方・意味について


では礼とは一体何なのでしょう。
礼の考え方は、礼儀作法と言ってしまうから、どうも形式的なものに思われがちですが、礼の心を把握しておかないといけないと思います。
特に弓道を中心とした武道ではこの礼の考え方は重要な事であり、また欧米を初めとした自由平等の横社会の世界にある外国の弓道人に、縦社会の礼のコンセプトを説明する時に重要ですから、しっかりと理解されたいと思います。

1)礼と言う漢字の意味について

「礼」は、本来の字が「禮」であり、これは「示」編に「豊」という字から成り立っています。心の豊かさを示すのが禮と言う字は表わしています。
「禮」の字を漢和辞典でもう少し詳しく調べてみると、「示」編は神様に関連のある言葉が並びます。神社祀祈祇祝祖祢祠祗祕祓祭祷等などと並び、全て宗教と関連のある文字で在る事が理解出来るでしょう。だから、神につかえて、これを祭る時に「ふみ行うべき道」を意味しています。これが「人としてふみ行うべき道」に拡大されて考えられた考えが「禮」にある訳です。その出発点を忘れないようにしてください。新字源(角川書店)で見てみると、示すと豊(ふみおこなう意味)とからなり、神を祭る際にふみおこなうべき儀式、ひいては人の守るべき秩序の意を現わします。

又一説には、豊が祭りの最も重要な儀式の神酒を呑み意と音を示し、ひいては礼法の意を表するとあります。この方が私達には馴染み易いものがありますが、私は前者の意味により、考えたいと思います。

2)礼の概念

この様に考えて見ますと、「礼」の考え方には、外面的な制度・儀礼・作法などだけではなく、人の在るべき姿・人生の意義などの内面的なものを同時に多く含んだ形で、教理が述べられています。人間としての在るべき姿を身に付けているのが仁者であり、そこで示されたものが礼です。これに関しては仁と礼で述べます。神の前にて為すべき事を、人の社会に広げた人間相互の在り方が礼であるとも説明されます。その中心には他を思い遣る考え方があり、併せて大切な事は、孔子の生きた紀元前5世紀の頃は、現在の様に孔子の考え方を記録に残す紙が在った時代ではなく、又印刷術の様に一つの原本から多くの部数作り、一般に広める手段も無い時代であり、こんな時代背景の中で、孔子が話した内容を弟子や学者達が、言い伝え、実践した中から、これらの教えが整備され、体系化されていった事です。それらの考え方は実践の中で淘汰され、それを集大成化して行ったものである事です。
従ってそれらは単なる思想ではなく、実践を通して取捨選択しながら整備していった経緯の中に、礼の意義があり、重みがあり、儒教が現代まで生き続けた秘密が在るように思います。

06.仁の概念について


礼記射義の中で、「射は仁の道なり」と言う大変に重要な言葉があります。
また孔子は「仁」と言う考え方を最も大切にしていること。
そして仁を現わしたのが礼で在る事を考えると、ここで「仁」の概念を明確にしておく必要があります。

しかし残念ながら、仁と言う概念について纏まった形で定義されたものがありません。論語の中でも問答を通して、孔子がこういうのが「仁」なのだと説明しているものから、想定する以外にありません。

論語の中で仁についての記述は56個所にあります。その中で、論語顔淵第十二の顔淵と孔子の問答がよく「仁」について表現されているであろう思います。

以下は吉田賢抗先生の論語(明治書院の新釈漢文大系)から引用紹介します。
「顔淵が仁とはどういうことかを質問した。孔子は己に克ち禮を復むを仁と
為すと言う、当時世間によく言われた古語を用いて答えた。則ち、克己復
禮が仁だよと、自分の身勝手を行わないように、心では自分という者を引
き締め、外部は先王の定めた社会の規則、人の踏まねばならぬものをふみ
行うことが仁である。若し人がただ一日だけでも、この克己復禮で仁を行
うことが出来たら、その影響は広く行き渡って天下の人々が皆仁徳に帰服
するようになるであろう。この己の身勝手に打ち勝って、自分が禮を実践
しうるようにすることは、結局自分の力によって出来る事であって他人の
力に俟って出来るものではない。全て人の身に具わった心の働きによるも
ので、所謂我仁を欲すれば、ここに仁が行うのであるとーーそこで顔淵は
さらに進んで、これを実行する為の細目を教えて下さいと言った。これに
対して孔子は禮に適わぬことを行動にあらわしてはならない。全て人の視
聴言動を禮に合致させるようにせよ。禮は人の世に秩序を与え、社会の平
和になる法則であり、すべて道理に適ったものを、古来の聖人たちが善く
考え・善く行って、身を以ってこの世に残し示したものであるから、これ
に従って視聴言動を慎めば、その侭仁の徳と一致するのであると教えた。
顔淵が感激して回は愚かでふつつか者でございますが、何とかしてこのお
言葉を私の一生の仕事にしたいと存じますと申し上げた。」とあります。
猶、克己復禮についての余説として、次の様に説明されています。
「克己復禮の四字は極めて有名で、己という私心に打ち克ち、外は禮に従って
行動するのが仁である。克己によって調伏した自己が復禮によって、大きく
社会性を帯びて積極へ転じるのである。自己調伏は、己に克つことであるか
らやや消極的に感じられる。孔子の言葉が窮屈に感じられるのは、こういう
所である。しかし、この自己は自分の私欲と言う個人的なものを意味するの
であって、復禮という積極面において一たび否定された自己は大きく昂揚す
るのである。孔子の考えによれば、仁は人の心であり、人そのものであって、
人の内なる心の自然の働きである。己によってのみ得られるもので、人の力
を待たない。人が宇宙間の一物であり、社会の構成の一員であるならば、克
己復禮において始めて心の働きに帰ることが出来る。孟子のいう惻隠の情の
発展したものであり、孔子のいう己を推して人に及ぼす所が、克己復禮の働
きである。こうして社会人としての本当の自由を獲得出来るであろう。顔淵
がその条項を問うたのに孔子は、視聴言動禮に違うなと答えた。礼は先王の
礼であり、孔子が一生を掛けて研究対象とした礼である。仁はこうして孔子
によって新しい生命を吹き込まれた道徳の根本総要である。古来から礼、人
と神との繋ぎ、更に人と人との間の秩序となり、世の規範となった外部的な
ものが、仁と言う道徳の生命に繋がったのである。そしてこの仁は他人によ
って生れるものではなく、自分の心の働きによってのみ生じるものである。
ここにおいて始めて礼と言う外部的規範の学が、仁と言う主観的道徳となる
と共に、人間の自主性を強く打ち出す事によって、人間の価値を高く評価す
る事となった。客観的規範の礼が主観的な仁という徳性に転じた事をしるこ
とが出来る大切な一章である。」

次に同じ文章を、宇野哲人先生の「論語新釈」(講談社学術文庫)の解説から引用して見ましょう。
「顔淵が仁を行う方法を問うた。孔子が答えて言われるには、仁は心の全徳で
天の与えた正しい道であり、天の与えた正しい道が形に表われて中正を得た
ものが礼である。しかし、仁は私欲の為に破られるものである。故に己の私
欲に打ち克って礼に反るのが仁を行う方法である。仁は天下の人の心に同じ
く具わっているものであるから、誠に能く一日の間でも己の私欲に打ち克っ
て礼に反れば、天下の人が皆我が仁を与る程、仁を行う効果は甚だ速やかで
あり、kつ大きいものである。この様な仁を行うのは己自身の修行によるこ
とで、他人に関係あることではない」 顔淵は孔子の語を聞いて、天の与
えた正しい道と人の私欲とのことについて明らかに知って何の疑う処も
無かったので、直ちに己に克ち、礼に反える修行の箇条をお尋ねいたしま
すと言った。
孔子は一身の動作が礼に外れるのを己の心で禁止しなければ、天下から与え
られた正しい道が消え失せてしまうから、礼に外れた色を視ようと思う時は、
必ず心で禁止して視せないにしなさい。礼に外れた声を聴かぬ様にしなさい。
礼に外れた辞を言おうと思う時は、必ず心で禁止して言わぬ様にしなさい。
礼に外れた事は皆私欲である。心でこれを禁止するのは皆これに打ち克つの
である。私欲に打ち克って一挙一動皆礼に合うようにならなければ仁が行え
たと言えるだろう。顔淵は私は愚か者でございますが、ご教訓の語を行う事
は己の任務といたしましょうと答えた。」(程子はこの章の非禮勿視、非禮
勿聴、非禮勿言、非禮勿動は、後世の聖人を学ぶ者の服膺すべきものである
として、視箴・聴箴・言箴・動箴の四箴を作って自ら戒めた。)

ここで、顔淵との仁についての問答を吉田賢抗・宇野哲人両先生の解説を掲げてみました。「仁」の解釈と共に、礼との関係も書かれた部分であり、大変に重要な部分であるので敢えて取り上げました。

その外に、顔淵以外で仁について記述されている処をここに紹介し、仁についてのイメージを持って戴きたいと思います。ここの部分は全て吉田賢抗先生の論語(明治書院)から引用します。

「有子曰く、その人と為りや、孝弟にして上を犯す事を好む者はすくなし。上
を犯す事を好まずして乱を作す事を好む者は、未だ之有らざるなり。君子は
本を務む。本立ちて道生ず。孝弟なるものは、それ仁の本為るか」(学而
第一)
「子曰く、巧言令色 鮮いかな仁」(学而第一)
「子曰く、弟子入りては則ち孝 出でては則ち弟 謹みて信 汎く衆を愛して
仁に親しみ 行いて余力有らば 則ち以って文を学ぶ」(学而第一)
「子曰く 人にして不仁ならば 禮を如何せん。人にして不仁ならば 楽を如
何せん」( 八■第三:人偏に八の下に月)
「子曰く、仁に里(を)るを美と為す。撰びて仁に慮(を)らずんば、焉(い
づくん)ぞ知りたるを得ん」(里仁第四)
「子曰く、不仁者は以って久しく役に慮る可からず。以って長く楽に慮るべか
らず。 仁者は仁に安んじ、知者は仁を利す」(里仁第四)
「子曰く、唯 仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む。」(里仁第四)
「子曰く、まことに仁に志せば、悪しきこと無し。」(里仁第四)
「子曰く、富と貴とは、是れ人の欲する所なり。其の道を以ってせざれば、之
を得るとも慮らざるなり。貧と賎とは、是れ人の悪む所なり。其の道を以っ
てせざれば、之を得るとも去らざるなり。君子仁を去りて、悪(いづ)くに
か名を成さん。君子は終食の間も仁に違うこと無く、造次にも必ず是に於い
てし、顛沛(てんぱい)にも必ず是れに於いてす」(里仁第四)
「子曰く、我未だ仁を好む者、不仁を悪む者を見ず。仁を好む者は、以って之
に尚(くわ)ふること無し。不仁を悪む者は、其れ仁を為さん。不仁者をし
て其の身を加えしめざればなり。能く一日も其の力を仁に用いること有ら
んか。我未だ力の足らざる者を見ず。蓋(けだ)し之有らん。我未だ之を
見ざるなり。」 (里仁第四)
「子曰く、人の過ちや、各(おのおの)其の當に於いてす。過ちを観て、こ
こに仁を知る。」(里仁第四)
「子曰く、士 道に志して、悪衣悪食を恥づる者は、未だ與(とも)に議(
はか)るに足らざるなり。」(里仁第四)
「或る日、雍や仁なれども侫(ねい:弁舌が立つこと)ならずと。子曰く、
焉(い)づくんぞ侫(ねい)を用いん。人に禦(あた)るに口給を以って
すれば、屡(しばしば)人に憎まる。其の仁を知らず。焉んぞ侫を用いんと。」 (公冶長第五)
「孟武伯問う、子路は仁なるかと。子曰く、知らざるなりと。又問う。子曰く、
由や千乗の国、其の賦を治めしむ可きなり。其の仁を知らざるなりと。求や
如何と。子曰く、求や千室の邑(いう)、百乗の家、之が宰(さい)たらし
む可きなり。其の仁を知らざるなりと。赤や如何と。子曰く、赤や束帯して
朝に立ち、賓客と言わしむ可きなり。其の仁を知らざるなりと」(公治長
第五)
「子張問ひて曰く、令尹(れいいん)子文、三たび仕えて令尹と為れども、
喜色無し。三たび之を己めらるれども、慍色(うんしょく)無し。旧令尹
の政(まつりごと)は、必ず以って新令尹に告ぐ。如何と。子曰く、忠な
りと。曰く、仁なるかなと。曰く、未だ知らず。焉ぞ仁なるを得んと。崔子
、斉君を弑(しい)す。陳文子馬十乗あり、棄てて之を違(さ)る。他邦
に至れば、則ち曰く、猶お吾が大夫崔子のごときなりと。之を違る。
一邦に之(ゆ)けば、則ち又曰く、猶ほ吾が大夫崔子のごときなりと。之を
違る。如何と。子曰く、清なりと。曰く、仁なるかと。曰く、未だ知らず。
焉ぞ仁なる得んと。」(公冶長第五)
「子曰く、回や、其の心三月仁に違わず。其の余(あまり)は則ち日月に至
るのみと。」(雍也第六)
「りん遅(人の名前)知を問う。子曰く、民の義を努め、鬼神を敬して之を遠
ざく。知と謂う可しと。仁を問う。曰く、仁者は難きを先にして獲(う)る
ことを後にす。仁と謂う可しと。」(雍也第六)
「子曰く、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静か
んり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し。」(雍也第六)
「宰我問いて曰く、仁者は之に告げて井(せい)に仁有りと言うと雖ども、其
れ之に従わんやと。子曰く、何為れぞ其れ然らん。君子は逝かしむ可し、陥
れる可からざるなり。欺(あざむ)く可し。しう(道理の無いことで目をく
らませて欺すこと)べからざるなりと。」(雍也第六)
「子貢曰く、如し博く民に施して、能く衆を済(すく)う有らば、如何。仁と
謂う可きかと。子曰く、何と仁を事とせん。必ずや聖か。尭舜も其れ猶ほ
諸(これ)を病めり。其れ仁者は己立たんと欲して人を立て、己達せんと
欲して人を達す。能く近く取りて譬ふるを、仁の方と謂うべきのみと」(
雍也第六)
「子曰く、道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に遊ぶ。」(述而第七)
「冉有(ぜんゆう)曰く、夫子は衛の君を為(たす)けんかと。子貢曰く、諾、
吾将に之を問わんとすと。入りて曰く、伯夷・叔斉は何人ぞやと。曰く、古
の賢人なりと。曰く、怨みたるかと。曰く、仁を求めて仁を得たり。又何を
か怨みんと。出でて曰く、夫子は為(たす)けざるなりと。」(述而第七)
「子曰く、仁遠からんや。我仁を欲すれば、斯(ここ)に仁至る。」(述而
第七)
「子曰く、聖と仁との若(ごと)きは、則ち吾豈(あに)敢えてせんや。そも
そも之を為(まな)びて厭わず、人を誨(おし)えて倦まず。則ち云爾(し
かいう)と謂う可きのみと。公西華曰く、正に唯だ弟子学ぶこと能はざるな
りと。」(述而第七)
「子曰く、恭にして禮無ければ則ち労す。慎にして禮無ければ則ちしす(しは
草冠に思う:ビクビクと臆病になること)。勇にして禮無ければ則ち乱す。
直にして禮無ければ則ち絞す。君子親に篤ければ則ち民仁に興る。故旧遺れ
ざれば、則ち民ゆからず(人情にうすくならない)。」(泰伯第八)
「曾子曰く、士は以って弘毅ならざる可からず。任重くして道遠し。仁以って
己が任と為す。亦重からずや。死して後に己む。亦遠からずや。」(泰伯
第八)
「子曰く、勇を好みて貧を疾(にく)むは乱す。人にして不仁なる、之を疾む
こと甚だしければ乱す。」(泰伯第八)
「子、まれに利と命と仁とを言う。」(子まれ第九:ワ冠にハ千)
「子曰く、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず。」(子まれ第九)
「顔淵仁を問う。子曰く、己に克ちて禮を復むを仁と為す。一日己に克ちて禮
に復めば、天下仁に帰す。仁を為すは己に由りて、人に由らんやと。顔淵
曰く、その目(もく)を請い問うと、子曰く非禮視ること勿れ、非禮聴く
こと勿れ、禮言うこと勿れ、非禮動くこと勿れと。顔淵曰く囘不敏なりと
雖ども、請う斯(こ)の語を事とせん。」(顔淵第十二)
「仲弓仁を問う。子曰く、門を出でては大賓を見るが如し、民を使うには、大
祭を承くるが如くす。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。邦に在りても
怨み無く、家に在りても怨み無しと。仲弓曰く、雍、不敏なりと雖ども、請
う斯の語を事とせんと。」(顔淵第十二)
「子張問う。士如何なるを斯(ここ)に之を達と謂う可きかと。子曰く、何ぞ
や爾が謂う所の達とはと。子張対えて曰く、邦に在りても必ず聞こえ、家に
在りても必ず聞こゆと。子曰く、是れ聞なり。達に非らざるなり。夫れ達な
る者は、質直にして義を好み、言を察して色を観、慮りて以って人に下る。
邦に在りても必ず達し、家に在りても必ず達す。夫れ聞なる者は、色仁を取
りて行いは違う。之に居て疑わず。邦に在りても必ず聞こえ、家に在りても
必ず聞こゆ。」(顔淵第十二)
「はん遅(人の名前)仁を問う。子曰く、人を愛すと。知を問う。子曰く、人
を知ると。はん遅未だ達せず。子曰く、直きを挙げて諸(これ)を枉(まが)
れるの措けば、能く枉がれる者をして直からしむと。はん遅退き、子夏を見
て曰く。郷(さき)に吾夫子に見(まみ)えて知を問う。子曰く、直きを挙
げて諸を枉がれるに措けば、能く枉がれる者をして直からすむと。何の謂う
ぞやと。子夏曰く、富めるかな言や。舜天下を有(たも)ちて、衆に撰びて、
皐陶(こうえん:人の名前)を挙げしかば、不仁者遠ざかりき。湯天下を有
ちて、衆に撰びて、伊尹を挙げしかば、不仁者遠ざかりきと。」(顔淵第
十二)
「曾子曰く、君子は文を以って友を曾し、友を以って仁を輔(たす)く。」(顔
淵第十二)
「子曰く、如し王者有りとも、必ず世にして後に仁ならん」(子路第十三)
「はん遅仁を問う。子曰く、居処恭しく、事を執りて敬し、人と忠なるは、夷
狄に之くと雖ども、棄つ可からざるなり。」(子路第十三)
「子曰く、剛毅朴訥は仁に近し。」(子路第十三)
「克伐怨欲行われずんば、以って仁と為す可きかと。子曰く、以って難しと為
す可し。仁は則ち吾知らざるなりと。」(憲問第十四)
「子曰く、徳有る者は、必ず言有り。言ある者は、必ずしも徳有るにあらず。
仁者は必ず勇有り。勇者は必ずしも仁有らず。」(憲問第十四)
「子曰く、君子にして仁ならざる者は有らんか。未だ小人にして仁なる者は有
らざるなり。」(憲問第十四)
「子路曰く、桓公公子糾す。召忽(そうこつ)は之に死し、管仲は死せず。
曰く、未だ仁ならざるかと。子曰く、桓公諸侯を九合するに、兵車を以っ
てせざりしは、管仲の力なり。其の仁にしかんや、其の仁に如かんやと。」(憲問第十四)
「子貢曰く、管仲は仁者に非らざるか、桓公公子糾を殺すに、死すること能
わず。亦之を相(たす)くと。子曰く、管仲桓公を相けて、諸侯に覇たら
しめ、天下を一匡す。民今に至るまで其の賜を受く。管仲微(な)かりせ
ば吾其れ髪を被り衽(じん)を左にせん。豈匹夫匹婦の諒(まこと)を為
すや、自ら溝涜(こうとく)に経(くび)れて、之を知ることなきが如く
ならんやと」(憲問第十四)
「子曰く、君子の道とする者三。我能くすること無し。仁者は憂えず、 知
者は惑わず、勇者は懼れずと。子貢曰く、夫子自ら道(い)ふなりと。」
(憲問第十四)
「子曰く、志士仁人は生を求めて以って仁を害すること無し。身を殺して以
って仁を成すこと有り。」(衛霊公第十五)
「子曰く、民の仁に於けるや、水火よりも甚だし。水火は吾踏みて死する者
を見る。未だ仁を踏みて死する者を見ざるなり。」(衛霊公第十五)
「子曰く、仁に當りては、師にも譲らず。」(衛霊公第十五)
「陽貨孔子を見んと欲す。孔子見(まみ)えず。孔子に豚を帰(おく)る。
孔子その亡きを時として、往きて之を拝す。諸に塗(みち)に遇う。孔子
に謂いて曰く、来れ予爾と言わん。曰く、其の宝を懐きて、其の邦を迷わ
すは、隠と謂う可きかと。曰く、不可なりと。事に従うを好みて、しばし
ば時を失う。知と謂う可きかと。曰く、不可なりと。月日逝きね。歳我と
與ならずと。孔子曰く、諾、吾将に仕えんとすと。」(陽貨第十七)
「子張仁を問う。孔子曰く、能く五つの者を天下に行うを仁と為すと。之を請
い問う。曰く、恭・寛・信・敏・恵なり。恭なれば則ち侮れず、寛ならば則
ち衆を得、信なれば則ち人任じ、敏なれば則ち功あり、恵なれば則ち以って
人を使うに足れりと。」(陽貨第十七)
「子曰く、由や、女(なんじ)六言六蔽を聞けるかと。対えて曰く、未だしと。
居れ、吾女に語らん。仁を好めども学を好まざれば、其の蔽や愚なり。知を
好めども学を好まざれば、その蔽や蕩なり。信を好めども学を好まざれば其
の蔽や賊なり。直を好めども学を好まざれば其の蔽や絞なり。勇を好めども
学を好まざればその蔽や乱なり。剛を好めども学を好まざれば其の蔽や狂な
りと。」(陽貨第十七)
「子曰く、巧言令色、鮮いかな仁。」(陽貨第十七)
「微子は之を去り、箕子(きし)は之が奴と為り、比干は諌めて死す。孔子曰
く殷に三仁有りと。」(微子第十八)
「子夏曰く、博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う。仁其の中に在り 」
(子張第十九)
「子游曰く、吾が友張や、能くし難きを為す。然れども未だ仁ならず。」(子
張第十九)
「曾子曰く、堂々たるかな張や。與に並びて仁を為し難し。」(子張第十九)
「尭曰く、ああ爾舜、天の暦数 爾の躬に在り。允に其の中を執れ。四海困
窮せば、天禄永く終えんと。舜も亦以って兎に命ず」曰く、予小子履、敢
えて玄牡を用いて、敢えて昭らかに煌煌たる后帝に告ぐ。罪有るは敢えて
赦さず。帝臣蔽わず。撰ぶこと帝の心に在り。朕が躬罪有れば、萬方を以
ってすること無けん。
萬方罪有らば罪朕が躬に在らんと。「周に大賓有り、善人是れ富む。周親有
りと雖ども、仁人に如かず。百姓過ち有らば、予一人に在り」権量を慎み、
法度を審かにし、廃官を脩むれば四方の政行われん。滅国を興し、絶世を
継ぎ、逸民を挙げれば天下の民心を帰す。重んじる処は民の食葬祭なり。
寛なれば則ち衆を得、信なれば則ち民任ず。敏なれば則ち功有り、公なれ
ば則ち説ぶ。」(尭日第二十)
「子張孔子に問いて曰く、如何なれば斯れ以って政に従う可きかと。子曰く、
五美を尊び、四悪をしりぞければ、斯に以って政に従う可しと。子張曰く、
何をか五美と謂うと。子曰く、君子は恵にして費やさず、労して怨みず、欲
して貪らず、泰にして奢らず、威ありて猛からずと。子張曰く、何をか恵に
して費やさずと謂うと。子曰く、民の利する処に因りて之を利す。斯れ亦恵
にして費やさざるにあらずや。労す可きを撰びて之を労す。又誰をか怨まん。
仁を欲して仁を得たり。又焉んぞ貪らん。君子は衆寡と無く、小大と無く、
敢えて侮ること無し。斯れ亦泰にして奢らざるにあらずや。君子は其の衣冠
を正しくし、其の瞻視(せんし)を尊くし、厳然として人望みて之を畏る。
斯れ亦威ありて猛からざるにあらざるやと。子張曰く、何をか四悪と謂うと。
子曰く、教えずして殺す之を虐と言う。戒めずして成るを視るこれを暴と
言う。令を慢にして期を致すこれを賊と言う。猶しく之れ人に與えるなり。
出納のやぶさかなる之を有司と言うと。」(尭曰第二十)

この様に考えてみると、論語の中でも色々な面から「仁」を説明していますが、顔淵との問答が一番要領よく纏まっていると思います。これらを整理して仁についての概念をまとめると善いのですが、私の力を越えたものであり、皆さん御自身の理解に委ねたいと思います。これらを前提として、次に移ります。

別の面から見てみると、礼は五常の「仁義礼智信」の仁を形に著したものを礼として、「仁」と言う考え方との関係において理解しなければならないと言われています。即ち「仁」は個人として・社会人としての完成された人間像・理想像であり、完全な人格者として、多くの徳を備えた理想の人間を意味します。
その「仁」を形に現わしたのが「礼」となります。

仁の域にある人が身につけているものが礼となり、礼を身についた人でなければ仁者では無い事にもなります。人間の理想的な在り方の中にこの礼を身に付けていることが必須になっているそんな位置づけの「礼」でも在ります。

新渡戸稲造の「武士道」(元の書は英語で書かれたものであり、その日本語訳を私達は読んでいます)の中で、外国の人に向けての説明として、仁の文字は人が二人いる事を表わしています。即ち、人が二人以上になったならば、人として必ず心得なければならない事、即ち他人に対する「思い遣り」「気遣い」であり、それは親子・兄弟等の間に生れる「親愛の情」が拡張されたものであると考える事ができると説明しています。しかし「仁」は、それ程簡単に定義出来るものではなく、論語においても非常に多くの事例を上げて仁を定義しているのは上記に紹介した通りです。

これらの記述を全部合わせた者が仁者であり、人間の在るべき姿であると説明しているので、非常の漠として掴み所が無い概念です。仁は人としての在るべき姿の理想的なものであり、射は仁の道であり、礼は仁を形に現わしたものであるというのです。他を思い遣り、義理に熱く、正義を実践する事が仁の道とでも言うのでしょう。、
そして「礼」の効用としては、心正しく・身を調え・礼儀正しければ、地位の上下・親子・夫婦・長幼(年齢の上下)・友人同志等の色々な人間関係も自然と親しみ・善い関係が保つ事が出来る事となると、礼の効用について説いています。

07.五常五教(五倫)について


今迄の所で、仁とか礼とか義理とかを言葉として使用しました。
それぞれはどんな概念であり、人間の社会の中でどんな位置づけにあるのでしょう。また正しきを己に求める内容として、射技だけでなく、徳行としての正しい在り方を述べる必要もあると思います。
ここで儒教の中で大変に重要な考え方をである五常五教(倫)について説明する必要があります。これも「礼」と言う概念を理解する上において非常に重要です。

五常とは、人として常に(永遠にの意味もある)行わなければならない事の意味であり、それは「仁・義・礼・智・信」の五つの徳目として定めています。
そして五教とは、君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の間にある人間関係として守らなければならない事となります。これに加えて兄弟・賓客を加えて七教と言う場合もあります。七教については、礼記の王制の中に「七教を明らかにして、それで以って民徳を興す」(七教を実践で明らかにして、民に徳で導く)、又大戴礼では「老を敬い、歯(年長者)を尊び、施しを楽しみ、賢者に親しみ、徳を好み、貪欲を憎み、潔白で遠慮がちであること」と教えています。

この個人として常に為さねばならないもの、即ち共通の価値観としての「規範」となる五常と社会の中での人間関係の「規範」としての五教(五倫)を併せて、五常五教(倫)と表現しているのです。これは、現代においても通用する永遠の価値観であると思いますし、特に武士道の中枢的な価値観で在り、概念ですので善く理解して置かなくては成りません。

前の項で示した「仁」の概念の様に、本来は詳細な概念として説明を加えなければなりませんが、ここでは弓道を実践するについて必要な程度の説明に止めたいと思います。何れにしても、この概念を理解する事なしに、古い武道の書籍の内容を理解する事は殆ど不可能であると思いますので、ここで合わせて紹介して置きたいと思います。

五常をもう少し説明すると、
「仁」とは個人として社会人としての人間の在るべき姿の理想のもので、
聖人・仁者です。仁については具体的にはどういう事かについて論語の
中でも沢山出てきますが、上記で紹介の通りです。ここでは人間として
の理想像とだけ考えて置いてください。
前記の様に新渡戸稲造先生は「武士道」の中で、仁の文字が表わす(人
が二人)如く、人が相い親しみ・いつくしむ意味の二の合字です。二人
以上になった時にそこで自然に表わされる関係、即ち「思い遣り」「気
遣い」の考え方があります。
これは私の考え方からすれば、思い遣り・気遣いとは、競うと言う考え
方ではなく共に住むと言う共存し和平を保つ意味に繋がり「和」を大切
にした考え方でもあると思います。仁の思想は勿論理想的な人間像であ
る訳ですから、和という概念だけでは包括出来ないもっともっと大きな
概念であるとは思いますが、その一部に又は底流に和の概念に繋がる所
があると考えています。
「射は仁の道なり」と表現している「仁」の意味はこの様に非常に深い
意味を持っている言葉です。
「義」は、人としてふみおこなわなければならない道であり法です。
元の意味は、神前で行う舞いを示し、礼に適った行いの意味となり、
転じて道の意味を表わしています。また公共団体・社会を維持する秩序
・ 正義の意味も持ちます。それは転じて公共の為に守るべき道ともな
ります。節度に適った善い事となります。
義気・義挙・義侠・義士・義人・義倉・義憤・義方・義務・義民・義理・
義勇・義烈・奥義・講義・節義・道義・徳義・不義・律義・礼儀・本義・
名義等の言葉に共通な概念を考えればそれらも自ずから明らかになる
と思います。
「礼」は、神を祭る際に踏み行うべき儀礼、ひいては人の守るべき秩序とな
ります。前にも書いた様に、豊(れい)が祭りの最も緒重要な儀式の神
酒を飲むと言う意味の合字で、そこから礼法の意味を表わしているとも
説明されます。
礼意・礼器・礼儀・礼式・礼典・礼装・礼拝・礼状・儀礼・敬礼・婚礼・
葬礼・典礼・拝礼・失礼・無礼・非礼等と使われます。
礼記で取扱う主題であり、ここでの説明は省略します。
「智」は、物事の本質を知り分ける能力であり、単なる知識ではなく、生きた
智恵であり、叡智と考えた方が良いでしょう。智勇・智慮・智慧・叡智・
智能・智嚢等と使われます。
「信」は、人の言葉と言葉が一致している様で、まこと・真実・誠実であり、
信じられ信じる事となります。この文字は孔子の生きた時代を遥か溯る
殷(紀元前1700―紀元前1100)の時代の亀甲文字にあります。
紀元前1700年には既に社会の中での人間関係の在り方として、信と言
う事を大切にして、その文字が在ったと言う事でしょう。この字は人と
言うの合字であり、人の言う事は信じられなければならない。嘘を言う
なと言う事にもなります。言葉により人間社会が動いており、人の言う
事が信じられなければ社会の中での全ての約束事が成り立たない。
自分の都合の善いように本当の事を隠し、世を欺く事が当たり前になっ
てくれば、その社会全体が既に内部から崩壊を始めていると見做すのは
世の東西同じであると思います。
信愛・信印・信義・信験・信士・信実・信書・信証・信条・信託・信念・
信頼・信仰・信者・信奉・自信・確信等と使われます。

この様に、五常のどの概念も人間の社会の中で常に行わなければならない規範で在る事は理解出来ると思います。常の意味は、永遠にの意味があります。

五教は、君臣の義・父子の親・夫婦の別・長幼の序・朋友の信など、言葉は少し適切ではないかもしれませんが、支配する人とされる人・親と子供・夫と妻・年齢の上下・友達同志などの夫々の人間関係における為すべき礼であり、前記の通りであり語彙の説明の所で詳細に述べた通りです。

この様に五常・五教(倫)と言う形で、人間の在るべき姿を求めた考え方が儒教の中心にあり、それだからこそ何千年にも亙り社会の中で不変の価値観として存在し続けてきたのです。礼記射義を考える時に、この儒教の基盤にある考え方・価値観を先ず理解しておいておかないと、困るのでここで敢えて解説しました。

08.正しい人間関係を求めた射


この礼記射義において注意すべき点は、私達が道場の中で読む「射は進退周還必ず礼に中りーー」の前の部分に、お互いの人間関係における礼儀作法により、お互いの関係を明確に確認しあうと言う行為が在る事です。それがあって初めて「故に射は進退周還必ず礼に中りーー」と繋がっていることです。
道場の中での射礼の中での礼儀作法だけでなく、道場の内外における君臣・師弟・親子・夫婦・朋友の間における信頼関係を維持する為の人間関係が前提としてあることです。原典を読んでいないとこれが気付かない事となります。
この様に、弓を射くと言う事は、礼に適った姿・心で行うものであって、的中だけを求めて行うものではないことは礼記射義を日本の各道場に掲げて弓道の目標としている事でも明らかです。礼は、社会の中での人間関係をスムーズに行う為に、お互いに必ず守らなければならない約束事であり、それは射を通して体得しなければならないのです。

儒教が社会の基本ルールになっているのは、中国だけでなく、韓国や日本や台湾その他東南アジア諸国においても儒教精神により社会の基本ルールが成り立っています。それは日本においては前記の様に、西暦500年位に仏教と同時期に日本に紹介され、中国から儒教学者を招聘して当初は宮廷の中で、そして順次武家社会の中で、更にはあらゆる市民階層に浸透し、規範化された。
それらは中国における何千年にも亙る、何時の時代にも替わる事のない万古不易の価値観として淘汰され、定着したルールと言えます。それと同時に遣唐使や遣随使初め当時の文化先進国の中国と深い連携を以って文化連携を取ってきた日本にとっては、どの時代においても中国の政権との交流には、又は色々な儀式における儀礼は儒教の様式に拠らなければならない訳で、その考え方や方法は必須のものであったと思われます。基本の精神は、互いの心遣いが最も大切であり、その方法も合わせて教育されていたと思われます。礼記の教えは射においても同じであり、自分の射を行う心積もり・姿勢・態度を正しくしなければならない事を教えています。これらは、前田巌夫先生の解説書を中心にして纏めたものです。

09.儒教と弓道


弓道と儒教はどんな関係に在るのでしょうか?
日本の弓道と儒教の関係を考える時には、私達は武道と儒教の関係を理解しなければなりません。それは武士道と儒教の関係を説明する事により、全て理解戴けるでしょう。武士道の世界で評価される所は、和の精神を根底に持ち、自律・自制の文化で在る事であろうと思います。武と言えば世界共通して力の論理が中心になりますが、そこに和の文化・自律性が働いているのは極めて高い評価に値するものと考えます。

武家社会の時代に入り、社会の最高階級にある武士が、己を規範にし得るように修練すると共に社会の共有の正邪の判断基準として儒教が取入れられ日本流に特化され、特に江戸時代には儒教の一派の「朱子学」が幕府の正式な教科に定められ、儒教が武家階級だけでなく、庶民の思想基盤にまで浸透しました。
人を殺傷する事の出来る刀を帯ることの出来る唯一の階級として、又士・農・工・商の階層化により社会の維持統率を考えた徳川幕府は、社会の最高階級の武士に厳しい自律精神を要求したのは当然であり、その中枢に儒教が据えられていたということです。そしてそれらの考え方は、武道百般とも言われる剣道・柔道・弓道・居合い道等など・あらゆる武道に共通した徳目として存在します。それは当然の事であり、武家社会の中では、夫々の武道が独立して存在した訳ではないのです。武士である以上はあらゆる武芸に習熟している必要があったのです。遠くからの闘いの間は弓術で善いでしょう、接近戦になれば剣道になります。更に接近すれば組み打ちの相撲が必要になる訳ですから、あらゆる武芸の底流にこの儒教と禅の思想があったのでしょう。それらが専門化して独立した武道になってから、それぞれの武道の共通項として儒教や禅の影響があるのは当然である。これが日本の武士道と儒教の関係であり、武道と儒教の関係です。

日本の何処の道場にも掲げられている、そして弓道教本の一番始めの頁に掲げられている、この「礼記射義」は、私達弓道を修練する者の、心的な最高目標として掲げられているものであります。礼の意味については、兎角形式的な・儀礼的な面に囚われ勝ちですが、問題は「心の問題」です。
本当に相手を敬い・尊敬し、互いが無くてはならない人間同志であると言う実感・認識が無いと、その心が形として自然に現れないのではないでしょうか。
礼とは、それを知らないときに「無礼」となり、知っていても実行されないときに「失礼」となります。礼の基本の精神については、論語の中でも何度も何度も出て参りますが、それらが膨大な形で集約された内容として「礼記」が書かれている事に、その深さと重要さを理解しなければなりません。そしてこれらの礼は、頭の中で考えた作法ではなく、2000年以上に亙る長い年月を掛けて実践されて淘汰された結果、遺されている物である事を理解する必要があります。

昔の中国では、仏教の学者は儒教の学者でもありました。また道教の学者でもありました。その意味では、日本に入って来た儒教には、仏教・道教の影響を受けたものであり、仏教・儒教・道教が夫々棲み分けして結果として紹介され、更に日本の風土に合った形に咀嚼されて定着しました。

本場中国では、紀元前136年の前漢の時代に儒教が国教に定められ、1912年に清朝が崩壊するまでの2048年間に亙り、儒教が国教として維持されてきました。共産中国の誕生と共にその価値観は崩壊しましたが、現代共産中国で儒教が再評価されているのは興味深いものがあります。

中国においては早い時期から高い文化が発達し、隣国は中国から文化を導入して来ました。中国の文化を考える時に、例えば、孔子(BC551―BC479)の活躍した春秋の戦国時代の次の時代は、秦の始皇帝の時代になります。
紀元前221年の事です。日本の邪馬台国の卑弥呼の時代は西暦4世紀の話です。ここには600年の開きがあります。秦の始皇帝の時代には漢字を統一し、度量衡を統一し、大きな宮殿を建設し、万里の長城を建設する文化を既に持っていたのです。従ってこの時代では役1000年の文化的な隔たりがあったと考えて善いでしょう。巨大な中国大陸を統一した秦の始皇帝の時代には、既に組織的な政治形態が確立していたのは当然でしょう。色々な文化も花咲いていた事でしょう。それ故に、日本も遣唐使・遣随使を送り、先進的な中国の文物・習慣・制度を積極的に取入れています。その中国との間に主従関係を結ぶことも政治的安定を得る為に必要な事でも在りました。その中国において紀元前136年の前漢の時代から国教に定められ、秦の始皇帝の時代に一時儒教を排斥した以外は、ずっと中国の国教として君臨したのが儒教です。

儒教はこの様にして中国で生れ、政治権力と結び付けながら、近隣諸外国に大きな影響を与え続けた事はご理解戴けると思います。その意味で、中国で定着していた本来の儒教の形は韓国や台湾に残っており、日本の儒教は神道・仏教などと補完しないながら日本式儒教となっており、細かな点で中国・台湾・韓国などの儒教と相当な違いがあることを理解しておく必要があります。

孔子の論語の思想は、礼記と共に、日本人の知識階級の常識として、明治時代・大正時代・終戦までの昭和時代まで、営々と社会のリーダークラスのみならず、市民一般の基本的な思想として浸透し定着してきました。

弓道が、武道として位置づけられ、その中で紀元前5世紀に生れた孔子の「礼の思想」に基づいて、現代に至るまで営々と継承されている事実は、この教えが「万古不易」の思想であるが故であろうと考えます。逆に言うならば、紀元前500年の頃の思想家の孔子が考えた理念を、2500年経過した現代においても未だ射の理想の精神として追い求め、その実何時までも自分のものにならない「永遠の課題」として位置づけられている事実があります。文明は進歩しての人間の心の進歩はないのだろうか?

孔子の論語は、私も40年間近く親しんでいますが、人間としての在り方をして共感が持てる部分が非常に多く書かれており、流石2千年に亙り存続されてきた価値観であり、考え方である事を実感します。人間が実際の生活や政治の中で体験をしながら、継承してだけの内容をもっています。私に取っても長い期間に亙り座右の書としています。
孔子の関係の書籍も沢山所蔵しています。孔子の儒教は、西周の王の行政における人間を尊重し、自ら民の見本としての君子の在り方を示し、人徳を示し、民が自然と施政者に従いなびく様な、理想的な社会として施政に関わる者の在り方を定め、それに従う民の規範を整理したものと言えます。時代の風雪を経て改定を加え、解釈を加えて現代に継承されているものです。

10.日本の社会における儒教・礼の心


私は、古代の日本の政治の中で儒教を受け入れ、定着させてきた背景として、例えば律令制度などの中国の文化の導入や、政治交流の中での中国と日本の行き来・または朝鮮半島の諸国との文化的・政治的交流においても、儒教の礼儀作法がその共通作法として存在していたという極めて重要な要素がありますが、それと同時に中国文化を本質的に受け入れる共通基盤があったと考えています。
山川に狭く囲まれた地域社会中心の閉鎖的な生活共同体として、日本の地理的条件・自然条件の中で、育まれた社会の規律や人間同志の在り方を、独特の形で生み出して来ており、調和を非常に重要視した風土があり、儒教の色々な考え方も日本的に咀嚼されている部分が多くあります。
広い世界で生れた一つの思想が、或る条件下の社会に定着する為には、それらの咀嚼は当然の事であり、それだから時代を経過しても継承される内容に整ったのでしょうし、それ故に無理が無く重要な思想と言えるでしょう。

弓術が弓道へと変化してきた経緯も理解しておきましょう。
日本においても戦闘の歴史は長く続きました。戦闘の弓矢も術として君臨した時代が長いと言う事が出来ます。現に日本においては織田信長の長篠の合戦において鉄砲が戦闘の武器として地歩を得るまでは、弓矢が戦闘の武器でした。
しかしその一方では、律令制度と一緒に中国の文化が日本の文化に深く浸透しています。天皇・公家の社会においての射礼は既に平安時代から、儀式としての射が宮廷では開かれていたのです。

射礼の形は、呂氏の解説にもある如く、既にこの時代から現代の射礼と殆ど同じ内容の「射における礼」が定められていたのは驚くばかりです。日本には奈良時代に伝えられ、平安時代には大射が行われ「射礼(じゃれい)」として宮廷で行われていたのです。射に関わる諸行事も盛んに催されます。鳴弦蟇目の儀等も宮廷では行われていました。この様に日本においては、戦闘の弓矢としての弓術の流れと、宮廷で行われていた中国の儀礼を伴った射礼が併存していたのです。
発祥の地の中国・伝播の途中の韓国などでは、既に射礼は消失していますが、最果ての地の日本においてこの様に営々と伝承されている事は大切な事と思います。

何れにしましても、道場に掲げられている「礼記射義」の意味を十分に理解して、単なるお経になっていてはならないと思います。その心を十分に理解して、練習を通してその心を体得し、それを日常生活・社会生活に生かされて始めて弓道の意味が出て来ると思います。

11.競う弓道と和の弓道


次に現代弓道における礼記射義の意味を考えてみたいと思います。
弓道とは、「弓」を通して習う「道」なのです。道は何処に繋がっているかを考える必要もあるでしょう。「礼記射義」を「礼記射技」と間違えて書く人がありますが、射義と射技では、天と地程も隔たりが在る事を理解して、間違えないようにお願いしたいと思います。
射を通して体得すべき徳目を大切にしなければならないと思います。射を行う時に為さねばならない道筋であるので、射義と書かれている事に注意して下さい。
礼記の中では、個人としての人の在り方・社会人としての人の在り方について、道徳及び倫理の面から色々とその在り方を述べています。東洋における理想の世界が描かれています。この原点には、人間を愛する・人間同志が信頼しあい・心を通わせ合う「和の考え方」があります。
これを戦後の西欧文化の渦中にある現代日本の価値観と比較して考える必要性があるでしょう。特に、戦後日本の工業化社会への邁進の中で、私達は何時の間にか「科学的合理性」を求め、結果第一主義に犯されている傾向があります。その背景には競う文化があります。結果を大切にする考え方があります。
的中も表面的な的中を求めて、力学的な力のバランスによる射技を求めている傾向がないでしょうか?結果を競うスポーツとしての弓道・娯楽の一つとしての弓道も一つの在り方であり、上達のための道筋ではあると思いますが、伝統的な弓道では「修練を通して自分を鍛え・高めると言う崇高な目的」を持っている事を考えないといけないのではないでしょうか?

競争の原理に基づく西欧文明と調和を基盤にする日本文化、理論に照らし合わせて科学的に合理的に物事を考えようとする西欧文化と、基本になる思想を実際の生活体験を通して累積し、長い年月に亙り継承しながら取捨選択を重ねて淘汰して現代に継承されている「体験を基盤にした」日本文化、これらを考える時にスポーツとしての弓道と、弓の実践を通して人としての道を習得しようという伝統的な弓道とは、その根本として求める目的が違って来るのではないでしょうか?皆さんは如何考えられますか?

競う弓道と自己を高める弓道、的中を得る為に狙いを替えたり、弓具に細工をしたりする事を是とする的中主義の弓道(弓術)への誘惑とどの様に闘い、整合すべきか?
私も実業団弓道を指導している時には、この問題については随分苦しみました。
その結果私自身が考えてきたのは、4段迄は技を鍛える時代、それ以降は技と共に心を鍛えると言う考え方を取ってきました。勿論4段迄と言っても正しい射により、正しい方法によっての射です。こんな考え方の中での技の追究過程です。5段以上になれば中央審査の審査基準でも理解出来るように技だけではクリア出来ない精神的な要素があります。特に、地方自治体の社会教育・生涯スポーツの一環として、初心者から扱うについては、先ずは的中により弓道に対して興味を持って貰う必要があります。そして的中を通して正しい技の構成を身につけて貰う必要があります。その上で同じ的中でも位が在る事を順次説く方法が善いと思います。但しここには条件があります。指導者自身が、礼に則った、自己を高める弓道の意味をしっかり理解し、的中の位についても良く理解して、その上で的中の確実さを教えなければならない事です。的中を得る為に、狙いを変えたり、握りに細工をしたり、弦に印を付けたりと言うのは、的中すると言う目的の為の手段ではあるが、是では正しい技を身につける事は永遠に出来なくなってしまいます。胡麻化しの的中により、本当の自分の射の欠点を隠してしまうからです。
従って、初心の段階から修練の年数を重ねるに従い、スポーツ的な弓道から伝統的な弓道へと、自らが変遷していくことも事実ですが、矢張り一番善いのは当初から伝統的な弓道の求める姿を理解しながら、現在の自分の弓道の取組み方を決める事ではないかと思います。その為には立派な指導者の元での修練が大切となると思います。

12.和の文化としての弓道と礼の思想


私の弓道観からすると、弓道は的中を競うスポーツではなく、和を求め・自己を高める武道精神の中での、本来の日本文化の中での弓道の感覚が必要であると考えています。弓道の本来の姿を理解する為には、日本の文化土壌としての自然の条件と人間の関わり合いかたと、その中に育まれた歴史の中での武道精神を理解する必要があると思います。

第一点目の自然については、狭い起伏に富んだ国土です。
人の移動を容易に認めない山や河川の入り組んだ地形の中で、自然と共に生きた日本民族です。自ずから「和」「調和」を社会の規範として大切にしてきたことです。又閉ざされた世界でありながら、四季の折々の食糧を植物からも動物からも入手出来た恵まれた自然が西欧の様な大陸と違い、共棲・共同生活を基本にして社会の組織やルールを作って維持してきた事です。

第二点目は、弓道は武道の一つであることです。武道は武士道に繋がります。
人間同志の闘いを美化する積もりはありませんが、何も理解をしないで排斥するのはもっといけないと思います。武道精神・武士道は、世界でも非常に高く評価されている哲学的な内容を持つものです。日本文化の中で非常に高く評価される価値を持ったものだと思います。

武の精神は、中国の思想を受け入れていますが、戈(か)を止めることを武の本質としました。文字については、新字源(角川書店)で見ると、戈(か)はまたぐの意味であり、一跨ぎから転じて戦の強さの意味になった。一説に戈を持って攻めに行くと、止めるの会意とも説明しています。私はここでは日本独特の「和の文化」と関連させた、闘いを止める意味としての武の考え方を採用したいと思います。これは、上の「和の文化」「調和の文化」と関連を持ちます。和を前提とした闘いが、中国・日本での闘いの理想であり、基本となると言えるでしょう。

歴史的に見た場合、異民族同志の闘いでは勝者は敗者を隷属し、勝者の文化を移植し、敗者の文化は根こそぎ排除されるのが通常の形態です。これは大陸である、欧州や中国等の戦争の事実から明らかであろう。日本においても西欧や中国の様な大陸での人の闘いの様に、闘いの後で被征服民が奴隷化された時代もありますが、島国と言う閉鎖的な環境の中で全体的には同一民族の日本における闘いは内乱であり、自分の氏・素性を声高らかに名乗り上げて闘いをする文化です。
恥じの文化はその表側に礼の文化があるのです。戦闘時代においてさえもこの正義・公正を求めた闘いであり、大儀の為の戦闘であったのです。ましてや戦闘が終了して平和な時代になっての射の意味は、将に自己を鍛え、社会が要求する徳目を修練により習得する修行としての弓道の位置づけがあります。

13.自己規制・自律を求める弓道

礼の思想に基づく日本での弓道は、鎌倉時代を経て室町の時代に武士の在り方としての武士道と結び着きました。更には戦闘の形態も弓矢の時代から鉄砲の時代に移る中で、敵を倒す武器としての弓の術から、自己を鍛える道としての弓道へと替わって来ました。元来が相手の居ない弓の道です。静止した的に、自分の弓矢で、同じ距離から射を行うのです。修練により基本の射術が身につき、心が安定していれば、何時も同じ所に矢は到達する筈の弓道です。ここに術の中に心の要素が入る、相手の居ない弓道が、自己を規制し、自己を律するに最適な道としての弓道が確立されるに至ります。
武家政治の時代に士農工商の身分性により「武士・農民・工業・商業」の階層に分け、その中で人を殺傷し得る「刀」を持つ事を唯一許された階級として武士が厳しい自己規制・自己規範を持つことが要求され、人としてのあり方・個人又は社会人としての社会秩序・社会規範を身を以って例示する責任と共に、その教育と実際の生活が統制される中で武士道が築かれていったと言うことです。ここに儒教・仏教と武士道との関わり合いを認めない訳にはいけないところが出てきます。

互いの人間関係を大切にした「心の結び付き」は「思い遣り」「互いの気遣い」を始めとして、狭い地域で肩を抱き合って生きなければならない私達が、大切にしなければならない徳目として日本民族が大切にしてきた理念なのです。
そしてこれからの時代においては、物質と心を旨く融合させて、本当の人間の幸せを築いて行かなければならないと思います。そしてそれらを成すのは人の考え方・思想から出発します。ここに弓道人が果たすべき役割があります。

14.再び「礼記射義」の教えるもの


「礼記射義」の深い意味を考えて、心豊かな生活が弓道を通して実現したいものです。礼の思想が、形だけに流れないようにその本当の意味を良く理解をして、礼を尽くさなければならないと思います。この時、こちらを礼を尽くしても上位の人が応分の礼を返さないからと、礼の機会に人間関係が崩れる事がありますが、注意をしなければならないことです。
礼は、自分が相手の人に対して持つ感情であり、作法であり、相手の人が自分に対してどのような礼を返すかとは関係がないのです。段位が上がり、称号を取ると一度に態度が替わる人がありますが、それは所詮それだけの人格でしかないと考えれば善い事でしょう。「実る程 頭を垂れる 稲穂かな」の古語を思い出しながら、互いに注意し合って明るい社会の一員となりたいものです。

日本においては、礼の対象に応じて、礼の目的に応じて、9種類の礼を使い分けています。私達の弓道においても、指建礼・折手礼・托手礼・双手礼・合手礼等が使われています。
神社などでの神拝の仕方についても乱れている事を悲しく思います。
日常生活の中で礼がしっかりと出来る人は、それだけで信頼が出来る様に思います。心を失った礼は、反って不快感を相手に与えている事を、本人は知らずにしており、悲しいことです。これは形に囚われて、心を失っているからでしょう。
中国で生れた「礼記射義」が、本場の中国ではなく、日本において弓道と共にその心を求め、現代に於いても更にはこれからの続く時代にも永遠に求め続けられるでしょう。それは人間社会における一番基本的な在るべき姿を求めているからであり、特に日本の地理的な環境の中で育まれた文化の中で、深く結び付くものがあるからでしょう。そして更には、これから一層世界の時間距離が狭くなっていく時代に、互いの民族同志が和して共存してゆく為に、「礼の思想」その中の「和の思想」の意味は一層重要になってくるでしょう。

競う射ではなく、礼に即した、的に届いた矢により自分の射を反省し、常に正しきを己に求める生活態度や基本に忠実な射を求める心の持つ意味は一層深まるでしょう。私達弓道人が、率先してこれらの心を体得した結果を、家庭生活にそして社会生活に生かす事により、本当の意味の「礼記射義」の心が人間の幸せな生活に結びついて生かされるでしょう。

今、西欧の文化の反省の中で、礼を中心にした道徳観・倫理観が研究されています。弓道のおける礼が形式的な礼の世界ではなく、その精神性迄も含めた礼として体得して行く事がこれからの社会の中で、益々重要になるのは当然であると考えられます。

礼記射義の解説を私なりの視点で説明をしてみました。皆さんの参考に供することが出来たとしたならば幸いです。

15.礼記の射義編全文


禮記射義が引用されている「禮記の第46射義編」の全文を以下に参考に紹介します。資料は、前田巌夫先生のものより引用し紹介します。

禮記 集説巻之三十 射義(編)第46講義 宋 衛堤 撰

古者諸侯之射也、必先行燕禮。郷大夫士之射也、必先行郷飲酒之禮。故燕禮者、所以明君臣之義也。郷飲酒之禮者、所以明長幼之序也。
註:
正義曰、此経明将射之時、天子諸侯先行燕禮。所以明君臣之義。郷大夫将射、
先行飲酒之禮。所以以明長幼之序也。
呂氏曰、諸侯之射大射也。郷大夫之射郷射也。射者男子之事。必飾之以禮楽
者、所以養人之徳、使之周旋中禮。蓋燕與郷飲、因燕以娯賓。不可
以無禮。故有大射、郷射之禮。禮不可以無義。故明君臣之義、與長
幼之序。

故射進退周還必中禮。内志正外體直、然後持弓矢審固。持弓矢審固、然後可以言中。此可以觀徳矣。
註:
正義曰、此一経明射者之禮。言内志審正、則射能中。故見其外射、則可以觀
行。故言可以觀徳行矣。
呂氏曰、禮射者必先此■(ヒの下に禾を置いた偏に、作りは田の下にぐうの
あしを置いた文字で標準指定にはない)。故一■皆有り上■下■。
皆執弓而挟矣。其進也。當階及階、當物及物、皆揖。其退也、亦如
之。其行有左右、其升降有先後。其射皆拾發。其執矢干輻也。始進
揖、當輻揖。取矢揖、取◆(手偏に晉)挟揖。退與将進者揖。其取
矢也、有横弓郤手、兼●(弓偏に付)順羽、拾取之節焉。卒射而飲。
勝者祖決遂執張弓。不勝者襲説決、拾加弛弓升飲。相揖如初。則進
退周旋必中禮可見矣。夫先王制禮。豈苟為繁文末節、使人難行哉。
亦曰、以善養人而己。蓋君子之於天下、必無所不中節。然後成徳。
必力行而後有功。其四肢欲安佚也。苟恭敬老之心不勝、則怠惰傲慢
之気生。動容周旋不能中乎節。體雖佚而亦為之不安。安其所不安、
則手足不知其所措。故放辟邪侈、弁(本文は足偏に諭の作りを当て
ている)分犯上。将無所不至。天下之乱自此始矣。聖人憂之。故常
謹於繁文末節、以養人於無所事之時、使其習之、而不憚煩。則不遜
之行、亦無自作。至於久而安之。則非禮不行。無所往而非義矣。君
子敬以直内。義以方外。所存乎内者敬。則所以形乎外者荘矣。内外
交脩、則發乎事者中矣。射一芸也。容比於禮、節比於楽。發而不
失正鵠。是必有楽於義理、久於敬恭、用志不分之心。然後可以得
之、則其所以得之者、其為徳不知矣。

其節天子以趨(本文は馬偏)虞為節。諸侯以貍首為節。郷大夫以采蘋為節。士以采繁(本文草冠あり)為節。趨(本文馬偏)虞者、楽官備也。貍首者、楽会時也。采蘋者、楽循法也。采繁(草冠あり)者、楽不失職也。是故天子以備官為節。諸侯以時会天子為節。郷大夫以循法為節。士以不失職為節。故明乎其節之志、以不失其事、則功成而徳行立。徳行立、則無暴乱之禍。功成則国安。故曰、射者所以観盛徳也。
註:
正義云:此節明天子以下射禮楽章之異。是故天子以備官為節、謂歌貍首也。
郷大夫以循法為節、謂歌采蘋也。士以不失職為節、謂歌采繁(草冠
あり)也。節者、歌詩以為發矢之節度也。一終為一節。周禮射人云。
趨(馬偏)虞九節、貍首七節、采蘋采繁(草冠有り)皆五節。尊
卑之節、雖多少不同、而四節以盡乗矢則同。如趨(馬偏)虞九節
、則先歌五節以聴、則發四矢也。七節者、三節先以聴。五節者、
一節先以聴也。

天子将祭、必先習射於澤。澤者所以撰士也。己射於澤、而後射於射宮。射中者得與於祭。射不中者、不得與於祭。不得與於祭者有譲。削以地。得與於祭者有慶。益以地。進爵退(本文では糸偏に出る)地是也。
註:
正義云:前経己言数與於祭而君有慶、数不與於祭而有譲。此経又重言者、前
経明諸侯貢士之制。故賞罰所貢之君。此経論人君将祭撰士、賞罰其
士之身。故於此又重言也。澤宮名。其所在未詳。疏云、於寛閑之処、
近水澤而為之。射宮即学宮也。進爵退(本文では糸偏に出る)地者、
疏云、進則爵軽於地。故進爵而後益以地也。退則地軽於爵。故先削
地而後退(本文糸偏に出る)爵也。

故男子生、桑弧蓬矢六、以射天地四方。天地四方者、男子之所有事也。故必先有志於其所有事、然後敢用穀也。飯食之謂也。
註:
正義云:此一経明男子重射之義。以男子生三日、射人以桑弧蓬矢者、則有為
射之志。故長大重之。桑弧蓬矢者、取其質也。所以用六者、射天地
四方也。所以禮射唯四矢者、示事有不用也。四矢者象禦四方之乱。
宇宙内事、皆己分内事。此男子之志也。人臣所以先盡職事、而後敢
食君之碌者、正以始生之時。先射天地四方、而後使其母食之也。故
曰飯食之謂也。飯食食子也。
射者、仁之道也。求正諸己。己正而後發。發而不中、則不怨勝己者、反求諸己而己矣。
註:
正義云:此一経明射是仁恩之道。唯内求諸己、不病害於物。既求諸己、耻其
不勝。乃有争心矣。為仁由己。射之中否亦由己。非他人所能與也。
故不怨勝己者、而惟反求諸其身。

孔子曰、君子無所争。必也射乎。揖譲而升、下而飲。其争也君子。
註:
朱子曰:揖譲而升者、大射之禮■(ヒの下に禾編、作りは田にぐうのあし)
進。三揖而後升堂也、下飲、謂射畢揖降、以俟衆■皆降、勝者乃揖
不勝者、升取◆(角偏に単)立飲也。言君子恭遜、不與人争、惟於
射而後有争。然其争也。雍容揖遜乃如此、則其争也君子、而非若小
人之争矣。今按揖譲而升、未射時也。下而復升、以飲則射畢矣。揖
譲而升下五字、當依劉作りはこざと)註為。

孔子曰、射者何以射、何以聴。循聲而發、發而不失正鵠者、其唯賢者乎。若夫不肖之人、則彼将安能以中。詩云、發彼有的、以祈爾爵。祈求也。求中以辞爵也。酒者、所以養老也。所以養病也。求中以辞爵者、辞養也。
註:
正義云:前経論射求諸己、乃有争心。故此明射之難、以中為貴。
孔子曰:射之以楽也。何以聴、何以射。謂射者何以能不失射之容節、而又
能聴楽之音節乎。何以能聴楽之音節、而使射之容、與楽之節相応
乎。言其難而美之也。循聲而發、謂射者依循楽聲、而發矢也。盡
布曰正、棲皮日鵠。賢者持弓矢審固。故能中的。不肖者不能也。
詩小雅賓之初筵、發猶射也。爵謂罰酒之爵。中則免於罰。故云者、
求中以辞爵也。酒所以養老病。今求免於爵者、以己非老者病者、
不敢當其養禮耳。此譲道也。
以上が「禮記」の第46編「射義編」の全文及び、それについての解釈についての参考です。ここで「正義」とは、経書の解釈書の名前であり、正しい解釈の意味です。 以上

参考文献:

全日本弓道連盟 弓道教本
前田巌夫 禮記 集説集 巻之三十 射義篇第四十六講義
武経 射学正宗・武経射学正宗指述集
下見隆雄 礼記 中国古典新書 明徳出版社
濱口富士雄 射経 中国古典新書 明徳出版社
吉田賢抗 論語 新釈漢文大系 明治書院
宇野哲人 新釈 論語 講談社 学術文庫
貝塚茂樹 論語 講談社
陳 舜臣 儒教三千年 朝日新聞
溝口雄三・中島嶺雄 儒教ルネッサンスを考える 大修館書店
加地伸行 孔子画伝 集英社
孔子 プレジデント社
孔 健 孔子家の極意 日本文芸社
同 孔子と論語のこころ 日本文芸社
孔 祥林 孔子家の家訓 文芸春秋社
同 素顔の孔子 文芸春秋社
松村 映 儒教の毒 PHP
守屋 洋 論語の人間学 プレジデント社